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5-16.不安と安心

 遥が相変わらず女の子としての自意識を今一つ欠いている所為で、階段を昇るだけの事で随分と気力を減衰させられてしまった賢治であるが、それは遥の部屋に辿り着いてからも同じ事だった。

「―でね、今日はちょっとダメだったけど、たぶん次は大丈夫だと思うんだ!」

 部屋に辿り着いてから、賢治が改めて尋ねてみた「今日の体育はどうだったのか」という質問に対して、事の次第をザックリと語ってくれた遥がそんな随分と楽観的な結論で話を締めくくったのは取りあえず良いとしよう。

 いやそもそも、体育の着替え問題なんてものは、結局のところ本人の意識次第なのだから、実際それは普段物事をネガティブに考えがちな遥にしては、珍しく中々に良い傾向でもあったのだ。

 とは言え、いざ次の体育がやってきた時、「やっぱり大丈夫じゃ無かった」何て落ちは大いにあり得る話で、その辺り賢治としては引き続き心配の種ではある。

 ただ、今ここでそれを訴えるのは、流石に老婆心に過ぎるというもので、下手をすれば遥の不安を無駄に煽ってしまう事にもなりかねない。

 であるならば、賢治としてもここは取りあえず、遥が珍しく楽観的になれている事だけで良しとしておくのが間違いなく上策だった。

「そうか、良かった…な…」

 遥が語ってくれた一連の話に対して、一応の肯定的な感想を述べつつも、賢治が今一つ冴えない表情で何となく歯切れも悪かったのは、内心ではやはり老婆心が拭い切れていなかったから、というのも勿論有ったのだが、実のところ何もそればかりが原因では無い。

「うん、だから賢治も、もうそんな心配しなくて大丈夫だよ?」

 ちょっぴり苦笑しながらそんな気遣いの言葉を掛けて来た遥に、賢治が思わずギクリとさせられてサッと目を逸らしてしまったのに関しては、内心の老婆心を見透かされてしまった事よりも、完全に別な要因の方が大だった。

「あ、あぁ、そう…だな…」

 やはり歯切れが悪く、余所余所しくすらあったその返答に、遥は「もー、賢治はしかたないなぁ」と再び苦笑するが、賢治からしてもそれは正しく「仕方なかった」のである。

 それと言うのも、賢治の視界にはさっきからずっと、ミニ仕様になっている制服のスカートと、夏場でも相変わらず着用しているニーソックスとの間に形成された遥の『絶対領域』が、何ともはや悩ましい感じでチラついたからだ。

 その所為で賢治は、遥の部屋に来てからというもの、目のやり場にずっと困っており、要するにそれが先の余所余所しくすらあった態度の主原因という訳だった。

「あっ、そう言えばね賢治、ちょっと聞いてよ!」

 今日の体育に関する報告がひと段落した処で、何か思い出し顔になって新たな話題に転じて行った遥であるが、その間にもスカートとニーソックスの間では眩いばかりの『絶対領域』が絶妙な見え加減でチラついている。

「お、おう…」

 等と一応の返答を返しながらも、賢治が内心、気が気でなかった事は言うまでも無い。

 思えば、遥の部屋における定位置だからという安易な考えから、賢治が今回も普段通り、ベッドを背にする形で腰を下ろしてしまったのが間違いの始まりだった。

 いや、もっと遡れば、賢治が心配の余り、学校から帰って来る遥を玄関前で待ち構えてしまった事がそもそもの敗因だったのかもしれない。

 何故なら、普段の遥は学校から帰って来ると直ぐに制服を脱いで、部屋着として使っている丈の長いゆったりしたワンピースに着替えてしまう為、それならば賢治は少なくとも目のやり場に困ったりすることは無かった筈なのだ。

