5-17.舌戦と収拾
二学期が幕を開けてから一週間余りが経過し、遥が騙し騙しではありつつも一応は平穏な高校生活を送れる様になってきたある日の午後。遥の在籍する一年B組の教室では、男子と女子が真っ二つに分かれてかつてない舌戦を繰り広げていた。
「こんなの納得できない! 私たちは絶対にヤだからね!」
女子側を代表して、凄まじい剣幕で男子達に猛抗議しているこの女生徒は、遥とも因縁浅からぬ「青羽教」のリーダー格としてお馴染みの遠藤恵だ。そして、それに対する男子側の代表選手は、クジ引きの結果不運にも今学期よりクラス委員長を任されていた下村翔ことマサオだった。
「い、いやぁ、そんなこと言われましてもぉ…」
役職的にはクラスの長でも、実態的には何の威厳も権威も持ち合わせていなかったマサオは、遠藤恵の剣幕を前にすっかり気迫負けしている様子で、これが個人対個人の戦いであったなら、この時点で早々に勝敗は決していただろう。だがしかしこの戦いは、先にも述べている様に、男子と女子がクラスを二分して争ういわば総力戦なのだ。
「数は正義だぞー!」
「そうだそうだー!」
「民主主義に従えー!」
マサオ劣勢と見るや、男子達からはすかさずの援護射撃が飛び、かくあれば、当然ながら女子達も負けじとこれに応戦である。
「何が民主主義よ!」
「女子は一人も賛成してないし!」
「こんなの無効でしょ!」
この様な具合に、双方一歩も譲らずらないまま、もうかれこれ三十分くらいは経過しているが、何故こんな事になっているのかと言えば、勿論それには相応の理由が有った。
「大体ねぇ! いくら文化祭のテーマが『自由』だからって、『バニーガールカフェ』なんて破廉恥な出し物が許可される訳ないでしょ!」
咄嗟に「破廉恥」なんて単語が出てくるあたり、遠藤恵は意外と育ちのいいお嬢様だったりするのかもしれないがそれはともかくとして、争いの理由に関しては、要するにそういう事であり、もう少し詳しく説明すると話はこうだ。
事の始まりは、今朝のショートホームルームで、担任の中邑教諭からクラス全体に言い渡された次のような事柄からだった。
『七限目のロングホームルームで文化祭について話し合ってもらう。ついては、それまでに各自一案、クラスの出し物を紙に書いてこちらの箱まで提出しておくように』
おそらく中邑教諭は、それによって協議のスリム化を図ろうとしたのだろう。事前に提案を募っておけば、精査や検討から協議を始められて時間を節約できるという寸法だ。無用な手間を嫌う中邑教諭らしい合理的なやり方だがしかし、結果論で言えばこれは完全なる失敗だったと言わざるを得ない。
何故なら、中邑教諭が取ったそのやり方を逆手にとって、提案そのものを結論にしてしまえるのではないかと、そんな不届きな事を思いついた者達が居たからである。
勿体ぶらずに明かしてしまうとその不届き者というのがつまりは、ごく一部を除いた一年B組の男子ほぼ全員な訳だが、では彼らが具体的に何をしたのかと言えば其れについては簡単だ。
彼等は賛同者全員が全く同様の案を提出する事で、立案の段階から圧倒的多数派の意見を擁立し、それをそのままクラスの総意として可決させようとしたのである。
なんともはや小賢しい事を考え付いたものだが、男子のほぼ全員がこれに加わったとなれば、確かにその意見はクラスの過半数近くの賛同を得た事になるのだから、中々どうして馬鹿にしたものではない。
ただ、そんなある種盤石の態勢で挑んだ男子勢であったが、そんな彼等の作戦には底抜けに大きな穴があった。
それこそは、彼らが多感な男子高校生であるが故に、肝心要の擁立案に「バニーガールカフェ」等という自分たちの欲望に忠実過ぎる物を選んでしまった事だ。
曰くそれは、名称の通りの女子がバニーガールに扮して接客してくれる夢の様な空間だとかで、当の女子達がこれに猛烈な拒否反応を示した事は言うまでも無い。
メイドカフェ辺りで妥協しておけば、もしかしたら男子達の目論見はまんまと達せられたかもしれない所を、何ともはや惜しい事をしてしまった物だが、そんなこんなで一年B組では現在、男女がクラスを二分してかつてない舌戦を繰り広げている次第だった。
「俺達は女子のバニーガール姿が見たいんだー! それの何が悪いー!」
遂には開き直って男子の一人がそんなぶっちゃけた声明を高らかに謳い上げれば、当然の事ながら女子達からは非難轟々である。
「サイっテー!」
「信じらんない!」
「このヘンタイ!」
「これだからドーテーは!」
等々、これでは納まる物も納まらず、男子と女子の舌戦は苛烈さを増していく一方であるが、そんな中、我関せずとばかりに傍観者を決め込んでいる生徒も若干名居ない訳でも無かった。
「なんでも良いから早く終わってくんないかなぁ…」
激しい言い争いが続いている教室の片隅で、黒板の上に掲げられた時計をチラリと見やって小さく溜息をついたのは、遥の隣に座っていた沙穂である。
「だねぇ、今日は映画見に行く予定だし、放課後まで食い込むのは勘弁してほしいよー」
同じ様に小さく溜息をつきながら沙穂に同意した遥もまた傍観者の一人であったが、そんな二人の様子にちょっとばかりビックリしたの顔を見せたのが楓だ。
