5-13.ちょっと良い事
明けて翌日。
その日、女の子として遂に体育の授業を「ちゃんと」受ける事となった遥は、結果から先に述べてしまうと、やっぱり大丈夫なんかでは無かった。
一応、沙穂が前日に立ててくれた作戦のお陰で、始まる前の着替だけは何とか乗り切って、体育の授業そのものにはキッチリと参加したのだがしかし、その後、つまりは終わった後の着替えが案の定、どうにもこうにも「大丈夫」ではなかったのである。
勿論、終了後の着替えに際しても、沙穂が楓と二人で壁になって視界を制限してくれるという対策を前日の内に講じてくれてはいたし、それに加えて遥自身、前夜にネットを使った「独自の予習」を行って、万全とはいかないまでも相応の備えをしてはあったのだ。
それにも拘らず、結果は「惨敗」の一言であり、更にその結果として、遥は今、沙穂と楓によって保健室にまで連れて来られていた。
何ともはや情けない話しではあるのだが、遥は周りで二クラス分の女子が着替えているというその場の状況に耐え切れずに目まで回してしまい完全なグロッキー状態になってしまったのである。
結局のところ、遥にとっては視覚的な情報以前に、沢山の女の子が着替えているその場に居合わせるというシチュエーションそれ自体が強烈に過ぎたのだ。
そんな調子では、当然ながら前夜に行った予習などは役に立った訳も無く、沙穂が折角考えてくれた対策もこれといった効果が無かったのだって無理のない話であった。
「美鈴ちゃーん、この子おねがい―」
保健室に辿り着いた所で、沙穂がそんな気安い呼びかけと共に扉を開ければ、遥がやって来るときはタイミング悪く離席している事の多い養護教諭の美鈴恵美が今日は珍しく在室で、ちょっと困った顔をしながらも基本的には愛想良く応じてくれた。
「あらあら奏さん、どうしたの? 足でも挫いちゃった?」
沙穂と楓に支えられながら保健室に連れられて来た遥を一瞥して、美鈴恵美がまず最初に怪我の線を疑ったのは、一年生がさっきまで体育だった事を知っていたからだろう。
ただ、勿論、遥が保健室に連れられてきた理由は体育の授業中に怪我をしてしまったからでは無く、そのあたりの経緯については楓がかなりの掻い摘んだ説明をしてくれた。
「えっとー、カナちゃんは二学期から体育の授業に出る様になったんですけどぉ、でもまだ慣れて無いみたいで気分が悪くなっちゃったみたいなんですよー」
それは、嘘という訳では無いが真実とも若干異なっている大変微妙な感じの説明で、こうなったのはおそらく楓が遥の複雑な事情に配慮してくれたからなのだろう。
尤も、教師陣にはそのあたりきちんと周知されている為それは要らぬ配慮だったのだが、いずれにしろ楓の説明は文脈的な部分では特に不自然な所も無かった所為、美鈴恵美はその説明で納得してしまった様だった。
「そういえばあなた、体育はずっと見学だったわね、参加できるようになったのが嬉しくて、ちょっと張り切っちゃった?」
遥としては、参加できて嬉しいどころか、永遠に見学していたかったくらいなので、当然ながらこれはとんでもない誤解である。ただ、今の遥には誤解を正すだけの元気は無く、また沙穂と楓もここは敢えて誤解を正す必要性も無いと思ったのか、そのまま話は進んで行った。
「うん、まー、そんな訳だから、美鈴ちゃん、この子、ちょっと休ませてあげてー」
事情はどうあれ、遥の具合が芳しくない事は美鈴恵美の目から見ても確かだった様で、これには直ぐに快い了承が返って来る。
「それじゃぁ、あっちのベッドで休ませてあげて」
これに「はーい」と声を揃えて応えた沙穂と楓は指定されたベッドの方へと遥をいざなってゆき、それが済んだところで二人には美鈴恵美からもう一つだけ指示が出された。
「後は私が見ておくから、付き添いの二人は授業に戻りなさい」
その言葉に沙穂と楓が半ばお決まりごとの様に「えー」と不平の声を上げれば、美鈴恵美は少しばかり困った顔をしながら、若干わざとらしく首を傾げて見せる。
