4-45.大人のふり
美乃梨とまさかの遭遇をはたしてしまい、大いに気持ちをかき乱されてしまった賢治であったが、後にして思えばそれはまだほんの軽いジャブ程度の出来事でしかなかったのかもしれない。
友人達に強制連行されていった美乃梨と入れ替わる様にして、とある人物が屋台を訪ねて来た事によって、賢治は程なくそれを思い知る事となる。
「けーんーじーくんっ」
余計な事を考えてしまわない様、一心不乱に焼きそばを量産していてた賢治にとって、その呼びかけは些か不意を付いたものではあった。
美乃梨の直ぐ後だっただけに、名前を呼ばれた瞬間こそ思わず身構えてしまった賢治は、出来る事ならばそのまま臨戦態勢を維持しておくべきだったのだ。
ただ賢治は、屋台の前に立っていた大変に馴染みのあるゆるゆるとした笑顔を目にするやいなや、あっさりと警戒を解いてホッとすらしてしまっていた。
「あ、あぁ、なんだ…マリちゃんか…」
そう、今回屋台を訪ねて来たのは、ツインテールがトレードマークの近所に住む中学三年生、真梨香に相違なく、確かに賢治からすれば警戒し続ける方が難しい相手ではあったのだろう。
何せ真梨香は小さい頃からよく知っている妹分的存在であるし、今日に限って言えば雇い主のご令嬢という事にもなるのだ。
無論、令嬢というのは些か大仰が過ぎる誇張表現という奴ではあるが、賢治にとって肝要だったのは真梨香が屋台の関係者であるという点である。
今晩の真梨香は、一般客としてお祭りを楽しむ傍ら、賢治のやっている屋台の様子を父親に伝える連絡係の様な役回りを担っており、その為こうして訪ねて来るのもこれが初めてではなかったのだ。
それだけに、真梨香の顔を見て賢治が大いに気を緩めてしまったのも仕方の無い話ではあったがしかし、それでもせめてもの気構えくらいはしておくべきだった。
「おつかれさまだよー」
後にこの訪問が今晩最大最強と言っても過言では無い痛恨の極みになるとも知らずに、この時の賢は真梨香から送られて来た労いの言葉にちょっとした癒しを覚えもする。
「賢治くん、これー、飲み物の差し入れだよぉ」
そう言って真梨香が差し出して来た物は小さ目の保冷バッグで、その用途に違わず中身がよく冷えているのであれば、熱せられた鉄板と向き合いっぱなしだった賢治にとってこれほど有難い差し入れは他にない。
「わざわざありがとな、そんじゃさっそく…って―」
真梨香にお礼を述べながら、賢治が受け取ったばかりの保冷バッグを開けてみれば、確かに中の飲み物は良く冷えている様ではあったがしかし、それを今ここで飲んでいいかどうかについては少しばかり一考の余地がありそうだった。
「マリちゃん、これ…全部ビールなんだけど…」
賢治が若干の苦笑交じりに差し入れの実態について言及すると、真梨香は相変わらずのゆるい笑顔のままちょこんと小首を傾げさせる。
「今日はお祭りだからいいんじゃないかなー?」
それは分かる様な分からない様なとても微妙な理屈であり、今一つ頷きかねる賢治であったが、真梨香はそこへ相変わらずゆるゆるニコニコとしたまま一つの根拠を付け加えてきた。
「屋台のおじさんたちー、みんなけっこうお酒飲みながらやってるよぉ?」
言われてみればという感じで賢治が周囲の屋台に目を向けて見れば、実際にビールどころか一升瓶を片手に赤ら顔で商っている中々に豪快な者すらも居る始末だ。
無論、一升瓶は少々極端な例ではあったし、他がやっているから許されるという論法についても生真面目な賢治としては些か賛同し兼ねる。
ただし、真梨香が告げて来た次なる根拠については、流石に賢治の生真面目を以てしても、異を唱える事は中々に容易では無かった。
「それにぃ、これー、お父さんからの差し入れだよぉ?」
おそらく真梨香としては、だから飲んでも大丈夫だと、そういった趣旨の事を言いたかったのであろう。確かにビールを差し入れてくれたのが真梨香の父親ならば、それはつまり雇い主が営業中の飲酒を許可したも同然という風に解釈できなくも無い。
「そ、そうか…、そういう事か…」
