5-48.大人の道理。子供の理屈。
遥は結局、最後まで自身の想いを言葉にはしなかった。
病院の定める面会時間が残りわずかになって、青羽たち三人がひと時の別れを切り出さねばならなかった際にも、遥から返って来たのは「うん」という小さな頷きだけ。
ただ、それでも沙穂は、楓は、青羽は、確かに遥の想いを受け取って、確かにそれを心に響かせている。
遥の病室を後にした三人が律儀にも駐車場まで戻って来ると、賢治にもそれがハッキリと分かった。
「「賢治さん!」」
声を揃えて駆け寄って来た沙穂と楓の瞳が一層の眩しさを溢れさせていたから。
「賢治さん…!」
沙穂と楓の後に続く青羽の眼差しがいつもの真っ直ぐさを取り戻せていたから。
「あぁ…、三人とも…」
沙穂は、楓は、青羽は、確かに遥の想いを受け取って、確かにそれを心に響かせている。三人の顔を間近で見れば、それがよりハッキリと分かった。
「ありがとう…」
何も聞かない内から告げられたその感謝に、青羽たち三人がほんの少しだけ戸惑った顔を見せたとしても、賢治はいま穏やかな心持で小さく笑みをこぼさずにはいられない。
「ハルは…泣けたんだな…」
賢治のそれはどちらかといえば安堵からくる独り言に近い呟きではあったのだが、これにこそ青羽たち三人からは決して少なくない戸惑いと共に驚きの声が返って来る。
「えっ、確かにそう…ですけど…」
「でも、ワタシたち、まだ何も…」
「賢治さん、どうしてそこまで…」
報告もしない内に何故、と揃いも揃って目を丸くする三人の無自覚ぶりは、ともすれば些か滑稽ですらあったかもしれない。特に沙穂などは下手に化粧っ気がある所為で、目元に残った涙の痕が月影の下でも比較的鮮明に見て取れたのだから。如何に鈍感な賢治といえどもそんなものを見せつけられれば、遥もまた泣いたであろう事くらいは、容易に察しが付くというものだった。
「どうしてって、そんなものは―」
見れば分かると、思わずありのままを答えてしまいそうになった賢治だが、それを寸前で思い留まったのは、遥の為に泣いてくれたであろう沙穂の化粧崩れを今ここで論うのは少々無粋な気がしてならなかったからだ。
「あー…その…なんだ…」
一体どう応えれば三人は納得するだろうかと、言葉を濁しながら逡巡するも、賢治は元来あまり方便が得意な方ではない。
「まぁ…なんつうか…あれだよ…ハルの事…だしな…、そりゃあ、分かるさ…」
結局、特にこれといって気の利いた答えも思いつかず、そんなある種の究極論で誤魔化すしかなかった賢治だがさて、果たしてこれを受けた三人の反応はどうだったか。
「なるほど、それもそうですよね…」
「カナの事なら何でもお見通しかぁ」
「そういうとこは、敵わない…なぁ」
等々、青羽たち三人は口々に納得と感心の言葉を返して来る始末。
丸っきりの嘘と言う訳では無かったものの、誤魔化し半分だったその回答をここまであっさり信じられてしまうと、賢治としては一抹の心苦しさを覚える共に、幾らなんでも純粋に過ぎる三人が少々心配にもなって来る。
「おまえら…」
人生の先達としてここは少しばかりの忠告をしておいた方が良いだろうかと、そんな老婆心をくすぐられもする賢治だがしかし、それと知らずに青羽たち三人はもはや純粋を通り越していっそ無邪気ですらあった。
「でもそっかぁ、賢治さんは、最初から全部分かってたんですねー!」
楓のそれは、もちろん好意的にも程がある拡大解釈以外の何物でも無く、賢治がこれに思わず頭を抱えそうになったのは言うまでもない。
「い、いやいや…」
堪らずかぶりを振って否定の意志を伝えてみる賢治ではあるが、楓はそれを謙遜とでも思ったのか、「またまたー」等と言って取り合ってくれず、そうこうしている内に今度は青羽がしみじみとした面持ちこんな事を言う。
「俺たち―特に俺なんかは、賢治さに助けられてばかりですね…」
確かに、今回の事に限らず、何度かその様な形になる働きかけをしてきた自覚は賢治にも少なからずあった。ただそれはいつだって遥の為であり、もしも青羽がその辺りを取り違えているのだとしたら、賢治はこれにもやはり否定の意を示さねばならないだろう。ただ、その是非を確かめるよりも早く、今度は沙穂までもが思わぬことを口にした。
「賢治さんは、なんだかんだで『大人』ですよねー」
如何にも沙穂らしいかったその総評。
沙穂がそれを好意的な意見として述べていた事は、おそらく間違いないだろう。
ただ、例えそれがどの様な意味合いであったとしても、沙穂が使った『大人』というその言葉は、賢治をハッとさせるには十分過ぎるものだった。
「あ…、あぁ…、そう…なのかも…な…」
賢治の口からもれたその感嘆は、無論、沙穂の総評に対する肯定の意思表示などでは決してはない。
「そう…だな…、そう…なんだろうな…」
賢治は今まで、青羽たち三人が自分などの言葉を信じてしまうのは、その純粋さ故だと、そう思っていた。けれどもそうでは無かったのだ。それだけでは無かったのだ。
