5-28.未来への展望
賢治に想いを告げられたあの日から、はや一週間余り。
遥はあれ以来、ずっと、ずっと考え続けている。
どうして、こんな事になってしまったのだろうか、と。
無論、全ての因果をあの事故に求める事は簡単だ。確かにあの事故が無ければ、こんな事にはなっていなかった。それくらいの事は遥だって考えるまでも無く分かっている。
ただ、だとしたら、あの時、どうすれば良かったのか、どうする事が正しかったのか、遥にはそれが分からない。
確かに遥は、あの事故で多くの物を失った。今回の事に限らず、その所為で絶望に暮れた事だって何度となくある。
けれども遥はその一方で、あの日の自分を後悔した事なんて、ただの一度だってない。寧ろ遥にしては珍しく、褒めてあげたいくらいだった。あの日、あの瞬間、考えるよりも早く走り出せていた自分の脚を。ほんの少し乱暴だったかもしれないけれど、間違いなく命を一つ、繋ぎ止められた自分の手を。
だから遥は、余計に分からなかった。だから遥は、あれからずっと、ずっと考え続けている。自分はあの時、確かに正しい事をした筈なのに、『どうして』、と。
それは、世の不条理とまだ上手く折り合えていない十代の遥らすれば、至って当然の憤りではあったのだろう。
ただ、遥のそれは、もしかしたらある種の現実逃避だったのかもしれない。
何故なら遥は、世の不条理をひたすに問いながらも、薄々は気付いてしまっていたのだから。仮に、今ここで世の不条理を解き明かす事ができたとしても、それは最早取り返しのつかない『過去』であり、それによって解決される問題など何一つ有りはしない事を。そして遥は、『どうしてこうなったのか』という過去の事よりも、『これからをどうすべきか』という未来への展望をこそ考えねばらない事にだってもちろん気付いていた。
尤も、だからこそ、遥は現実逃避せずにいられなかったのだだろう。未来への展望とは即ち、賢治の想いとどう向き合うかに他ならないのだから。遥にとってそれがどれほど重大で、どれほど重篤な問題であるかは、今ここで改めて語るべくも無い。
幸い、と言っていいかどうかは分からないが、賢治は「いつまでだって待つ」と、そう言ってくれていた。勿論、だからと言ってその通りに、いつまでも賢治を待たせる事なんできはしないし、いつかは必ず答えを出さねばならない事だって遥はちゃんと分かっている。ただ、今はまだ、賢治の想いを『呪い』に変えてしまったというショックが大きすぎるからか、その事と真剣に向き合おうとすればするほど唯々涙がこぼれ出るばかりで、『これからをどうすべきか』なんて事をまともに考えられる状態では到底無かった。
だから遥はその代わりに、『どうして』という過去の事ばかりを考え続けている。それが意味の無い事だと気付きながらも、今はまだそうする事しかできないから。だから遥は、昼も無く、夜も無く、場所すら選ばずに、今日だって、ずっと、ずっと、その事ばかりを考え続けていた。
ただ、そんな遥にも、日に何度か現実へと立ち戻らねばならない瞬間がある。
例えばそれは朝、沙穂や楓とあいさつを交わし合う時。
例えばそれは授業中、青羽からこっそりメッセージが送られてきた時。
例えばそれは放課後、二週間後に迫った文化祭に向けて俄かに活気づく教室で。
「―さん、奏さん! 奏さんってば!」
今回、遥を現実へと引き戻したそれは、ちょっと珍しい人物からの呼びかけだった。
「えっ? あっ…遠藤…さん? どう…したの?」
我へと返った遥が少しばかり戸惑いがちに用向きを尋ねると、遠藤恵で相違なかったその人物は、見るからに不機嫌そうな顔であからさまな溜息を一ついてみせる。
「はぁ…何をぼんやりしてたのかは知らないけど、二度も言わせないでくれる?」
どうやら遠藤恵は既に一度要件を告げていたらしいが、現実逃避に勤しんでいた遥の耳にそれが届いていた道理は当然無い。
「ご、ごめんなさい…えっとぉ…」
取りあえず謝るしかなかった遥がおっかなびっくりの上目遣いでその顔色を窺うと、遠藤恵は益々の不機嫌顔になって、不意にその手を眼前にとかざして来た。