「あなた達が友達をダシに授業をサボった何て話しが中邑先生の耳に入ったら、一体どうなっちゃうのかしらねー?」
沙穂と楓は中邑教諭が友情や恋愛事なんかにも理解のある意外と「話せる大人」である事を今では知っているが、だからと言って怒らせたら怖い先生である事にも変わりは無く、であればここは大人しく美鈴恵美の指示に従うしかない。
「カナ、また昼休みに様子見にくるから!」
「うん、その時はお弁当、持って来るね!」
沙穂と楓はそれだけ言い残すと、今もまだグロッキー状態から抜け出せずにいる遥を美鈴恵美に託して教室へと戻って行った。
「さて、一応、熱計ってね」
沙穂と楓が出て行ったのを見計らって、ベッドの上にちょこんと座らされた状態で残された遥の方へと歩み寄って来た美鈴恵美は、慣習的に体温計を差し出してくる。
「あ…はい…」
遥が言われるままに体温計を受け取って検温を始めると、その間に美鈴恵美は一旦傍を離れて.、保健室に備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本取って持って再び戻って来た。
「はい、交換」
遥には一瞬、それが何の事を言っているのか今一つピンと来なかったが、ちょうどそんな折に脇の下で体温計がピピッと鳴った事で、美鈴恵美の意図に大凡で察しが付く。
「あ、あぁ…」
何と何が交換だったのか理解した遥が検温の終わった体温計を差し出せば、思った通り其れと引き換えに美鈴恵美からミネラルウォーターのペットボトルが手渡された。
「はい、どうぞ」
美鈴恵美から受け取ったペットボトルは、さっきまで冷蔵庫に入っていただけあって、程良く冷えており、オーバーヒートを起こして保健室に連れて来られた遥にとっては何とも有難い限りだ。
「ひやっこくて、きもちいい…」
遥が特に熱が溜まっていそうだった額あたりにペットボトルを当てがってクールダウンを図っていると、美鈴恵美はその様子にちょっと頬を緩ませながら、「交換」した体温計をチラリと見やる。
「三十七度二分ね、ちょっと高めだけど、平熱の範囲かしら」
目を回してしまったくらいなのだから、それはもう体温だって「ちょっと高め」になっていて然るべきだが、実のところ遥は身体が幼女なだけあって元々体温が高めで、美鈴恵美の言う通り三十七度二部くらいは十分に平熱の範囲だ。
「そうですか…、よかった…?」
遥が検温の結果と美鈴恵美の見解を言葉の上では良しとしながらも若干の疑問形だったのは、自分の体感的にはもっと露骨に熱がある様な気がしていたからである。
「しばらく休んでいけば気分も良くなると思うから、心配しなくても大丈夫よ」
微妙な反応だった遥の内心を慮ってくれたのか、体調面に関しては特に案ずることは無いとした美鈴恵美だがしかし、その次には何やら少しばかり神妙な面持ちを見せていた。
「ねぇ、奏さん、女の子はやっぱり大変?」
その問い掛けは、唐突といえば余りにも唐突で、実際、美鈴恵美からこんな質問が飛び出して来るなんて事を全くもって想定もしていなかった遥は、完全に面食らって目をパチクリさせてしまう。
「…へっ?」
予想外過ぎた質問に思わず間の抜けた声を上げてしまった遥だが、美鈴恵美の方は引き続きの神妙な面持ちのまま直ぐ目の前にかがみ込んでジッと顔を覗き込んできた。
「あなたよく保健室に運ばれて来るから、それで先生、前からちょっと心配してたの」
という事の様で、そう言う筋道があったのであれば、美鈴恵美が先の質問に至ったのも取りあえずは納得の遥だ。
「だからね、奏さん、もし女の子で居る事が負担になっているのなら―」
遥には、美鈴恵美がその先になんと続けようとしていたのか、その正確な所は正直分からなかった。
