5-29.無力感
思えば遥は、今の身体になってからというもの、常に何かしらの悩みを抱えていた。
女子高生として高校に復学してからは特にそうで、だからだろうか。遥が所属する一年B組の生徒達は、大半の者が『それ』にはもうすっかり慣れっこになっていた。
ここで言う『それ』とは即ち、『悩める遥』の事で相違ない訳だが、入学して以来、結構な頻度で起こるそれを見続けて来た一年B組の生徒達からすれば、それこそは正しく『何でもない日常の一コマ』だったと言えるだろう。
故に、今回もクラスの大半が「またか」という認識で、敢えて「何事か」と尋ねて来るような者は殆どいなかった。
ただ、だからといって彼らが遥の事に全くの無関心だったかというと、必ずしもそうではない。もしかしたら中には本当に無関心だった者も居たかもしれないが、居たとしてもそれは少数派であり、クラスの大多数はどちらかといえば興味津々ですらあっただろう。
何しろ今の遥は類稀なる美少女で、良きにつけ悪しきにつけ『目立つ女の子』なのだ。
考えても見て欲しい。同じクラスに、いつも何やら物憂げにしている超絶愛らしい美少女がいたとしたら。それはもう誰だって少なからずの興味を惹かれてしかるべきだろう。
だから皆本当は、出来ることならば今すぐにでも遥の元へ駆け寄って、「どうしたの?」と、そう尋ねてみたかったのだ。
では、何ゆえ彼等は実際にそうしなかったのか。その答えは至って単純明快、彼らの大半が遥とろくに会話をした事が無かったからである。
それでも津々という程に興味があるのであれば、今からでも話しかけてみれば良さそうなものだが、中々どうしてこれは口で言うほど容易い事ではない。
いや、ただ単に話しかけるだけならば、それはさほど難しい事では無いだろう。実際、過去にそれを試みた者は何人も居た。がしかし、奇しくもその何人かがものの見事に実証してしまっているのだ。例え話しかける事ができたとしても、その結果は良くて動揺、不味くて警戒、悪ければ酷く怯えられ、最悪の場合は泣かれてしまう事すらもあって、遥とまともなコミュニケーションなど到底成立させられない事を。
ここで一つ具体的なエピソードを紹介すると、一学期の初め頃、数人の男子生徒に話しかけた事で半ばの恐慌状態に陥ってしまった遥が保健室行きにまでなってしまったなんて事があった。
無論、それはかなりの極端な例ではあるが、それだけにインパクトは強く、クラスメイトの大多数がその時の印象を未だ引きずっていたとしてもそこになんら不自然はない。それどころか、その一件の所為で、元々ただでさえその愛らしい外見から目を惹く女の子だった遥には、ある種の不可侵性とそれによるミステリアスなイメージまでもが備わってしまい、その結果一層クラスメイト達の興味をそそってしまった節すらもある。
ものすごく興味はあるけど、下手には触れられない。触れられないからこそ、一層の興味をそそられる。クラスメイト達にとっての遥は、今やそういった感じの言ってみれば偶像的な存在なのだ。
そんな塩梅であるからして、一年B組に在籍する大半の生徒が未だ遥とまともに話しをした事がないのは、なるべくしてなった当然の帰結といえるだろうか。
だから彼等はいつだって、遥の悩み事にも内心では多大なる関心を寄せながら、実際的には「あぁ、またか」と、ありふれた日常の光景として処理するしかなかったのである。
とは言え、そんな彼等からしても、流石に今回の遥は未だかつて見た事が無い程の酷い落ち込み様に映ったらしく、遂にはそれを『何でもない日常の一コマ』として処理しきれなくなった者すら現れた。
それは、連日同様文化祭の準備で活気づく放課後の事。
「ねえちょっと、二人に聞きたいんだけど、あの子いったいどうしちゃったワケ?」
今日も例によって『雑用』を任された遥が教室を開けている間に、沙穂と楓に向ってではあるが、遂にそれを問題提起して来たのは、またもやの意外な人物、つまりはそう、遠藤恵だった。
「あなたたちいつも一緒なんだから、何か知ってるんでしょ?」
普段、聞こえよがしに嫌味を言ったりする遠藤恵の性格的に、聞きたい事があればズバリ本人に直接訪ねそうなものだが、それをしなかったのは、つい先日、遥に話しかけてうっかり泣かれてしまうという最悪のケースを演じてしまったばかりだったからだろうか。
「えっとぉ…あの子って…、カナちゃんのこと…ですか?」
作業の手を止めて顔を上げた楓がおずおずと尋ね返すと、遠藤恵はこれに対してあからさまな不機嫌顔を見せた。
「当たり前でしょ、他に誰が居るって言うのよ!」
確かにそれはそうなのかもしれないが、そのキツイ言い様に気の小さい楓は思わず委縮してしまい、上げたばかりだった顔も再び俯かせてしまう。
「そ、そうですよね…ご、ご、ごめんなさい…」
相手は同級生だというのに、先程から敬語になってしまっている辺り、楓は遠藤恵がかなり苦手らしい。
「ああもぉ…奏さんといい、あなたといい、ほんとやりにくいったらない…」
