5-35.託された想い
左から右へ、右から左へ、行って戻り、戻ってはゆく。
長い振り子を揺らし、ゆったりと、けれども刻々と時を数える大きな古時計。
今時珍しいその大きな古時計は、駅からそれほど遠くない場所でひっそりと営業する一軒の小洒落た喫茶店に置かれていた。
「私は、オリジナルブレンドに、しようかな」
そう告げてきた唇の向こう側で、刻々と時を数えている大きな古時計。
その針が指し示す時刻は、八時を十分ほど回ったあたり。
「えぇと、はる…ちゃん? は、何に、する?」
明らかに使い慣れていない様子だったその呼び名。
沙穂は知らなかった。
「あっ…、えっと、ボクは、えっと…えっと…」
あまり馴染みのない英単語がずらりと並ぶメニューに目を泳がせて、あたふたとしている遥を見つめるその眼差しがどれだけ優しかったとしても。
「えっと…えっとぉ…」
こんな事になるなんて知っていたら、沙穂は絶対に遥を八時ちょうどのバスになんて乗せはしなかった。
「ゆっくりで、だいじょうぶ、だよ」
単語を区切るようにして話す独特なその喋り口調が、どれだけ穏やかな音色であったとしても。
「えっと…でも…、えっと、そ、それじゃぁ…」
沙穂は知らなかった。
「ボクも、く、倉屋さんと、同じので…!」
遥が口にしたその名前。倉屋、倉屋藍。遥を乗せた八時ちょうどのバスに、その人物が乗り合わせていたなんて事を、沙穂は知らなかった。
「ハルちゃんも、オリジナルブレンド、ね」
尤も、知らなかったのは、何も沙穂ばかりではない。
遥もまた知らなかった。沙穂がその『恐れ』を言葉にはしなかったから。
だから遥は、せっかく沙穂が乗せてくれたバスを途中下車して、今はこうして倉屋藍と相対している。倉屋藍が沙穂の『恐れ』と強く結びついている人物だなんて、遥は知らなかったから。
「マスター、オリジナルブレンド、ふたつ、ください」
慣れた様子でカウンター向こうの店主に向って注文を伝える倉屋藍をぼんやりと眺めながら、遥は知らなかったが故にこんな風にすら思っていた。
これはきっと、沙穂が作ってくれた『チャンス』なのだと。
もしも沙穂がそれを知ったなら、きっと頭を抱えたに違いない。
「…ヒナ」
沙穂の気も知らずに、ありがとう、と心の中で続けながら遥が目の前に意識を戻すと、そこにはいつの間にか運ばれて来ていた二客のコーヒーカップと、その一つを手にして優し気に微笑む倉屋藍の眼差し。
「ふふ」
その微笑みに遥が思わずたじろいでしまったのは、彼女がかつて密かな憧憬を抱いていたマドンナ的存在だったからだろうか。
「はゎぁ…」
こうして改めて相対してみると、三年余りの月日を経て少女から大人の女性へと変貌を遂げた倉屋藍は、ただただ綺麗の一言に尽きて、遥は思わず溜息すら洩らしてしまう。
「どうか、した?」
ちょっぴり不思議そうな顔でそう問い掛けて来る倉屋藍だったが、遥からすればどうもこうも無い。
「あ、ぅ、えっ…と…、な、なんでも…ないです…」
憧れのマドンナだった倉屋藍と二人きりで相対している今のシチュエ―ションは、男の子だった頃の遥ならきっと考えられもしなかったものだろう。
ただ、何も遥はかつての憧れだった倉屋藍とこうしてお近づきになれる事を『チャンス』だなんて思った訳では決してない。
大体、幾ら倉屋藍がかつての憧れだったとはいえ、どうして遥がそんな理由でバスを途中下車できただろうか。例え沙穂の恐れを知らなかったとしても、沙穂が自分の事を想ってそのバスに乗せてくれた事くらいは、遥だってちゃんと分かっていたのだから。
では何故、遥は今こうして倉屋藍と相対しているのか。それには勿論それ相応の理由が存在していたのがしかし、遥はそれを果たすための切っ掛けを上手く作り出せずにいるというのが今の現状だった。
「むぅ…」
すぐ目の前で、穏やかに微笑んでいる倉屋藍を上目で見やりながら、遥は一体どうやって話を切り出したものかと、頻りに考えを巡らせる。ただ、幸いにも、と言って良いのかどうかは分からないが、直ぐにそんな事で頭を悩ませる必要は無くなった。
「ねえ、奏、遥、君」
不意に、何の前触れも無く、倉屋藍が口にしたその名前。
「えっ…」
遥は一瞬、それが自分の名前である事を理解できなかった。
尤もそれは無理も無い話だ。何故なら遥はまだ、自分の素性は元より、今しがた倉屋藍が口にしたその名前すらも、まともに名乗れてはいなかったのだから。
「なっ…ど…えっ…?」
遥は大いなる困惑に見舞われながらも、フル回転で記憶の扉を次々と空けてゆく。
遥が今の身体で倉屋藍と顔を合わせるのはこれが二回目だが、一回目の時には悠長に自己紹介などしていられる様な余裕は無かったし、今回に関しては「あぁ、あの時の」というかなりフワッとした感じでここまで来てしまっている。
無論、思うところあって、今こうして倉屋藍と相対している遥は、いずれキチンと自分の素性を明かすつもりではいた。だがしかし、少なからずの気負いと倉屋藍のおおらかさ故に、すっかりタイミングを逸してしまっていたというのが偽らざるここまでの実情で、遥には間違いなく名乗った記憶が一切無い。
