5-37.リアリスト
「はぁ!? 結婚!?」
昼休みの中庭に突如響き渡ったその素っ頓狂な驚嘆は、たったいま遥から「賢治と結婚しようと思う」といきなり打ち明けられた沙穂が思わず上げてしまったものだった。
「ちょっ…ヒナ…っ! 声が大きいよ…っ!」
このとき中庭で昼休みを過ごしていた生徒は遥たち三人だけではあったものの、そこが校舎や渡り廊下にも面している極めてオープンなスペースであった事を考えれば、沙穂の上げてしまった驚嘆の声は、それこそ遥が慌ててしまう程には迂闊なものだったかもしれないがしかし、それも無理からぬ話であろう。何しろ、昨日まで賢治との事で見るに堪えないレベルで塞ぎ込んでいた遥が今日になって突然、『賢治との結婚』等というとんでもない爆弾発言を投下して来たのだから。
「いやゴメンつい…、でも、アンタ…、だって、結婚てっ…!」
遥からの注意喚起で、沙穂の声はいちおう一段階ほどボリュームが抑えられはしたものの、そこには依然として相当量の驚きが有り在りと滲んでいる。
「カナちゃん…、それはまた…なんていうか…、ずいぶんな思い切り…だねぇ…」
楓の方は持ち前のおおらかさ故か、沙穂ほどの驚き様こそ見せてはいなかったが、その代わりに大いなる戸惑いを隠し得ないといった感じだ。いくら共感力の高い楓といえども、突如の結婚宣言ともなると、流石に些かの許容範囲外だったらしい。
「うん…まぁ、そりゃぁ、いきなりこんなこと言われたら、ビックリするよね…」
沙穂と楓の反応が『ビックリ』なんて生易しい表現で済まされるものなのかどうかは多分に議論の余地があるとしても、それをある程度想定していた遥は二人の顔を交互に見やりながら、努めて前向きな眼差しを見せる。
「けど、ボクね、一生懸命に考えて、これしかないと、そう思ったんだ」
そう告げた遥の面持ちに悲壮感の類は一切無く、それが決して悲観に暮れた末の自暴自棄や、究極まで追い詰められた挙句の破れかぶれ等で無かった事は、沙穂と楓にもきっと伝わっていた筈だ。尤も、だからといって沙穂と楓が、「そう言う事なら」と、素直にその決断を受け入れられたかといえば、勿論そんな事は全くもってなかった。
「う、うーん」
「えっとぉ…」
沙穂は沈痛な面持ちで頭を抱え込み、楓の方はかつてない程の困り顔で頻りに首を傾げさせて、どう見ても二人の反応は芳しくない。
「あ、あれ? ヒナ…ミナ?」
無論、「何があっても諦めない、何があっても遥の友達でいたい」と、そう宣誓していた沙穂と楓なのだから、遥の決断を尊重したい気持ちは山々だっただろう。ただ、そうは言ってもまさかの『結婚宣言』であり、あまつさえ遥がきちんとした前置きも無しにその結論部分だけをいきなり投下してしまっていたとなれば、それはもう沙穂と楓が何とも難しい反応になってしまうのは当然すぎる話ではあったのだ。
「あの…さ、カナ…、アンタがその、け、結婚? って結論を出すまでに、ものすっごく真剣に考えたんだなってのは、とりあえず分かるんだけど…」
一頻り頭を抱え込んだ後に何とか顔を上げた沙穂がまず口にしたのは、一応の肯定的な共感ではあったものの、その後には当然、何とも覚えの良くない言葉が続いてしまう。
「どうしてそうなったのかが…、ぜんっぜん意味不明なんだけど!」
沙理解に苦しむとは正しくこの事だと言わんばかりのかつてない難しい顔で、沙穂がようやくその困惑を露わにすると、流石の遥も何やら思い至った顔になって、「あー」という気の抜けた感嘆の声を上げた。
「そういえばボク、ちゃんと説明してなかったね…」
道理で沙穂と楓の反応が芳しくない筈だと、その理由に気付いた遥はちょっぴり気恥ずかしそうな顔でペロリと舌を出すが、今朝も全く同様のやり口で賢治を大いに困惑させていた事はもちろん二人には内緒である。
「うん、まぁ、ワタシたちがビックリしすぎちゃって、説明する暇なかったもんね…」
果たして楓は、今朝の事を知っても同じようにフォローしてくれたかどうか。無論、遥が今ここで其れを敢えて確かめてみるべくは無い。
「えっと…何かごめん…、それじゃあ、ちゃんと説明するね?」
かくして、ここへ来てようやっと遥は『結婚』等というとんでもない結論に至ったその経緯についても打ち明け始めた。
「うんと…、ボクの所為で賢治の人生は…、その…台無しになっちゃったでしょ…?」
遥がまず、前提にある問題点の確認から入ると、これには沙穂と楓からも一先ずの頷きが返って来る。
「…そう…ね」
「…うん」
勿論、そこにはもう一方の当事者である賢治の心情は殆ど加味されていなかったが、沙穂と楓にとって、それはさして考慮に値するものではない。二人にとっては、遥がその様に感じていて、その為に苦悩し続けて来たという現実こそが何よりも肝要なのだから。
「うん、だからボクは、それが悔しくて…、悲しくて…、く、苦しく…て…」
遥がそこで思わず言葉に詰まってしまうと、沙穂と楓はすかさずその肩に触れてそれぞれにそっと身をも寄せる。