「確かに俺は、『大人』なんだろう…」
だからこそ、まだ『子供』の青羽たちは、信じてしまった。
子供の彼らは『純粋』で、そうでは無い自分は大人だったから。
「青羽…、ヒナちゃん…、ミナちゃん…、すまない!」
不意に告げられたその謝罪にキョトンとしてしまっていた青羽たちには、その意味が全くもって分からなかった筈だ。在りし夏祭りの晩に、賢治が一度、それを辞めると決めていたことだって、青羽たちからすれば知る由も無い事なのだから。
「確かに俺は…『大人』だった…!」
沙穂が好意的な意味合いを込めて使ってくれたかもしれないその言葉を、賢治はいま『戒め』として口にする。如何にも尤もらしい理屈を並べ立てて、純粋な『子供』である青羽たちを信じさせてしまった罪深い『大人』に成り下がってしまっていた自分への戒めとして。
「あ、あの…?」
「え? えぇ?」
「賢治…さん?」
三人はやはり、意味が分からないと言った様相で唯々困惑頻りだったが、だからこそ賢治は自らが『大人』である事を一層深く省見ずにはいられない。
「俺はキミたちを都合良く利用した! 本当にすまない!」
確かに青羽たちは、理不尽な『犠牲』としてではなく、『願い』や『希望』を持って遥の想いを受け止めて来てくれた。けれどもそんなものは、結局のところは結果論なのだ。
「本当に…すまない…」
全ては遥の為。無論、その想いは今でも揺るぎないものではある。
それでも賢治は、自分が卑怯な『大人』になって下がっていた事に気付いてしまった今、どうしたって認めざるを得ない。青羽たちに遥の『重荷』を幾らか引き取らせる事で、『楽』をしようとしていた自らの浅ましさを。
「すまない…すまない…!」
今や賢治の首は深く、深く下がってゆくばかりだったがしかし、そこへまたしても思いがけない言葉を掛けたのは、やはり沙穂だった。
「何かと思えば、そんなことぉ?」
ともすれば、小馬鹿にしている様ですらあったその口ぶり。ただ、その言い様に思わず顔を上げてしまっていた賢治は、直ぐにそうでは無い事に気が付いた。
「なっ…」
憎らしい程だったその言い様とは裏腹に、沙穂の瞳に揺らいでいたのはそう、遥の元から戻ってきたその時から変わらない溢れるばかりの眩しい光。そしてそれは、何も沙穂だけではない。
「ふふっ、そんな事で謝られても困りますよー」
そう言ってクスクスと笑う楓の瞳にも。
「そうですよ賢治さん、そんな事で謝らないでください」
今も変わらず真っ直ぐだった青羽の眼差しにも。
「俺たちは、確かに賢治さんほど大人じゃないですけど」
そうだ。だからこそ自分はそこに付け込んで、利用してしまってしまったというのに。
「そうそう、ワタシち、まだまだ子供なんですから!」
だから利用されても当然だなどと、そんな事は決して無い筈なのに。
「キミたちは…どうして…そんな…」
彼らはどうしてこんなにも眩しく有れるのか。賢治には、その理由が分からなかった。賢治は『大人』になってしまっていたから。とても、とても、簡単な事だったその理由に気付けない程、賢治は『大人』になってしまっていたから。
「貴方だって、知ってたはずですよ?」
無邪気に、それこそそう、子供の様に笑って沙穂は、賢治に今一度それを知らしめる。
「大人の事情なんて、子供には関係ない! ってね!」
余りにも単純で、余りにも乱暴だったその理屈。けれどもそれは、確かに賢治もかつては知っていた筈の絶対的な真理。
「だからあたし達は貴方がどう思っていようと、感謝だってしちゃうんです!」
そう言って誇らしげに笑う沙穂は、もしかしたら初めから見透かしていたのかもしれない。賢治が抱えていた負い目や、そこにあった葛藤すらも。そうだとすれば、沙穂が『大人』だと言ってくれたのは、きっと知って欲しかったからだ。大人である賢治よりも、よっぽど身勝手だった子供な自分達を。
「あぁ…ああ…」
彼らを犠牲にしてしまったなどと、とんだ思い上がりだった。
それを知れた今、賢治の方こそ感謝の言葉を告げずには入れれない。
「ヒナちゃん…、ありがとう…、ありがとう…」
賢治が心から告げたその感謝にも、沙穂は無邪気な笑顔をみせながら、三度目の思いがけない言葉をも口にする。
「そういうのは、行動で示してもらわないと」
そうは言われても、一体何をすればいいのか分からなかった賢治が思わず眉を潜めてしまうと、今度は楓がまたクスクスと笑った。
「うんうん、そうだよね、ワタシたちの次は、賢治さんの番だもんね!」
ここまで言われれば、賢治にも分かる。感謝の代わりに自分が今、示すべき行動。
「賢治さん、後はお願いします…!」
その言葉に込めて青羽が託してくれたのはきっと、あの眩しい程の『願い』や『希望』に違いなかったのだから。
「ああ…! ああ!」
青羽たちからバトンを受け取って、賢治はいま、歩み出す。
必ず戻ると約束した遥の元へと。