「二人ともなに落ち着いてるの!? バニーだよ!? バニーガールだよ!? 嫌じゃないの!?」
嫌どうかで言えば、もちろん遥はバニーガールの扮装なんてものは断然願い下げであるし、おそらくそのあたりの意見は沙穂のほうも似たようなものだろう。それにも拘らず、遥と沙穂が傍観者を気取っていられたのは、二人共この企画が成立するとはそもそも思っていなかったからだ。
「大丈夫だって、遠藤さんも言ってたでしょ? こんなの許可される訳ないんだから」
沙穂が落ち着いていられる理由を端的に述べれば、全くの同意見だった遥もこれにウンウンと頷いて見せる。
「そうそう、いくらウチの学校がゆるいからって、バニーガールは流石に無理だよー」
常識的な観点からそうだと信じて疑わなかった遥と沙穂は実にお気楽なものだったが、それでも楓は依然として気が気ではない様子で、表情を引きつらせながら教壇の方をチラリと見やった。
「で、でもぉ、中邑先生はさっきから何も言わないよぉ…?」
確かに楓の言う通り、中邑教諭は初めに協議の進行をクラス委員長であるマサオへと託して以来、教壇横に据えたパイプ椅子にどっかりと腰を据えて静観を貫いている。それもあって男子と女子の舌戦はここまで加熱している訳だが、遥と沙穂はその辺りも特には不安視していなかった。
「中邑先生が途中で口を挟んでこないのはいつもの事でしょ?」
これまでの経験則から、それは決して異例の事態ではないことを遥が指摘すると、今度は沙穂の方がこれにウンウンと同意の頷きを見せる。
「そそ、とりあえず生徒だけで議論させて、最後にダメ出しするいつものパターンよ」
実際にそれが中邑教諭のやり方で、遥と沙穂が呑気でいられたのは、一学期を通してその事を良く学んでいたからだ。そして、この遥たち三人の会話が耳に届いていたのか、それとも単に頃合いだと思ったのか、中邑教諭が文字通り重い腰を上げて、事態の収拾に乗り出したのは、丁度そんなタイミングでの事だった。
「あー、静粛に!」
騒然となっている教室内に一喝を響かせながら、中邑教諭が一瞬だけ遥たちの方に視線を送ってきた所を見ると、どうやら先のやり取りはバッチリ聞こえていた様である。
(あはは…聞こえちゃってたみたいだね…)
遥は何となく気まずくて、沙穂にひっそりと耳打ちしながらペロリと舌を出したりもするが、取りあえずこれでこのバカ騒ぎが放課後までもつれ込む可能性はグッと低くなった為、それについては内心でホッと一安心である。
ただ、遥が呑気でいられたのはこの辺りまでで、このあと事態は全くもって予想外の方向へと展開していった。
「まず、一致団結して一つの事を成し遂げようとした男子の姿勢については、個人的に評価したいとは思っている」
事態の収拾に乗り出した中邑教諭が導入として述べたこれも、割と予想外と言えば予想外の発言で、女子達からは「えー!」という非難の声が多数上がっていたが、後の事を思えばこれ自体は別にどうという事も無かっただろう。
「が、文化祭は学校行事の一環だ。であればバニーガールに限らず、公序良俗に反する様な露出度の高い装いは当然ながら許可できない」
今度はこれに男子一同から「えー!」という不満の声が上がるも、これは遥や沙穂が予想していた通りの展開で、流れとしては決して悪くは無かった。
「そもそも、例えバニーガールの衣装を許可できたとしても、肝心の当人達が其れを着たがらないとなれば、それは企画として無理が有ると言わざるを得ない、よって―」
これにて男子達の夢は儚く散って、バニーガールカフェは敢え無く却下されるかと思いきや、このとき予想外の展開は既にその幕を開けていたのだ。
「この企画は、立案者である男子側の意向もある程度汲みつつ、衣装の選定を女子が主導するという形で再検討してもらいたい」
もしかしたらその采配は、一致団結して見せたという評価点を得ていた男子達に対する中邑教諭なりのご褒美だったのかもしれない。ただ当然ながらこれには男女双方から大きなどよめきが上がり、そして、これまで我関せずを決め込んでいられた遥をまさかの展開が襲ったのは、正にこの次の瞬間だった。
「ついては、そうだな…あー、奏、それと早見、まずはお前達二人で衣装の草案を考えて来るように」
いったい、誰がその展開を予想していただろうか。少なくとも、一年B組の生徒達は、誰一人としてそんな事になるとはこれっぽっちも思っていなかったに違いない。
その証拠に、一年B組の生徒達はしばしの間、中邑教諭が何を言ったのかまるで分からないと言った様子で、完全にポカンとしてしまっていた。
「一先ずの期限は週明けの月曜までとする。俺からは以上だ」
中邑教諭が締めくくりの言葉を述べたのと、七限目の終了を告げるチャイムが鳴り響いたのはほぼ同時の事だったが、一年B組の生徒でそれに反応できた者はいない。
「では奏、早見、任せたからな」
それだけ告げて中邑教諭が教室から立ち去って行っても、一年B組の教室は引き続き唖然とした空気に包まれたままで、指名を受けた当の本人である遥と青羽を含め、クラスの全員が正しく事態を理解したのは、それから更にしばらく経ってからの事だった。