「カナ…、大丈夫、ちゃんと分かってるから」
「うん、大丈夫、大丈夫だよ、カナちゃん…」
沙穂と楓の優しさと暖かさに励まされて、遥はともすればそのまま溢れ出てしまいそうだった感情を何とか拭い去って再び言葉を繋いでゆく。
「ヒナ…ミナ…、ありがとう…、あのね…二人が…居てくれたから…なんだよ…」
そう、遥がその結論に辿り着いたのは、間違いなく沙穂と楓の存在があったからだ。
だから遥はちゃんと、伝えたかった。だから遥は今、こうして何とか言葉を繋げている。想いを込めながら、祈りを込めながら、一言一言、確かめる様にして。
「ヒナとミナが諦めないって言ってくれて、ボクはすごく嬉しくて、すごく幸せで…、だから…ボクは…、だからボクも…」
そこで一旦言葉を区切った遥は、こうしている間も直ぐ傍に寄り添ってくれている沙穂と楓の暖かさを確かに感じながら、想いと言葉をピッタリと重ね合わせる。
「こんなボクでも、もしかしたら二人みたいに、誰かを幸せにできるのかもって…、そんなふうに思えたから…」
それが本当に叶えられる『願い』なのかどうかは、まだわからない。けれど、誰よりもそれを叶えたかったはずの倉屋藍からその『希望』を託されたのだから。
「だったらボクは、賢治を幸せにしたいって、そう思ったから…!」
それが、『結婚』というある種究極の答えに至った遥の辿って来た道。
それが、今朝の賢治には上手く伝えられなかった遥の真っ直ぐな想い。
「カナ…」
「カナちゃん…」
自暴自棄でも、破れかぶれでも無い、『希望』と『願い』に満ちていた遥の答え。いじらしいまでに純粋で、有り得ない程に真っ直ぐだったその想いを全て聞き届けた今、沙穂と楓はただただ言葉を失っていた。
「ヒナとミナがいてくれたから…、ボク…見つけられたよ…」
そう言ってたおやかに笑った遥の髪には、キラリと光るピンクのハートと鮮やかに咲く黄色い薔薇。特別な日にだけつけるその二本。そこに込められていた特別なの気持ち。
沙穂と楓なら、きっとそれに気付いてくれている筈だと、遥はそう信じている。
「ヒナ、ミナ、ありがとう」
夏の終わりに、心地よい秋口の風が吹き抜ける中庭で、想いを伝え、伝えられ、それを胸に寄り添い合う少女たち。それは、絵的に見ればどことなく美しくはあって、もしもこれが雰囲気重視の青春映画かなんかであれば、ここでうっかりエンドロールが掛かってしまったとしても幾らかの観客は何となく納得してくれたかもしれない。がしかし、そうはいかなかったのがリアルを生きる女子高生の辛いところ。
「…いや、ちょっとたんま! いったんストップ!」
今にも流れ出しそうになっていたエンドロールをぶった切る様にして、突如と発せられた「待った」の声。それは、リアリストである事に掛けては遥たち三人の中では他の追随を許さない女、つまりはそう沙穂から上がったものに他ならなかった。
「んっ? どしたの…?」
ここで異議申し立が入るなんて事は、全くもって予想していなかった遥は思わずキョトンとした様子で小首を傾げさせるも、沙穂からすればどうしたもこうしたもなかったのである。
「とりあえず、カナの話はちゃんと分かったし、あたしらがカナの助けになれてんだっていうのも正直めっちゃ嬉しい」
それなら一体全体何を待つ事があるのだろうかと、遥などは尚も小首を傾げさせてしまうが、沙穂はその小さな両肩をガッシリ掴んで自身の方へと向き返らせるなり、話を聞く以前よりも沈痛さの増していた面持ちの中で両の瞳をカッと見開いた。
「けど! 流石に結婚は飛躍しすぎでしょ!」
流石のリアリスト代表、流石の沙穂、といったところだろうか。それは至って真っ当かつ、このうえなく常識的な突っ込みであったと言わざるを得ないだろう。
「えぇ…? で、でもボク、ちゃんと考えて…そうするのが一番いいって思ったから…」
確かに遥は、考えに考え抜いた末に、至って前向きな気持ちでその結論に至っていたかもしれない。もちろん沙穂としても、ここの所ずっと塞ぎ込んでばかりいた遥が答えを見つけて前向きになってくれた事それ自体は、喜ばしく思っていた筈だ。ただ、例えそうなのだとしても、リアリストで常識人の沙穂としては、どうしたってそれを手放しで絶賛する事なんてできはしなかった。沙穂はリアリストであるが故に、気付いてしまっていたからだ。遥がようやく辿り着いた答えは、決して『希望』や『願い』が溢れるばかりの美しい物では無い事に。そして沙穂はリアリストであるが故に、どうしたってそれを見過ごす事なんてできはしなかったのだ。
「一番いいって、じゃあアンタ、早見の事はどうすんのよ!」
そう、賢治との結婚はつまり、遥にとっては青羽との恋を諦める選択に他ならない。
だから沙穂はどうしたって見過ごせなかった。それに気付かないふりをして居られない程に、リアリストな沙穂だったから。何より、遥がどんな想いで青羽との恋を実らせたのかをその目で見て来た沙穂だったから。