賢治も差し入れが真梨香の父親からであったと知って、流石にようやくの納得を示しはしたがしかし、そこに至った理屈については真梨香の解釈とは少しばかり異なっていた。
「そう言う事なら、飲まない訳にはいかない…だろうな…」
寧ろそうしなければ、雇い主の意向に反してしまう事にすらなりかねないと、変に生真面目で妙に律儀であるが故に、賢治はそんな風に考えてしまったのだ。
本当に真梨香の父親がそんな意図でビールを差し入れていたとしたら中々に理不尽な話ではあるが、ただそれは大人の世界には割とよくある話でもある。
要するに賢治は、真梨香の父親から差し入れられたビールを「俺の酒が云々」的なアレであると解釈した訳だ。
もし、賢治に今どきの社会的風潮に対する幾らかの造詣あったなら、これを一種のハラスメントだと判断し差し入れのビールを固辞する事も出来たかもしれない。
ただ残念な事に、賢治は主に父親の影響でそのあたりはバリバリの体育会系気質であり、良きにつけ悪しきにつけこういう事に関しては無駄に空気の読める男だった。
「そんじゃまぁ、有難く頂戴しますか…」
最早これは望む望まないの話では無いと判断してしまった賢治は、致し方なく差し入れのビールを一本開けて、律儀な感謝の念と共にそれをひと思いに喉奥へと流し込む。
「ンッ…ンッ…ンッ…」
何だかんだと難色を示しはしたものの、いざ飲んでしまえば夏場の良く冷えたビールが不味い道理はどこにもない。
「ンッンッンッ…ぷはぁっ!」
あっという間に一本飲み干してしまった賢治が空になったビールの缶を景気よく鉄板の脇に叩き置くと、その様子を見ていた真梨香からはささやかな拍手が送られて来る。
「すごぉいー」
言葉とは裏腹に今一凄がっている様子が伝わって来ない気の抜けた真梨香の賞賛に賢治は微妙な笑顔を返しながらも、その手はほぼ無意識に二本目のビールへと伸びていた。
後になって振り返ってみれば、これもまた良くなかったのだが、賢治はそうとも知らず、手に取った二本目のビールを躊躇なく開けて、小気味よく喉を鳴らしながら景気よく流し込んでいく。
「ンッンッンッンッ…かーッ! うめぇっ!」
あっという間に二本目を飲み干して、遂には三本目へと突入しようとしていた賢治は、この時全く気付いていなかった。自分に対して向けられている真梨香の笑顔が、いつもより一割減のニコニコ加減であった事に。
「賢治くんは、もうすっかり大人だねぇ」
真梨香が漏らしたその感嘆が余りにも他愛なく余りにも何気なかった為、賢治は大して気にも留めず、半ば聞き流してしまっていたが、それこれが開始の合図だったのだ。
「ねぇ、賢治くん」
賢治は真梨香の事を幼い頃から良く知っていただけに、きっとどこかで未だに子供扱いして、甘く見てしまってもいたのだろう。だが賢治は、それこそがとんでもなく甘い見積もりであった事を、これから嫌というほど思い知る事となった。
「遥くんのことぉ、待っててあげてねー?」
不意に上げられた遥の名前と、そしてなりにより真梨香の言葉そのものに、賢治はハッとなって、三本目のビールを口元へ運ぼうとしていたその手をピタリと止める。
「なに…を…」
真梨香の言葉が余りにも思い掛けないものであったが故に、賢治は絞り出す様にしてそう返すのがやっとだった。
「遥くんが大人になるまで、賢治くんももうすこし大人になるのを待っててあげて欲しいなぁって、マリはそう思ったんだぁ」
賢治には、真梨香がどんな想いを込めてそんな事を言うのか、その正確なところは分からない。
ただその言葉は、元々無警戒だった上に、急速摂取したアルコールによってより最早全くのノーガード状態になっていた賢治の無防備な心を打ちのめすには十二分に過ぎた。
「なんで…そんな…こと…」
賢治の脳裏に、まだ目覚めて間もなかった頃のままならない身体を引きずりながらも、懸命になって自分に追いつこうとしていた遥の痛ましい姿が蘇る。
「お、俺はハルをおいていった事…なんて…」
賢治がかつては何の躊躇もなく言えたはずの言葉を言い淀んでしまったのは、果たして今でもそう出来ているだろうかと、思わず自問せずにはいられなかったその答えを直ぐには見つけられなかったからだ。