「もう!」
それは、要領を得ない遥に業を煮やした遠藤恵の鉄拳制裁、では勿論ない。
「ほらコレ! 内装に使う部材が足りないから追加の稟議書! さっさと生徒会に出して来て!」
という事だったらしく、実際に遠藤恵は、遥の眼前にかざしたその手に、ハガキ大の紙片を一枚持っていた。
「あ…あー…コレ…ね…」
遠藤恵の手から紙片を受け取った遥の元々大して上手くも無い愛想笑いがまた一段とぎこちなかったのは、手をかざされたその瞬間に思わずビクッとなってしまっていた気恥ずかしさ故だろうか。
「あなた何の役にも立たないんだから、せめて雑用くらいはしっかりやってよね!」
元々遥に対する当たりの強い遠藤恵であるが、此方は此方で、今日はまたいつにもまして一段とキツイ物言いである。ただ、事、文化祭の準備に限って言えば、「遥が何の役にも立たない」という遠藤恵の指摘は大変に正しいと言わざるを得ない。実際問題、遥はこの一週間余り現実逃避ばかりしていた所為もあって、その間に始まってしまった文化祭の準備には全くと言っていいほど貢献できていないのだから。
「ご、ごめんね…、コレ出して来たら、他の事も手伝うから…」
流石に何だか申し訳なくなって今更ながらも文化祭の準備に前向きな姿勢を見せてみた遥であったがしかし、それを耳にした遠藤恵は何故だか俄かに顔を青ざめさせた。
「お、お願いだから、あなたは雑用以外何もしないで!」
それは、先程までの辛辣な物言いとは明らかに違う、おおよそ遠藤恵らしくない必死の懇願であり、これには遥も思わずキョトンとしてしまう。
「えっ…でも…みんな頑張ってるし…」
遥がすぐ横の席をチラリと見やれば、実際にそこでは沙穂と楓が机を並べて、衣装づくりをせっせと頑張っている所だった。
因みに、男子と女子を二分する大論争を巻き起こした末に、遥が青羽と共に草案を任されていた衣装がどうなったかについて触れておくと、最終的には青羽が考え付いたウサ耳カチューシャとフリルのエプロンを制服に合わせるだけの簡易メイドスタイルとでも言うべきものが採用になっていた。
案としては、他にも賢治が提唱していた本格的なメイドスタイルや、遥の考えた着ぐるみパジャマなんてものもあったのだが、その中でどうして最も面白みのない簡易メイドスタイルが採用されたかと言えば、その理由はとても簡単だ。端的に言ってしまえば、それが青羽の案だったからである。否、もしかしたらコストパフォーマンスや制作難度といった実現性の面が評価されての事だったのかもしれないが、プレゼンの段階で女子達からの圧倒的な好評を得ていた事を思えば、やはり考案者が青羽だった点が最もクリティカルであったと言わざるを得ない。
そんなこんなで、衣装案が敢え無く不採用となっていた遥は、その点においても文化祭の準備には貢献できておらず、だからこそ余計に何か協力しなければという気にもなったのだがしかし、残念ながら遠藤恵はその意気込みを汲んではくれなかった。
「ほんと、お願いだから、奏さんは余計なことしないで! この通りだから!」
遠藤恵はよっぽど遥に文化祭の手伝いをして欲しくない様で、遂には頭まで下げてくる始末だ。ただ、こうなって来ると、自尊心や自意識だけは人並みの遥からすれば、中々どうして素直に「はいそうですか」とは承服しがたい。
「ボクだって…いちおうクラスの一員なのに…」
控えめに「いちおう」と断っている辺りは、これまでクラスメイト達とあまり交流を持ってこなかった自覚が遥にあったからだが、クラスに貢献したいというその気持ちだってちゃんと本心だった。それなのに、遠藤恵は「何もしてくれるな」という。ただでさえ精神的に参っているところにそんな事を言われれば、それはもう遥がしょんぼりしてしまわない理由なんてどこにも有りはしない。
「…どうして…そんなイジワル言うの…? そんなに…ボクの事が嫌いなの…?」
遠藤恵にキツク当たられがちだった遥がそんな風に思ってしまったのは、半ばくらい仕方のない話ではあったかもしれないが、これに焦ったのが他でも無い、遠藤恵その人だ。