おそらくは、「相談してほしい」とか、そういった感じの事ではあったのだろう。そうであるならばそれは、生徒の心身を預かる養護教諭という立場にある美鈴恵美からすれば、職務にも準じた当然の申し出だったに違いない。
ただ、遥には、美鈴恵美が本当は何と言おうとしていたのかはやはり分からなかった。
それはきっと、とても優しい言葉の筈だったから。だから遥は、咄嗟にその発言を遮って、だから美鈴恵美が本当は何を言おうとしていたのかが分からなかった。
「負担だなんて思ってないです!」
それまで半ばグロッキー状態だった遥から突如上がった強い否定に、今度は美鈴恵美が面食らってしまったのは言うまでも無い。
「た、確かに、大変な事は一杯あるけど、でも、楽しい事や、嬉しい事だって同じくらい一杯あるから…っ! だから…だからボク! ボクは頑張れます!」
美鈴恵美が怯んでいる隙に、想いの丈を一気呵成に捲し立てていった遥の其れは、もしかしたら自分自身に言い聞かせる為の言葉だったのかもしれない。
今日の事に限らず、ここ最近、ずっと小さな憂鬱が立て込んでいただけに、それは正しく堰を切った想いの丈でもあったのだろう。
そうしなければ、挫けてしまうのはいとも容易い事だったから。美鈴恵美の発言を咄嗟に遮ったのも、今ここで優しい言葉をかけられてしまったら、在りし日に誓った覚悟がぶれてしまいそうだったからだ。
そしてそんな遥の気持ちが伝わったのか、美鈴恵美ももう先の発言を再開させる事は無く、その代わりに遥が無意識にギュッと握り込んでいた拳にやんわりと触れてにっこりと微笑みかけて来た。
「そっか、奏さんは、頑張れるのね?」
これに遥が力強い頷きを見せると、美鈴恵美はその拳からは手を放しながら、「それじゃぁ」と言葉を繋いだ。
「そんな頑張れる奏さんに、先生がちょっとだけ良い事を教えてあげる。実はね、体育の着替えを気まずいと思ってる女の子は結構多いのよ? 知ってた?」
一体何を教えてくれるのかと思えば、其れは少々思ってもみなかった情報で、遥はこれに思わずキョトンとしてしまう。
「えっ…? えぇっ?」
知っていたかどうかで言えば勿論、遥がそんな事を知っていた筈も無いが、代わりに一つだけ今ここでハッキリと分かった事があった。
「っていうか先生こそ! ボクが…その…し、知ってたんですか!?」
そう、今ここで体育の着替えに関する情報を教えてくれたという事はつまり、美鈴恵美は遥が保健室に連れられて来た原因が何だったのかに勘付いていたという事になるのだ。
「ふふ、養護教諭だからそれくらいはね? それに結構その手の相談をしにくる子って多いのよ?」
養護教諭だから勘付いたというのは分かる様な分からない様な微妙な理屈ではあるが、後半部分については確かに養護教諭ならではの確かな情報という事にしておいていいかもしれない。
「そ、そうですか…、でも…、そっか…体育の着替えが気まずいのは…、普通の女の子も一緒なんだ…」
勿論、全員が全員そうという訳では無いだろうし、実際、美乃梨や小森茜の様に全然気にしてない明け透けなタイプの子だっている。それに加えて、厳密な話をすると、遥の「気まずさ」は元男の子である事に起因している為、一般的な女生徒達の其れとは成り立ちからして異なっている為一概には同一視出来ない。ただ、遥にとって今ここで肝要だったのは、理由や形はどうあれ、普通の女の子も体育の着替えを気まずく思っているというその事実だった。
「そんな訳だから、奏さんもあんまり気負い過ぎない様に、っていうのは難しいと思うけど、自分だけじゃないんだって考えるとちょっとは気が楽でしょ?」
確かにそう考えると「ちょっとは気が楽」になって、お陰で遥は何となく今後の体育についても漠然とした希望が見いだせた気がしないでもない。
「先生、ボク…本当に頑張れそうです!」
無論、実際の所は、その時になってみなければ分からないが、改めてそう宣言する事でこれまでずっと憂鬱だった遥の中に一つ前向きな気合が入った事だけは確かだった。