「賢治くんが今年もうちの屋台を手伝ってくれてー、お父さんは助かってるかもだけどぉ、でもマリはちょっとどうかなぁって思ってたんだよぉ?」
珍しく頬を膨らませながらだった真梨香の言い回しは少々曖昧ではあったが、何を「どうかと思っていた」のかくらいは、如何に鈍感な賢治といえども容易に察しがつく。
今年は遥が居るというのに、何故それを差し置いて屋台の手伝いなどにうつつを抜かしているのかと、真梨香はそう叱責しているのだ。
「そ、それは…」
遥に対する複雑極まりない想いから顔を合わせるのも辛かったからというのがその理由だが、例え真梨香が相手であろうとも、賢治はやはりそれを明かせ無かった。
もしかしたら、賢治はこの期に及んでもまだ真梨香の事を子供扱いして、幾らも見くびっていたのかもしれない。
「ねぇ、賢治くん、遥くんはいまでも遥くんのままだよ?」
その言葉で殊更にハッとなった賢治は、強かに脳天を打ち据えられた気分にすらなる。
「そ、そんな…こと…は…」
真梨香に言われるまでも無く分かっていると、出来る事ならば賢治は即座にそう言い返したかった。しかしそう言えなかったのは、先ほど「遥をおいていった事なんてない」と言い切れなかった事とまったく同じ理由からだ。
「きっとねぇ、遥くんは今すごく頑張ってるよぉ?」
遥が頑張っている事等は、それこそ言われるまでも無く分かっていた筈の事だったが、賢治はここへ来てハタと気付いてしまう。
「そう…か…、確かに俺は、ハルをおいて…大人になっちまってたのかも…しれない…」
賢治はいつからか、日増しに女の子らしくなっていく遥の方が寧ろ自分から遠く離れていっている様な気すらして、一抹の寂しさを覚えることがしばしばあった。
だが、真梨香が言った様に、どれだけ姿が変わろうとも、どれだけ「女の子」になろうとも、遥は間違いなく今でも遥なのだ。
それなのに自分は、表面的な事にばかり捉われて、あまつさえそれを色々な事を割り切る為の言い訳にすらしてしまっていたのだと、賢治は今正に気付かされていた。
おそらく真梨香は、そんな「大人ぶった」やり方を揶揄した上で、「遥を待ってほしい」とそう言ったのだ。
そうと分った今、賢治は、確かに自分は遥と遥の気持ちを置き去りして「大人」になってしまっていた事をも最早認めざるを得ない。
子供だと見くびっていた真梨香に諭されてそれに気付かされるなど、賢治にとっては正しく痛恨の極みとしか言いようがないだろう。
だが賢治は、最早それを恥だとは思わなかった。
中学三年生の真梨香は、もう何も分からない「子供」などでは決して無かったのだから。何より、真梨香以上に自分と遥の事を近くで見て来た者など他にそうはいないのだから、その言葉は今の自分にとってはどんな偉人の金言よりも価値があると、賢治はそう思えていた。
「マリちゃん…、俺は…どうしたらいい…?」
中学生で妹分の真梨香に助言を求めるなんて事は、きっとほんの数分前の賢治ならば考えもしなかった事だが、今やそれをするのにも何の躊躇もない。
「マリはねぇ、やっぱり賢治くんは、遥くんと一緒にいるのがいいと思うなぁ」
奇しくもそれは、つい先刻に美乃梨が言い散らかして行った事と殆ど同じ想いで、その際は相手が相手だっただけに賢治はにべもなく突っぱねてしまっていたがしかし、今ならば、真梨香の言葉ならば、それは容易に刺さり得た。
「あぁ…、そう…だよな…、其れしかない…よな…!」
目の前がパッと開けた気すらした賢治が改にした想いを胸にグッと拳を握り込むと、それを認めた真梨香はいつもの三割増しでニコニコとしながら一つ頷きを見せる。
「屋台はマリが見ててあげるから大丈夫だよー」
その言葉を聞いてしまえば、賢治が其処に留まっていられた理由は最早はどこにも有りはしない。
「わるい!」
賢治はたったそれだけ言い残すと、真梨香を残して勢いよく屋台を飛び出してゆく。
もう、遥をおいていったりはしない。
そして何より今はただ、一秒でも早く、一秒でも長く、遥の傍に居たい。
大人のふりをして賢治がいつしか諦めかけていたそれは、願いであり、誓いであり、そして何を犠牲にしてでも守りたかった唯一つの確かな想いだった。




