4-39.執着と我儘
物事には、始まりがあれば必ず終わりがある。
世間に数多いるちょっとだらしない高校生達がそんな世の理をつぶさに実感しだした八月の下旬、奏家のリビングにも今正に其れを嫌という程思い知らされている者が居た。
「こんなのぜったい終わる筈ないよぉ!」
奏家のリビングテーブルに突っ伏して楓が声高らかに謳い上げた其れは、勿論世の理に対して真っ向から喧嘩を売ろうなどという気概に満ちたものでは無い。
寧ろ楓の其れは、世の理が抗い難いものである事をこの場に居る誰よりも痛感しているからこその嘆きだ。
尤も、世の理だ等と大仰な言い回しを用いてはみたものの、楓が嘆いている物の実態は何もそんな大げさなものでは無く、言ってしまえば其れは完全な「自業自得」だった。
「大体おかしいよぉ…、だって夏『休み』なんだよ! こんなに課題があるなんて…全然『休み』じゃないよぉ!」
嘆きのあまりついには子供みたいな屁理屈をこねだした楓であるが、要するに、つまりはそういう事なのである。
「あんたって…ほんとに期待を裏切らないわねぇ…」
リビングテーブルの上に山となって積まれている問題集の一分をパラパラとめくりながら、沙穂が皮肉たっぷりな様子で小さく溜息をついたのも無理は無い。
世間に数多いるちょっとだらしない高校生達の枠組みに漏れる事無くバッチリ入っていた楓は、夏休みも残すところあと一週間を切った今日に至るまで課題にほとんど手を付けておらず、その所為で世の理を嘆く羽目になっているのだから、沙穂がいつにも増して辛辣なのは当然なのである。
「うぅ…だってぇ…前半は補習で忙しかったしぃ…」
楓はテーブルに突っ伏したまま「だから仕方がない」と言わんばかりであったが、沙穂に対してそんな言い訳が通用するはずもない。
「おかしいわねぇ…、あたしの記憶だとカナも補習があったと思うんだけど…?」
これまた皮肉たっぷりだった沙穂の鋭い指摘に、楓は気まずさいっぱいの青い顔で堪らずサッと目を逸らす。
「あっ…、ボクは…いちおう計画立てて毎日少しずつやってたから…、残りはあとちょっと…かな…」
自分の事に話題が及んだため、遥は馬鹿正直に課題の進捗状況を報告してはみたものの、そんな事は沙穂にしろ楓にしろ言われるまでも無く承知の上だった。
「カナはこう言ってるけど? おっかしいわねぇミナ? どうしてなのかしらねぇ?」
遥の余計な自己申告のお陰で沙穂の皮肉には益々の拍車が掛かり、楓はもうすっかり涙目だ。
「うぅ…カナちゃんのうらぎりものぉ…」
遥としては、「そんなこと言われても」という感じではあったが、何やら少々申し訳ない事をしてしまった気がしなくはない。
「…なんか…ごめんね?」
遥がうっかり謝ってしまうと、楓はそこに付け入る隙でもあると思ったのか、ガバッとテーブルから起き上がるなり、突然のにこやかな笑顔でスッと両手を差し出して来た。
「それじゃぁ、カナちゃんの課題を―」
楓はおそらく、「写させて」と続けようとしたのだろうが、いち早くそれを察知した沙穂がすかさず鋭く釘を刺す。
「丸写しなんてダメにきまってるでしょ! 課題なんて自分でやんなきゃ意味ないんだから!」
これに楓からは「えー」とあからさまに不満そうな声が上がるも、沙穂はそれに取り合わずに続けて遥の方にも念を押して来た。
「いいことカナ、ミナを甘やかしちゃダメよ!」
実のところ、いよいよともなれば楓に課題を丸写しさせるのもやむを得ないかもしれないしれないと思っていた遥は、これに思わずギクリとせずにはいられない。
「だ、だ、だよね! あ、あはは…そう…だよね…あははは…」
気まずさいっぱいに視線を泳がせて乾いた笑いを洩らす遥の様子に、沙穂は深々とした溜息をついてお得意の呆れ顔だ。
「ったくもぉ…ミナを甘やかして後で苦労するのはカナでしょ?」
確かにその通りで、こと勉強に関しては、楓を甘やかした分だけテスト前などに遥の負担が増える事になる為、沙穂の言う事は大変に御尤もである。
「それは…、そうなんだけど…ね…」
沙穂の言う事がいちいちド正論なだけに、流石の遥もこれには返す言葉がそうそうには見つからない。
「はぁ…こんなに残ってるんじゃ…夜までには終わらなそうねぇ…」