 それが今回は、賢治が帰宅直前のところをつかまえて、そのまま部屋まで付いて行ってしまった物だから、当然の結果として遥は今もまだ制服のままなのである。

 さらに加えて言えば、賢治が当初より積み重ねていた心配の余り、部屋に辿り着くなり、「それで、今日の体育はどうだったんだ?」等という改めての質問を早々に投げ掛けてしまったのも一つ、大きなミステイクだった。

 何せ、その問い掛けによって、二人には「対話」の必要性が生じて、賢治が定位置に居るとなれば、其れに相対する遥の最適な位置取りというのは、昔から勉強机に備え付けの椅子と相場が決まっていたからだ。

 床に腰を下ろしているところに遥が椅子に座って相対したとなれば、視点の高さ的にも賢治の視界にその眩しい『絶対領域』を嫌が応にも入ってしまうのは当然と言えば当然の結果だった。

 無論、賢治は遥がその位置に座った時点で、階段の時と同じ様に「危ない」事を忠告してはいたが、今も現在進行形で目のやり場に困っているという事はつまり、その忠告は聞き入れられなかったという事である。

 遥に言わせれば、椅子に座っている状態なら「絶対に『中』は見えないから大丈夫」との事らしい。

「でねー、ヒナはいっつもボクのお弁当から卵焼きをとってくんだけど―」

 人の気も知らずに、大変に朗らかな調子で話を続けている遥は、時折足をパタパタとさせて、確かにそれでも尚本人が言う様に『中』が見えてしまう事は無かったがしかし、それはそれで賢治からしたらまた中々に気が気ではない。寧ろ、見えそうだけど見えないというその何とも絶妙な塩梅は、『絶対領域』だけでも既に大分目のやり場に困ってしまっていた賢治にとってはもう相当に堪えるものがあった。

(…ゴクリッ)

 遥が一生懸命話してくれている手前、賢治は目を逸らしっぱなしという訳にいかず、それもまた中々に具合が悪い。いけない事だとは思いつつも、遥と目を合わせるふりをしながら賢治がついついその太もも辺りをチラ見してしまうのは、悲しい男の性というヤツだろうか。

 賢治はこれまでも、遥の水着姿や、それこそ一糸纏わぬ生まれたままの姿だって見て来てはいるが、今回のコレはそれらに勝るとも劣らない破壊力があった。事実、賢治はもう内から沸き上がる劣情を抑えるのに必死で、正味な話、その下半身では、現在の遥には無い例のアレが今にも怒髪天を突きそうになっていたりもする。

「―って事らしくて、ボクはへーって思ったんだけど、賢治はどう? どっちが好き?」

 目の前の親友が内心で理性と劣情を壮絶に戦わせているとも知らずに、呑気な様子で話を続けていた遥は不意にそんな質問を投げ掛けて来たが、もちろん賢治がこれに答えられた道理はない。

「えっ? なっ…えっ?」

 遥が話していた内容の内、賢治がかろうじて聞いていたのは、沙穂がお弁当の卵焼きをとっていくという部分くらいのものだ。そこから何がどうなって自分の好みを問う質問に至ったのかが賢治には全く分からなかったし、それ以前に主題が何で有るのかがまずもって不明であり、これでは誤魔化し程度の適当な解答すら述べようが無い。

「す、すまん…! もう一回、言ってくれないか…?」

 結局、いくら考えても質問の趣旨すら分からなかった賢治が平謝りと共に再度の出題を要求すると、流石の遥もこれは怪訝に思った様で、眉をひそめて小首を傾げさせる。

「どしたの賢治? 今日は何かずっと変だよ…?」

 どうしたのかと言えばそれは、遥の『絶対領域』と見えそうで見えないその更に『奥』が気になって話が全く耳に入っていなかっただけの事なのだが、賢治が其れを素直に白状できなかったのは言わずもがなだ。

