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5-43.優しさ、弱さ、罪科

 病室を満たす重苦しい空気。流れてゆく無為な時間。

「……」

 自分の所為で、沙穂や、楓や、青羽に辛い思いをさせてしまった。

 きっと、遥はいま、そんな自責念を募らせて、深く、深く、打ちひしがれている。

 それくらいの事は、賢治にだって、否、賢治だからこそ容易に想像できた。

 それは、自分の置かれていた状況や、おおよそのいきさつに理解が及んでからというもの、遥が何も言わずに唯々俯くばかりだったからではない。

 確かにその沈み様からも遥の心境がありありと伝わってきてはいたが、それ以前に賢治は良く知っていたのだから。いつだって、どんなときだって、自分の事よりも、周りの事を気遣ってしまう遥の優しい性格を。

 だから賢治には、その心境がそれこそ手に取る様に容易く想像できた。遥を『心配』してやまなかった沙穂や、楓、それに青羽の姿をもその目で見ていただけに、尚更ハッキリと。

「……」

 賢治が知らせを受けて病院に駆け付けた時、そこには顔面蒼白で憔悴しきった青羽と、そんな青羽を半狂乱状態で責め立てる沙穂と楓という地獄絵図が広がっていた。

 その為に、賢治はまず三人を宥めて、病室を追い出すところから始めねばならなかったが、今にして思えば連絡を受けてから駆け付けるまでの間にも、その場では其れがずっとそれが繰り広げられていたのだろう。

 そもそも連絡をくれたのは沙穂だったのだが、通話越しに聞こえて来たその声が酷く取り乱している様子だったのは、「遥が救急車で運ばれた」というその内容を考えればそれほど不自然なものでは無かったとしても、賢治はそのとき確かに聞いた気がしたのだ。

 普段の大人しそうな印象からは想像もつかい程の剣幕、というよりもヒステリックですらあった楓の劈く様な悲鳴にも近い怒号を。

 無論、だからといって、それがそのまま遥の見た『夢』の内容であるとするのは些か早計ではあるだろうし、賢治が聞いた楓の怒号だって全く関係の無い『雑音』だった可能性も否めない。そもそも、まずもっての前提としてある遥の『夢』からして、本当にただ『悪い夢』を見ていただけだったかもしれないのだ。

 尤も、賢治は今さら事の真相を確かめようとは思わない。

 今となっては、病室で繰り広げられていた地獄絵図がいつから続いていたのかも、遥の見た『夢』がどの様な内容だったのかなんて事も、さして重要な事では無いのだ。

 沙穂や、楓や、青羽が自分の事を『酷く心配していた』という事実さえあれば、遥は遅かれ早かれ同じところに辿り着いて、結局は今と同じ様に深く打ちひしがれてしまった筈なのだから。

「……」

 遥が以前、自分の『優しさ』は『弱さ』なのだと、そう語ってくれた事を賢治は今でも覚えている。自分の所為で誰かが傷付いてしまうのが怖いのだと、そう言った遥こそが誰よりも傷付いていた現実にある種の憤りすら覚えた事もまた賢治は忘れていない。

 きっと、だからなのだろう。だから賢治は今、遥に掛けるべき言葉を見つけることができず、他の誰よりも辛そうなその横顔をただ黙って見守る事しかできずにいる。

「……」

 出来る事ならば、「お前が気に病む事じゃない」と、賢治はそう言ってやりたかった。

 それでなければ、いっそ「お前こそが被害者だ」と、そう言ってやれたら、どれほど良かっただろうか。

 実際に沙穂や楓、そして何より青羽から受けた申し開きに依れば、今回の事で遥が負うべき責や受けるべき非など何一つとして有りはしない筈なのだ。今回の事は、青羽の勘違いと暴走が招いた不慮の事故、有体に言えばそれが全てだと、賢治はそう捉えている。

「……」

 遥は何も悪くない。それなのに、遥は自責の念を募らせて深く打ちひしがれている。

 何故、遥がこんなふうに傷付かねばならないのか。一体、誰の所為で遥がこんなにも傷付かねばならないのか。

 沸き上がる憤りに、賢治は最も簡単な答えを求めずにはいられない。

「……ッ」

 誰が悪いのか、誰の所為なのか。そんなものは、決まり切っている。そうだ、考えるまでも無い。全ては、青羽だ。青羽の所為で、遥はいま深く傷ついている。全部、アイツの所為だ。アイツが、遥を傷つけた。青羽がまた、遥を傷つけた。

「――ッ!」

 遥を想うあまり、沸き上がった強い怒りの感情。

 ともすれば、賢治はそのまま病室を飛び出して、いつかの様に青羽を叩きのめしに行っていたかもしれない。けれども賢治は今、怒りに身を任せる事無く、奥歯を固く噛みしめて、沸き上がる怒りを必死に抑え込む。

 賢治はあの日から、忘れた事なんて無かったのだから。在りし日の駅前で、自分が犯してしまった過ちを。そしてあの日、あの晩に、遥が何よりも強く願ってくれた事を。

「~~ッ!」

 青羽を叩きのめしたって、遥は決して喜ばない。それどころか、それこそが正しく遥を最も深く傷つける行為に他らない。分かっている。ちゃんと、分かっている。忘れてなんかいない。あの日から、ただの一瞬だって、忘れた事なんてない。