「ち、ちがうちがう! そういう事じゃないから! そ、そりゃぁ、確かに、どちらかと言えばあなたのこと嫌いだけど…、でも今はそういう事じゃないんだって!」
よほど焦っていたのか、遠藤恵は必至の弁解をしようとする一方で、うっかり正直な所まで白状してしまい、これでは益々遥を落ち込ませるばかりである。
「そっか…そうだよね…うぅ…」
遠藤恵に好かれていない事は分かっていたし、遥自身も特段好かれたいとは思ってはいなかったが、それでもやっぱり面と向かって「嫌い」だと言われてしまうと、繊細で多感な十代の心はどうしたって傷付かずにはいられない。現在特にその傾向が顕著だった遥は、今いるのが教室である事も忘れて、ついにはさめざめと泣き出してしまった。
「うっ…うぅ…ごめん…ごめんなさい…」
大きな瞳からぽたぽたと涙を溢れさせるその姿は見るに忍びなく、それがいよいよもって遠藤恵を焦らせる。
「ちょっ! あぁもう! やりにくい! あなたのそういうところが嫌いなのよ!」
遠藤恵はさらに追い打ちをかける様な事を言ってしまっていたが、それもまた焦りからくるもので、別に悪意あっての発言では無かったに違いない。大体、今の落ち込み様著しい遥は、誰がどう見たって面倒くさくて扱い辛い子で、遠藤恵でなくたって少なからず「やりにくい」と思った筈だ。その所為か、こんな時、いつもならすかさず遥のフォローに入りそうな沙穂や楓ですら、今回ばかりは動こうとはせず、我関せずとばかりに直ぐ隣の席でせっせと針仕事に勤しんでいた。
否、実のところを明かしてしまえば、今回二人がフォローに入らなかったのは、別に今の遥と関わり合いになりたくなかったからではない。今回二人がそうしなかったその訳はもっと別にあって、そしてそれはそのまま、遠藤恵が遥を文化祭の準備に参加させたがらない理由と全く同じ事でもあった。
「あのねぇ奏さん! いい! あなたに何もして欲しくないのはね、ソレよ! その手!」
そう言い放つなり、遠藤恵はその手を掴んで、それを半ば強引に遥自身の眼前へと突き付ける。
「えっ…? ボクの…手…?」
それは、今となってはもうすっかりと見慣れた、小さくて頼りない幼女の手。ただ勿論、遠藤恵が問題にしたかったのはその事ではく、その小さくて愛らしい手が絆創膏まみれの見るも痛々しい惨憺たる有様になっている事についてだった。
「エプロンを縫わせれば自分の指を縫い付ける! 大道具を作らせれば自分の手を切りそうになる! 物を運ばせたら手首を捻ってくるし、ついでに言えば絶望的に絵が下手でパネルも描かせられない!」
そう、つまりはそういう事なのだ。遥は事、文化祭の準備においては、最後の「絵が下手でパネルも描かせられない」という部分も含めて、正真正銘のまごう事無き「役立たず」だったのである。
念のために一つ断っておくと、遠藤恵が指摘した遥のあらゆるミスは、何も賢治の事で気がそぞろになっていた所為でおこしてしまった「事故」の類ではない。否、もしかしたら平時ならば少しだけましだったかもしれないが、おそらくそれは絆創膏の枚数が多少減る程度の差でしかなかっただろう。それでも敢えて無理やりその二つを致命的な問題として結びつけるとするならば、既に散々失敗しておきながらも、遥がそれをすっかり忘れて、今一度文化祭の準備を手伝ってみよう等と思った辺りくらいだろうか。
要するに遥は、生粋にして壊滅的な不器用であり、文化祭の準備に何一つ貢献できていない一方で、「役立たず」である実績だけは既にこれ以上ない位に残していたのであった。
「まったく、あなたは! あとどれだけ絆創膏を増やせば気が済むの!」
ここまで言われれば、流石の遥もどうして自分が文化祭の準備を手伝わせてもらえないのかを完全に理解して、ともなればもはや遠藤恵に返せる言葉も一つとして無い。
「あぅ…」
賢治に想いを告げられたあの日から一週間余り。それは、現実逃避ばかり続けていた遥がほんのひと時だけ立ち戻れた現実の、何でもないありふれた日常の一コマだった。