遠藤恵は遠藤恵で、楓の様な大人しくて控えめなタイプは不得意な様で、こうなってくると必然的にその矛先は残されたもう一人、つまりは沙穂の方へと向けられる。
「日南さん、どうなの? 奏さんから何か聞いてるんでしょ?」
遠藤恵に名指しされた沙穂は、ここでようやく面を上げたかと思うと、これみよがしに面倒くさそうな面持ちをして深々とした溜息までついた。
「そりゃぁまぁ…、何があったのかくらいは聞いてるけど…」
そこで一旦言葉を区切った沙穂は、隣でもうすっかり小さくなってしまっている楓の方をチラリと見やってから今一度の深々とした溜息をつく。
「…まぁでも…遠藤さんには関係ないでしょ」
それだけ答えると沙穂はそれ以上話すべきことは無いとばかりに、さっさと作業へと戻ってしまったが、これで遠藤恵が「はいそうですか」と大人しく引き下がってくれたかといえば、当然ながらそんな事は全く無かった。
「ちょっと! 何よその言い方、せっかく人が心配してあげてるのに、それは無いんじゃないの!」
きっと、普段の沙穂なら、ちょっぴり横柄だったその物言いを意にも介さず、皮肉の一つでも返しながら軽くいなして見せたに違いない。だがしかし、今の沙穂にどうして、それができただろうか。
「せっかく…心配して…あげてる…?」
沙穂は先程こう言った。「何があったのかくらいは聞いている」と。
そう、沙穂は知っているのだ。遥が塞ぎ込んでいるその理由を。本人の口から直接聞いて、大凡の事情や、その苦悩に至るまで全て知っているのだ。
「アンタ…なによ…ソレ…」
いつも遠巻きに眺めている事しかできないクラスのその他大勢とは違って、不可侵の偶像としてでは無く、掛け替えのない友達として、入学初日からずっと楓と共に遥の近くに居続けて来た沙穂だったから。
「ひっ、ヒナ…ちゃん…っ!?」
だから沙穂は、今回もいち早くその異変に気が付いて、いつもそうして来た様に、少々強引なところがありながらも、本人の口から直接、何があったのかを聞き出していた。
遥は大切な友達だから。遥の助けになりたかったから。
それなのに遥は、今でもまだ塞ぎ込んだままでいる。
「な、なんか文句でもあんの…! ま、まぁ…あの子がどうしたのかなんて、本当はどうだっていいんだけど、何て言うか…その…ああも暗いと…、そう、目障り! 目障りなのよ! だから早いとこ何とかしてほしいんだけど!」
それが遠藤恵の本心だったのかどうかは分からない。彼女の性格を鑑みれば、言葉の弾みでうっかり言い過ぎてしまっただけと見るのが妥当だろうか。もしもそうだとすれば、其処には遠藤恵なりの優しさや気遣いなんてものも読み取れないでは無い。だがしかし、例えそうだったとしても、沙穂にはもう、どうだっていい事だった。
「……ふざけんなッ!」
突如響き渡った怒号。一斉に集まった注目の視線。すぐ横では楓が酷く狼狽えた様子で、正面の遠藤恵は呆気にとられた面持ちで頻りに目をしばたかせている。
「心配してあげてるとか、目障りだとか、アンタ何様なの!」
沙穂は、分かっていた。
それが言葉尻を捉えたただの言いがかりでしか無い事や、今ここでそれを糾弾した所で何の意味も無い事も、沙穂はちゃんと分かっていたのだ。
けれども沙穂は、分かっていたからこそ、その怒りを収める事ができなかった。
沙穂は、分かってしまうから。分かっているのに、どうにもできないから。
「大体! 何とかできるなら、とっくにそうしてる! あたしが一番、何とかしたいって、そう思ってるんだから!」
いつだって、遥の助けになりたかった。今回だって、自分に出来る事なら、何だってやってみせるつもりだった。それなのに、現実はどうだ。自分には、何一つ出来る事何て有りはしない。そのくせ半端に賢しらなせいで、不条理に満ちたこの世界で如何に自分が無力な存在であるのかだけは否というほど分かってしまう。
遥は大切な友達なのに。遥の助けになりたいのに。遥の悩みが何なのかも知っているのに。自分にはなす術がなく、今でも遥は塞ぎ込んだままでいる。
だから沙穂は、その怒りを収める事ができなかった。それは他でもない、無力な自分自身に対する怒りだったから。
「ヒナ…ちゃん…」
きっと、楓もそうなのだ。いや、もしかしたら、人の感情に共感しやすい楓の方が、よっぽど遥の気持ちに寄り添って、尚のこと強く打ちのめされているのかもしれない。
そう思うと、沙穂の内にはやり切れない想いが幾重にも積み重なって、それはいっそ怒りすらも押しつぶし、後にはもうただひたすらに無力感が残るばかりだった。
「……フザケンナ」
最初の怒号と同じ言葉を今度は絞り出すようなかすれた声でつぶやいた沙穂は、自身の無力さを噛みしめる様に、膝の上で拳をギュッとキツク握りしめる。
「えっと…なんか…悪かったわね…」
さしもの遠藤恵も空気を呼んだのか、ここへきての謝罪を告げて来たが、元より八つ当たり気味だった沙穂からすれば、そんなものはもうどうだって良い事だった。