改めて山のように残っている楓の問題集をパラパラとやりながら、沙穂がチラリと目をやったリビングの壁に据え付けられているデジタル時計は、午前十時過を示していた。
暗くなってからを「夜」と定義するのであればまだまだたっぷりと時間はある様に思えるが、その実、楓の課題を片付けるには到底十分とは言い難い。
「うーん…、ミナの課題がこんな状態じゃ…、今日の花火大会は取りやめかしらねぇ…」
少しばかり口惜しそうにしながら沙穂が中止もやむなしとした「花火大会」とは、遥たちの住む街で今晩開催される夏祭りのことだった。
遥たちはお盆の前ごろからこの花火大会を見に行く約束をしており、三人がこうして奏家に集まっているのは、それこそがメインの趣旨だったのだ。
無論、ただ単に花火大会へ行くだけなら、何もこんなに早くから集合している必要はないので、その前に夏休みの課題を捗らせておこうというのも趣旨の一つではある。
日中に「課題」という後顧の憂いを断っておくことで、夜の花火大会を何の気兼ねも無く思う存分満喫してやろうと、今日は元々そんな具合の算段だったのだ。
しかしそれも、楓の課題が思った以上に進んでいなかった事によって、沙穂はメインイベントである筈の花火大会を断念せざるを得ないと言う。
「ね、ねぇヒナ、取りやめって…、そこまでしなくても…」
存外に今日の花火大会を楽しみにしていた遥が少し考え直して欲しい旨を具申するも、其れに対する沙穂の返答はにべもない。
「ミナの課題こんなに残ってんのよ? こんなんじゃ花火大会なんて楽しめないわよ!」
確かにそれは沙穂の言う通りで、遥としても出来る事ならば当初の予定通り、何の憂いも無い状態で花火大会を楽しみたいというのが本音ではある。
「ご、…ごめんねカナちゃん…、ワタシなりに…いちおう頑張ったんだけど…」
楓の課題が「全く」ではなく「ほとんど」進んでいなかったのは、もしかしたら実際に「頑張った」成果だったのかもしれない。
さしもの沙穂もその意気だけは汲み取ったのか、はたまた単に自身も花火大会に未練があったのか、ここで少しばかりの妥協案を提示してきた。
「んー…今日は諦めるにしても、花火大会は三十日に臨海公園の方でもあるみたいだから…そっちに行くってのはどう?」
スマホを取り出して、近隣のイベントスケージュールを調べながら沙穂が進言してきたその提案は、今の状況においては最も妥当な線ではあっただろう。
「さ、三十日なら、ワタシの課題もなんとかなってる…とおもう!」
きっぱりと言い切れないあたりは実に頼りないところではありながらも、楓は楓なりに意気込みを新たにして、このままいけば花火大会は後日に持ち越される方向で話がまとまるかに思われた。
「そんじゃまぁ、今日の花火大会は―」
沙穂が実際にそれを決定事項として確定しかけたその刹那である。
「そんなのヤダ!」
突如としてリビングに響き渡ったその強い拒絶の声はそう、他でもない遥のもので間違いが無かった。
「えっ…か、カナ?」
「カナ…ちゃん…?」
遥が声を荒げる事自体稀だった上、こんな駄々っ子みたいな我儘を言われた事等今まで殆どなかった沙穂と楓は、これに心底驚いた様子で目をパチクリとさせてしまう。
「あのね…、ボク…今日の花火大会、凄く…楽しみにしてたんだよ…」
遥はうつむき加減になってその心情と隠し得ぬ落胆を露わにしたが、これに殊更の驚きと困惑を禁じ得なかったのがもちろん沙穂と楓だ。
「はぅ…ご、ごめんカナちゃん! カナちゃんがそんなに楽しみにしてたなんて…、ほんとごめん! ほんとうにごめん!」
まずハッと我に返った楓があたふたとしながらひたすらの平謝りを見せると、続けて沙穂が少々おっかなびっくりと言った様子で顔を覗き込んでくる。
「えっと…、か、カナ? あの…、だ、だからね、花火大会自体は、三十日の臨海公園のに行こって? ね? それでいいでしょ…?」
沙穂があくまでも予定は延期になっただけであることを諭してくるも、遥はこれにうつむき加減のままふるふると左右に首を振った。
「今日の花火大会じゃなきゃ…ヤダ…」
珍しく頑なな遥に沙穂は最早困り果ててしまい、堪らず頭を抱えそうになりながらも質問をひとつ投げ掛けてくる。
「あの…さ、地元の花火大会に、何か特別な思い出でもあるの?」
