4-38.居場所
山間の単線をノロノロと進んでゆく一両の列車。
ゆっくりとだが、着実に遠ざかってゆくの田舎の風景。
その分だけ、近づいてるはずの住み慣れた街。
予定していた二泊三日の滞在期間はあっという間に過ぎ去って、遥は今、実り多かった初めてのひとり旅を終えるべく、単身列車に乗り込んで帰路へと付いていた。
「…もっと…居たかったなぁ…」
祖父や一樹と過ごせた三日足らずの時間が幸せだった分、遥はちょっとばかりセンチメンタルな気分で窓の外を流れていく田舎の景色を見やって若干の遠い目をする。
思い返してみれば、ニ十分の道のりが歩き切れず挫けそうになったり、思わぬ再会を果たした一樹の前で情けなく泣いてしまったり、スプラッターすぎる恰好で登場した祖父に戦慄して腰を抜かしてしまったりと、初日にはあまり人に語って聞かせられない様な恥ずかしい出来事が満載ではあったかもしれない。
二日目は二日目で、行った覚えのない神社で自分に会った等という怪しい男に詰め寄られてちょっぴり怖い思いをしたり、その怪しい男が実は自分の愛好している作家であった事を後になってから教えられて結構な悔しい思いをしたりもしたが、それらもこうして帰路へ着いた今となってはどれも良い思い出である。
いや、正直に言えば、作家の件については未だに少々の悔いが無くは無いものの、其れを除けば祖父や一樹と過ごせた三日足らずは、遥にとって紛れもなく幸せな時間だった。
其処には、遥が昔も今も変わらず大好きなものと、昔以上に大好きになったものとで溢れていたのだから、そんな場所が、そこに居られた時間が、幸せで無かった筈はない。
それだけに、遥は祖父の家から列車が遠のくにつれて一層センチメンタルにもなったがしかし、そういつまでも感傷にばかり浸ってもいられなかった。
「……とっ…、そうだ…」
列車が長いトンネルに入って外の景色が見えなくなった辺りで、遥も地元へ帰りつく前にこなしておかねばならないタスクがあった事を思い出す。
「…みんなにメッセージ返さなきゃ…ね」
そう、この三日足らず、電波の届かない場所に居いた遥がいざ圏外から脱してみればビックリ、インフラの復活したスマホには友人達からのメッセージが多数送られて来ていたのだ。
遥は列車に乗る以前にその事に気付いていたのだが、駅まで送ってくれた眞利や一樹との別れを惜しむ事に忙しかったり、その後はその後ですっかり感傷に浸りきってしまったりしていた為、友人達のメッセージには未だレスポンスを返せずにいたのである。
勿論それは友人達のメッセージがどれも緊急性の薄い比較的他愛の無い内容ばかりである事を確認できていたらこその怠慢ではあったのだが、だからと言って遥はそのままそれらを既読スルーで済ませるつもりだった訳でも無いのだ。
「さて…」
遥は早速、と言うにはやや遅まきながらも、友人達からのメッセージに返信をすべく、モフモフの毛玉ポーチからスマホを引っ張り出す。
「えっ…とぉ…」
まずすべきは、一件ずつメッセージの内容を再確認し、それに対するレスと今まで返信は愚か既読すら付けられずにいた理由の説明及び謝罪をそれぞれに送っていく事だが、それは実際にいざ始めてみると思いのほかに大仕事ととなった。
元々届いていたメッセージに返信を送っていく事自体は然したる手間では無かったものの、それだけではその作業が完結に至らなかったからである。
「よしっ…ヒナとミナはこれでよし…、次は…って、うわっ、二人からもう返事来た!」
そのレスポンスの早さたるや流石の女子高生と思いきや、こんな調子だったのは何も沙穂や楓ばかりでは無い。
「と、とりあえず、これは後回しにして…、次は淳也達に返信……って、おわっ! こっちも早やっ! 何!? みんな暇人なの!?」
ここで言う「淳也達」とは、光彦と亮介、それに賢治も含めたグループの事だが、そこに遥がメッセージを投下した傍から続々とレスポンスが返って来たのである。