「い、いやぁ…その…ちょっと…なぁ…」

 賢治がそんな曖昧な返答で言葉を濁すしかなかったのは仕方がないとして、遥がこれで納得してくれなかったのもまた仕方の無い事だろう。

「ちょっと…なに…? もしかして何か悩み事…?」

 賢治にとって現在最も悩ましい事柄というと、それは先程の「どうしたのか」という問い掛けに対する答えと全く同じであり、当然ながらこれも言える訳は無い。

「い、いや…その…そういうんじゃ…ないんだが…」

 賢治はここでもやっぱり言葉を濁すしか無かったが、これを受けた遥は不意にピョコッと椅子から飛び降りたかと思うと、そのまますぐ目の前にまで歩み寄ってきた。

「賢治…」

 遥が椅子から降りて歩み寄って来た事で、その『絶対領域』が視界から外れる事となった賢治はホッと胸を撫で下ろしかけるも、残念ながらそれにはまだ到底及ばない。

 それどころか、次の瞬間に起こった出来事は、賢治からすればそれまであった気まずさが可愛く思えてしまえる位にはとんでもない事態だった。

「ゴメンね…」

 直ぐ耳元から聞こえて来るほんの少し震えた声。頬をくすぐるふわふわとした柔らかな感触。そして、身体全体で感じられる少し高めの体温と微かな重み。

「…っ!?」

 それは、余りにも突然の事で、賢治は一瞬何が起こったのか分からなかった。

 正確に言えば、目の前にまで歩み寄ってきた遥が其処で足を止めず、そのまま身体を預ける様に抱き着いて来た事だけは、その全身でハッキリと感じ取れてはいたのだが、賢治には何故そんな事になったのかがまるで分からなかったのだ。

「は、ハル…!? ど、ど、どうしたんだ急に…!?」

 余りの事に、賢治が隠し得なかった動揺をそのまま疑問として投げ掛けると、遥はその手で触れていた襟辺りをキュッと握りしめながら、再び耳元で囁きかけて来る。

「いつも、心配ばかりかけてゴメンね…、ボク…もっとしっかりするから…」

 改めて告げられた謝罪と、そこに付け加えられた意思表明で、ようやく大凡の事に理解が及んだ賢治は、まるで頭から冷水をかぶせられたかの如く俄かにハッとなった。

「ハル…お前…」

 遥はきっと、自分を安心させたくて、今こうして抱き締めてくれている。

 その理解が正しければ、遥は大きな勘違いをしてしまっている事になるが、賢治にとってそれはもうさして重大な問題では無かった。今ここで最も重要だったのは、遥を心配していたつもりが、逆に心配を掛けてしまっていたという事実以外に無い。

「ハル…俺は…」

 賢治は小さな遥のささやかな重みと、自分よりもほんの少し高めの体温を全身で受け止めながら、ふと想いを馳せる。

 それは、遥が目覚めてまだ間もなかった在りし日に、賢治が見つからない親友の姿を追い求めて、悪夢の様な三年間を過ごしていた事を吐露した時の記憶。あの時も遥は、こんな風に、まるで陽だまりの様な暖かさで優しく抱き締めてくれた。

「そうか…そうだよな…」

 思えば遥は、いつだって自分の前を歩いて、手を差し伸べてくれている。

 思えば賢治は、いつだって遥の存在に救われて来た。

 遥は先程、「もっとしっかりするから」と、そう言ったが、賢治は今、地に足が付いていなかったのは寧ろ自分の方だった事を最早否定し得ない。

「ハル…」

 賢治はこんな時、何と言ったら良いのか、言葉を探して僅かに逡巡するも、その答えは直ぐに見つかった。

「ハル…いつも、ありがとう」

 その言葉に応える様に、遥は一層その身を寄せて、唯々優しく抱き締めてくれる。

「ううん…」

 肯定的な否定を返して来た遥のちょっとくせのあるふわふわとした柔らかな髪が頬を撫でて、その感触は少しくすぐったくはあったが、こんな時間がこれからもずっと続けば良いと、賢治は今日、改めてそう強く願った。

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