そうでもなければ遥がここまで執着して、らしくもない我儘を言うはずがないと、沙穂はそう思ったのかもしれないが、遥はこれに対して今一度ふるふると左右に首を振った。
「そんなのはないけど…」
これではますます沙穂は困惑しきりで、もうただただ眉をひそめさせるばかりである。
「う、うーん…、あっ…もしかして、ここの花火って、何か…凄いとか?」
沙穂にはもう其れくらいしか遥が執着する理由が思い当たらなかった様だが、残念ながらこれはかなりの見当違いだ。
「そんなの…しらない…、わかんない…」
まるで判然としなかったその返答に、沙穂が殊更に不可解だと言わんばかりの怪訝な面持ちでより一層に眉を潜めさせてしまったのは言うまでもない。
「分かんないって…地元なのに?」
確かに地元なのは間違い無かったが、遥にはその花火大会が凄いかどうかなんて本当に分からなかったし、そもそもの話をすればそんな質問には答えられた道理が無かった。
「だってボク…、見たことないし…」
遥が「分からない」理由を端的に答えると、沙穂からは思わずの「はぁ?」という素っ頓狂な声が上りもする。これでは沙穂の困惑は最早ひたすらに増大していく一方だったがしかし、そんな折に突如楓から何やら思い至った様な「あっ」という驚きの声が上がった。
「ヒナちゃん! あ、あのね! この街で花火大会やる様になったのって…たしか三年前からなんだよ…!」
楓が今正に思い出したといった感じでもたらしたその情報で、沙穂もようやく全てを理解したのか、俄かにハッとした顔になる。
「あっ…それで…!」
そう、この街で花火大会が行われるようになったのは、楓が言った通り三年前からであり、それは正しく遥が事故に遭った翌年の事に他ならなかった。
故に、地元民でありながらも遥が地元の花火大会を見た事が無いのは当然の事であったし、だからこそ珍しい我儘を言いってしまうくらいには其れを楽しみにしていたのだ。
「でも…そうだよね…、ミナの課題のが大事だよね…」
ここへ来て少し冷静になってきた遥は、自分の我儘で友人たちを困らせてしまっている事を省みて、ようやく沙穂が提案してくれていた予定変更について前向きに検討しだす。
がしかし、遥の事情が事情だっただけに、こうなってくると沙穂や楓としては全くもって話が変わってくるというものだ。
「カナ…」
「カナちゃん…」
遥が地元の花火大会に拘ったのは、きっと事故に遭わなければごく当たり前に積み重ねられていた筈の時間や思い出を取り戻したかったからなのだと、そんな風にその心情を理解してしまった沙穂と楓には、最早「別の花火大会にしよう」等とは、口が裂けても言えはしなかった。
であるならば、沙穂と楓の取るべき道は一つしか無い。
「ミナ…!」
沙穂はただ一言名を呼んだだけで、具体的に何を言ったという訳では無なかった。だが、それでもその意図は十分に伝わったらしく、楓は沙穂に向って力強く頷き返す。
「分かってる!」
言葉もろくに交わすことなく見事な意思統一をやってのける沙穂と楓であるが、二人の間で突如始まったこのやり取りの意味が全くもって分からなかったのがもちろん遥だ。
「えっ…と、なに…? どうしたの…?」
遥が素直に謎のやり取りの意味を問い掛けると、沙穂はそれまでの困り顔から一転、妙にキリっとした顔でビシッとしたサムズアップを見せてきた。
「カナ! 今日の花火大会、何としても行くわよ!」
そんな力強い宣言と共に沙穂は隣に目配せをして、それを受けた楓は未だかつて見たことがないくらいに気合が入った様子で猛然と課題に取り組み出す。
「カナちゃん! 待っててね! ワタシ、頑張って夜までに課題終わらせるから!」
一体何がどうなって二人が突然の心変わりをして、一体何が楓をやる気にさせたのか良く分からなかった遥からすれば、人が変わった様とは正しくこの事だった。
「う、うん…、えっと…うん?」
勿論、沙穂が思い直してくれたことや、楓が課題をやる気になってくれた事自体は、遥としても大変に喜ばしい事であり、これで当初の予定通り今日の花火大会に行けるのならば断然言うことはない。
ただ、やはり遥にはいくら考えても一体何がどうなって、二人がそうなったのかは全くもって意味が分からず、そこに関してはもう唯々小首を傾げさせるばかりであった。