 賢治は自身にそう言い聞かせながら、内から沸き上がった怒りを必死で抑え込む。

 今度は間違えない。もう二度とあの時と同じ過ちは繰り返さない。自身にそう、言い聞かせながら。賢治は必至で、怒りを抑え込む。

 それは、決して容易い事では無かったが、それでも賢治の中心はいつだって、遥を想う気持ち以外にないのだから、ならばそれは成し遂げられる事だった。

「……フゥ…」

 大きく息を吐き、呼吸を整え、気持ちを落ち着ける。一度で駄目なら、何度でも。

「……スゥ…ハァァ…」

 幾度となくそれを繰り返し、ようやくの平静さを取り戻して来た賢治は、最後に残った怒りの火を吹き消す様に、今一度おおきく息を吐きながら宙を仰ぎ見る。

「……」

 味気ない真っ白な天井。それを照らす無機質な蛍光灯。

 その情景に、賢治はふっと想いを馳せる。

 遥の毎日が、この味気ない真っ白な天井と無機質な蛍光灯の下にあった頃の事に。

 あの頃の遥は、まだ今の身体に不慣れで、歩く事も喋る事さえもままならなかった。

 それが今では、自身の足でしっかりと立って、『女の子』ももうすっかり板についてきている。

 ただ、遥は言った。「ボクが、こんなだったから」と。

 まるで、不安でいっぱいだったあの頃の様に、弱々しい声で確かにそう言ったのだ。

 そのとき、遥の視線が自身の小さな手に落とされていた様に見えたのは、果たして気の所為だろうか。

「……」

 賢治が視線を戻せば、そこには、かつての様にベッドの上で目を伏せる遥の儚げな姿。

 男の子だった頃とは、比べるべくも無いか細いその身体。

 きっと、あれは気の所為や見間違いなんかではない。

 いや、本当は、はじめから分かっていた。

 遥を傷つけるのは、遥を打ちのめすのはそう、他でもない。遥が最も慣れ親しんだかつての身体とは似ても似つかない、小さく、か弱い、今の身体なのだと。

「…………」

 確かに遥が今こうして病院に居る直接の原因は、青羽に有るのかもしれない。

 確かにその所為で、青羽は沙穂と楓に責められて、確かにその所為で、沙穂と楓は青羽を責めねばならなかった。

 そしてだからこそ遥は傷付いている。遥は優しくて、弱いから。他人を傷つけるくらいなら、自分を傷つける事を選んでしまうくらいに、優しくて、弱いから。けれども遥は、それで平気な顔をして居られるほど強くは無いのだから、だからその小さな身体に一切の罪科を背負い込ませてしまう。

 自分が『こんな』身体でなければ、こうはならなかった筈だ。と。

「……ッ」

 遥はいったい、今までどれだけそんな風に傷付いて来たのだろうか。

 遥が今の身体になってから半年余り。日を追うごとに、『女の子らしく』なっていった遥は、その実、どんな想いでその日々を過ごしていたのだろうか。

 賢治には、想像も及ばない。想像できる事があるとするならば、それこそそれが想像の及ぶものではい無いだろう事だけだ。

 ただ、それだけに、賢治は今ここでハッキリと思い出した事が一つだけある。

 そしてそれは、そのまま、賢治が今まで見つけられずにいたものでもあった。

「……ハル」

 ゆっくりと口を開き、賢治は静かにその名を呼び掛ける。思い出す事ができたから。見つける事ができたから。

「……ん」

 俯いたままでいる遥から返って来たその短く弱々しい声に賢治は確信を持つ。

 今こそが、その時だと。

「ハル、俺は…」

 遥は、覚えているだろうか。いや、覚えていなくたって構わない。

 遥が覚えていなくとも、この胸の内には確かに刻まれているのだから。

 それを刻んだ時の事を、今ハッキリと思い出しているのだから。

「約束を果たす」

 そう、それは遥と交わした何よりも大切な約束。

 在りし日にたてた、決して違える事の無い絶対の誓い。

「やく…そく…?」

 やっぱり遥は、覚えていないのかもしれない。けれどもそれが何だというのか。

「あぁ」

 今こそ、それを果たすとき。その為にも、賢治は今、ゆっくりと立ち上がる。

「えっ…あっ…そっか…、誰かと約束があったんだね…、それなのに、いままで居てくれて…ありがと…ね…」

 無論、それは完全な思い違いではあったものの、賢治は敢えてそれを否定することなく、その代りに今もまだうつむきがちでいる遥のちょっと癖のあるふわふわとした黒髪を無造作にかき乱した。かつての様に、かつてを取り戻す様に。

「ああ、約束、したからな」

 いつからか、こうして遥の髪に触れる事を躊躇する様になっていた。

 けれども今は、もう違う。きっともう、二度と躊躇う事も無い。約束を果たすのだから。誓いを果たすのだから。

「だからハル…」

 それが別れを告げる上の句だと思ったのか、遥はそれまで膝の上で力なく握っていたその小さな手を上げかけたが、無論、それもまた完全なる思い違いというやつだ。

「決着をつけたら、直ぐに戻る。ハルが心配するような事は何も無い。約束するよ」

 遥の上げかけたその小さな手を両手で握りながら、賢治は今ここで新たに誓いを立てる。かつての様な過ちは決して繰り返さないと。遥を悲しませるような事だけは決してしないと。

「えっ…けっちゃく…? えっ…?」

 賢治の宣誓にキョトンとした様子でいたその時にも、遥はきっと、沙穂や、楓や、青羽に辛い思いをさせてしまった不甲斐ない自身の身を許す事ができず、途方も無い自責の念を募らせ続けていたに違いない。そうでなければ、遥は気付けたかもしれないのだから。

「ハル、大丈夫だからな」

 それが何に対する保証なのかも、遥は分かっていなかったはずだ。

「あっ…う、うん…、えっと…いって…らっしゃい…?」

 分かっていたなら、気付いていたなら、遥はこんな風に、賢治を送り出しただろうか。

「ああ、行ってくる」

 答えはもう、分からない。遥はもう、送り出してしまったのだから。

 賢治の向かう先が、青羽の元であるとも気付かずに。

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