「これも後回し! 次は…早見君…! 早見君は…大丈夫…だよね…?」
特に根拠もなく、流石に青羽は即レスしてこないだろうと高をくくってみた遥ではあったものの、いざ返信を送ってみればどうだろうか。
『!』
青羽から返って来たそのレスポンスは、たったの一記号だった事もあって、もしかしたら誰よりも迅速だったかもしれない。
「ひぇっ! は、早見君も!?」
予想に反して秒で返って来た即レスに遥が慄いている間に、青羽からは追加で更なるメッセージが送られてくる。しかもそれとほぼ同時に、他の友人達からも次々と追加のメッセージが送られて来ており、その勢いと量は最早完全に遥の処理能力を上回っていた。
「うにゃー!」
送った分だけ倍倍になって返って来るメッセージに遥はもうてんてこ舞いで、これには思わずへんてこな鳴き声を上げたりもする。
「みんなちょっとまってー! そんないっぺんにはむりだからー!」
等とのたまって列車の座席でジタバタしてみせたところで、当然ながら電波の向こう側に居る友人達には伝わる筈もない。
結局、遥が友人達とのやり取りをひと段落させられたのは、二度の乗り換えを必要とする三時間にも及ぶ列車の旅が殆ど終わりに近づいた頃の事だった。
「んーっ!」
友人達のお陰で、ある意味では苦にならなかった長い列車の旅を終えて、二日ぶりに地元へと帰って来た遥は、抜けて来たばかりの改札前で一つ大きく伸びをする。
「…地元って、なんだかんだでホッとするものなんだなぁ」
帰路に付いたばかりの頃には、旅の終りを惜しんで少々感傷的にもなった遥だが、こうして帰って来てみれば、住み慣れた街はやはり安心感が段違いだった。
遥は特別に地元が好きと言う訳ではなかったし、「東山のおじいちゃん家」に居られた時間がこの上なく幸せだった事も勿論嘘では無い。ただ、道がちゃんと舗装されていて、スマホもバッチリ通じる地元の街は、現代っ子の遥にとっては何だかんだ言って住みやすく生き易い場所なのだ。そして何より地元には、そこが間違いなく自分の居るべき場所である事を遥に実感させてくれる唯一無二の「証」が存在している。
其れは、住み慣れた街の安心感を一頻り味わった遥が今回の旅を真に締めくくるべく、小さなキャスター付きトランクを引っ張ってバス乗り場へ向かおうとした時の事だった。
遥が今正に向かおうとしていたバス乗り場があるロータリーへと続く階段をゆっくりと昇って来た人影が一つ。
「…っ!」
遥には、どうしてその人物がこのタイミングでこの場に現れたのか、その理由は分からなかった。ただ遥は、そんな疑問を抱く間もなく、その姿を目にした途端、引っ張っていた小さなトランクを手放して知らずの内に駆け出していた。
其処に姿を現した人物こそは、帰り着いたこの街が間違いなく自分のいるべき場所である事を遥に何よりも実感させてくれる存在、つまりはそう、賢治に他ならなかったからだ。
「けんじ…!」
遥が駆け寄りながらその名を呼べば、賢治もそれに気付いて少しばかり驚いた顔をする。
「ハル…!」
名を呼び返した賢治が足を早めて階段を昇り切ったのと、寸前の所まで迫った遥が床の点字ブロックにつま先を取られてつんのめってしまったのは殆ど同時の事だった。
「にゃわっ…!?」
このまま賢治の方に倒れ込んでしまえば、二人して階段を転げ落ちてしまうかもしれないと咄嗟に思った遥は、手をばたつかせながら何とかその場で踏ん張ろうとする。
ただ残念な事に、運動神経は元より体幹と反射神経も割と壊滅的な遥だ。そう都合よく体勢を立て直せるはずも無かった。
「わわっ…わにゃっ!?」