それなのに倉屋藍は、一語一語区切様にして話するその独特な喋り口調で、『奏遥』と確かにハッキリその名を呼んだ。
「な、なん…で…?」
治まらない混乱の中、遥がようやく言葉としてその大いなる疑問を投げかけると、それに対する倉屋藍は事も無げだった。
「紬君が、『ハル』って、呼んでたから」
それは、聞いてしまえば何の事は無い。思えば、かつて美乃梨だって、同じような理屈で自分の素性を言い当てている。そんな美乃梨よりも、もっと近くで賢治の事を見ていた倉屋藍ならば、それは至って当然の答えだったのだ。
「そ、そう…だ…そうだよ…ね…」
遥が殊更にハッとなっている所に、倉屋藍はその回答に更なる厚みを加えてゆく。
「紬君が、大切にする『ハル』は、世界に一人だけ、だから」
そう言った倉屋藍の面持ちが、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、きっと遥の見間違いなんかではない筈だ。
遥は知っていたから。自分が身体を失っていた三年の内に、倉屋藍が賢治と『関係』を持っていた事も、彼女がつい最近までその『想い』を持ち続けていた事も。
そして、だからこそだったのだ。
「そう…、そうだ…、そう…だったんだ…」
沙穂が乗せてくれた八時ちょうどのバスに偶然乗り合わせていた倉屋藍を見つけて、先に声を掛けたのは遥の方からだった。
自分の居なかった三年の内に、賢治と『関係』を持っていた倉屋藍なら、知っているかもしれないと思ったから。自分に対する『想い』を、賢治がどの様にして『呪い』へと変えていったのかを、倉屋藍なら知っていると、そう思ったから。
だから遥は沙穂が乗せてくれたバスを途中下車してまで、倉屋藍と相対した。
遥は知りたかったから。知る必要があったから。
「ボク…」
倉屋藍にそれを尋ねるのは、酷く残酷な事なのかもしれない。遥が今まで名乗るタイミングを逸してしまっていたのも、そんな気持ちが少なからずあったからだ。
けれども倉屋藍は、自分が『奏遥』だと知っていた。その上で、こうして今相対してくれている。そして遥は、知りたかった。
「倉屋さん…ボク…」
未だ見つけられずにいる「どうして」という自問の答え。
倉屋藍なら、きっとその答えを知っている。
「うん」
静かに、短く、穏やかに頷いた倉屋藍を真っすぐ見つめながら、遥は逡巡する。
「ボクは…」
知りたい。知りたい筈なのに、倉屋藍なら知っているかもしれないのに、どうしてだろうか。こんなにも恐ろしいのは、こんなにも、胸が苦しいのは。
「奏、君、…ううん、ハル…ちゃん」
言い直されたその呼び名。
倉屋藍は言った。賢治が大切にしている『ハル』は世界に一人だけなのだと。
倉屋藍がそう断言できたのは、きっと、何度も、何度も、其れこそ呪詛の様に、繰り返しその呼び名を口にする賢治をずっと見て来たからだ。
「倉屋さん、ボク、ボクは…!」
在りし日に垣間見た賢治の幸せな日々。
その隣にいられたかもしれない倉屋藍。
「ボクは…ボクが…賢治を…!」
壊してしまった。奪ってしまった。
あったかもしれない二人の幸せ。あったかもしれない二人の未来。
「ご、ごめん…ごめんな…さい…」
遥が思わず溢れさせた謝罪の言葉を、倉屋藍はどう受け取ったのだろうか。
いつしか俯いてしまっていた遥には、倉屋藍が今、どんな顔をしているのかはもう分からなかった。
「ハルちゃん」
今一度、その名を呼んで、もうすっかり俯いてしまっていた遥のちょっと癖のあるふわふわとした髪をやんわりと撫でつけた倉屋藍の手。
「私は、素敵だと、思う」
思いがけなかったその言葉と、思いの外優しかった手の感触に、思わず面を上げずにはいられなかった遥は、その刹那にハッとなった。顔を上げたその先で、倉屋藍は穏やかに微笑みながらも、その瞳をキラキラと眩しく揺らしていたから。
「…倉屋…さん…」
どうして倉屋藍が「素敵」だなんていったのか、どうしてその瞳を眩しく揺らすのか、遥にはその理由が分からなかったけれども、その答えは直ぐに見つかった。
「私は、知ってるよ、紬君が、どれほど、あなたを、想っているのか」
その想いとずっと向き合ってきた倉屋藍だったから。
その想いを遂げられなかった倉屋藍だったから。
「私が、許すから」
それは、倉屋藍が遥に託した『希望』。
「ハルちゃんは、幸せに、なって」
それは、倉屋藍が遥の為に祈った『願い』。
「紬君は、本当に、あなたが、大好き、だから」
そう言った倉屋藍の瞳から溢れた光が一筋、その頬をつたって零れ落ちてゆく。
「くらや…さん…」
今日、見続けていたどんな眩しさとも違う、倉屋藍の想い。
こんな眩しさがある事を、遥は今まで知らなかった。けれどもそれは、沙穂や、楓や、そして青羽が教えてくれた眩しさにも、決して引けを取らない美しさだった。
「そう…なの…かな…」
遥がこぼれさせたそれは、『希望』というにはまだいくらも弱々しくて、願いというには余りにも宛てど無い密やかな想い。
「私は、そうだって、信じてる」
確信を持ってそう告げた倉屋藍の向こう側で、ゆったりと、けれども刻々と時間を数えていた大きな古時計が九つの鐘を鳴らしたのは、其れから程なくの事だった。