結局、必死の抵抗もむなしく、遥はあっさりと賢治の方へと倒れ込んでしまったものの、幸いと言うべきか、その小さな身体にはそれ相応の軽さしか備わっていない。そして当然の様に、その小さな身体を両手で難なく受け止めた賢治は、遥の危惧を他所に、余裕の様子で全くもって微動だにもしていなかった。
「…大丈夫か?」
お陰様で怪我ひとつなかった遥ではあったものの、思わぬ失態を演じてしまった気恥ずかしさから慌ててその場から飛び退き賢治との距離を取る。
「だ、大丈夫! うん! なんともないよ!」
その返答に賢治はホッとした顔を見せるも、すぐさま真剣な面持ちになって、遥が飛び退いた距離を一足で詰めて来た。
「ったく…心配させやがって」
賢治がそう言うのも当然で、遥はこれに少しばかりシュンとしてしまう。
「ごめ―」
恥ずかしいやら申し訳ないやらで引き続きシュンとしながら謝罪を告げようとした遥だったがしかし、その言葉を言い切るよりも早く賢治の腕が不意に伸びて来て、気付いた時にはその胸元にまで抱き寄せられていた。
「…ふへっ?」
余りにも突然だった賢治のハグに、遥は思わず素っ頓狂な声を上げて目をぱちくりさせたりもする。
「け…けんじ? どう…したの…?」
ややあってからようやく遥が予想外だった抱擁の意味を問い掛けると、賢治はそれに答える代わりにその小さな身体を思いのほかきつく抱き締めてきた。
「本当に…心配したんだからな…」
確かに階段の真ん前で転倒しそうになる等一歩間違えば大惨事だったので、遥としてもそれについては反省しかない。
「あぅ…ごめんね…、ボク…そそっかしくて…、次からはちゃんと気を付けるね…」
今度はしっかりと謝罪を述べて反省の色をも示せた遥だったが、それを聞き届けても尚、賢治は一向に抱擁を解こうとはしなかった。
「…それもそうだが…、いきなり音信不通になるとか…もう…やめてくれよ…」
僅かに震えていたその声に、遥は賢治が何故こんなにもきつく抱きしめて来るのか、その訳に気付いてハッとなる。
「あ…、そう…だよね…、心配…したよね…、おじいちゃん家が圏外だなんて知らなくって…、ごめんね…賢治…」
それは完全に不可抗力であったし、既にメッセージで一応の謝罪と説明を済ませていた事ではあったがしかし、その程度では、それまでに賢治が募らせていた心配や、そしておそらく不安だった気持ちには贖えるはずもなかったのだ。
「おかしいと思って、直ぐにハルの小母さんに事情を聞いたけどよ…」
それでも賢治が一安心とはいかなかった事は、一層きつくなった抱擁から遥にもありありと伝わって来ていた。
「淳也達も大騒ぎだったんだぞ…一応アイツらにも小母さんから聞いた話をそのまま伝えといたけどよ…」
その言葉で、遥は地元に帰りつくまでの間に交わしていた友人達のメッセージが何故あれ程迅速で絶え間なかったのかについても大いに思い至るところがあって今一度ハッとなる。
「…そっか…そう…だよね、皆にも…ほんとに心配かけちゃってた…よね…」
流石に遥だって友人達がある程度心配しているだろう事は元より想像の内で、だからこそメッセージでは最初に謝罪と説明から入っていた。
それに対して友人達は賢治が前もって事情を説明してくれていたおかげもあってか、皆一様に「気にするな」という旨の大らかな返事をくれてはいたのだがしかし、その言葉はそのまま額面通りに受け取ってはいけなかったのだ。
賢治と同じ様に、三年前の出来事をリアルタイムで経験している淳也達は元より、沙穂や楓、それに青羽だって、きっと思っている以上に心配してくれてたに違い無い事を遥は今その身につまされていた。
「…皆にも、後でもう一度ちゃんと謝らなきゃだね…」
その言葉にただ短く「ああ」とだけ答えた賢治は、今一度その腕に力を込めて遥を今までよりも強くギュッと抱き締める。
「けんじ…」
賢治の抱擁は今や強すぎて息苦しいくらいだったが、遥は其れを訴える事も抗う事もせずに、ゆるされる限り唯々その腕に身を委ね続けた。




