4-36.収穫
若干の紆余曲折はあったものの、大きな愛情をもって眞利に今の自分を受け入れてもらえた上、命ある尊さをも再認識する事が出来た遥の「訳アリひとり旅」は、この時点で大成功の大収穫だったと断定してしまっても何ら差し支えないだろう。
何せ遥は、今度こそ今回のひとり旅における最大の山場を越えたのだから、後はもう以前にも増して大好きになった眞利や一樹と過ごせる幸せな時間を思う存分に甘受すればいいだけなのだ。
惜しむらくは予定している滞在期間が二泊三日とやや短い事で、遥としてもその点に関しては些か不満に思わないでも無い。
とは言え、花の女子高生であるところの遥は、夏休み前半を体育の補習に費やしてしまっていた事もあって、その分を取り戻す様に後半戦はスケジュールがギッシリだ。
その為、今更滞在期間の延長は難しく、此ればっかりはもう仕方がない事として諦めるより他なかった遥だが、何もそれは決して悪い事ばかりでは無なかった。
眞利や一樹と過ごせる時間がごく限られているからこそ、遥はそれをとても大切にして、その分だけ幸せをより凝縮された濃密なものとして感じる事ができたからだ。
実際に初日の夕食などは、眞利お手製の夏野菜と鹿肉のカレーが大変に美味であった事も相まって、遥にとっては正に至福のひと時だったと言って良い。
因みに、眞利が自ら育てた野菜や仕留めた獲物を使って手料理を振る舞ってくれるのは昔からの恒例で、遥が毎年祖父の家を訪ねるのを楽しみにしていた理由の一つがここにもある。
特に今年は、眞利の手料理がただ美味しいというだけでなく、祖父が今の変わり果ててしまった自分を以前と変わらないもてなしで歓迎してくれた事それ自体が遥は心から嬉しかった。
それだけに、普段小食の遥がこの日はカレーを三杯もお代りしてしまい、その結果、食後には些かのグロッキー状態になってしまったのも多少は無理からぬ話しではある。
「はぁ、美味しかったぁ…、ボク、おじいちゃんのゴハンだいすきだよぉ…」
茶の間の壁にもたれ掛かってぐったりとした様子で在りながらも、その言葉が掛け値なしの本音である事は、ワンピースの上からでも其れと分る程にポッコリと膨らんだ遥の腹を見れば一目瞭然だ。
「そぉかそぉかぁ、そらぁ良かったわい!」
遥の満足げで幸せそうな様子に、食後のお茶を啜って一息ついていた眞利もガハハと豪快に笑ってご満悦である。
「あっつい中作業場ぁ籠った甲斐があったっちゅうもんじゃな!」
その言い様からも分かる通り、今晩のカレーに使われた鹿肉は何を隠そう、眞利が日中、キリングモンスタースタイルに扮して解体していたもので相違ない。
あのスプラッター以外の何ものでも無かった眞利の出で立ちを思い出すと未だに若干の戦慄を禁じ得ない遥だが、そのおかげで美味しいカレーが食べられたのだから、ここは素直に感謝しておくのが筋であろう。
「それは…うん…、ありがと…ね…、おじいちゃん…」
感謝の言葉を送りつつも、遥が僅かに表情を引きつってしまったあたりはご愛敬だ。
「肉ならまだまだ売る程あるでな! 明日も美味いモンつくったるぞい!」
おそらく冗談なのだろうが売る程も何も、間違いなくそれは眞利の生業としている物の一つである。
「あ、うん…でも…、鹿肉って…お店とかで買うと結構高いらしいけど…良いの?」
貴重な収入源なのではないだろうかと思った遥がそれに付いて問い掛けてみると、眞利はまたも豪快に笑って事も無げだ。
「ウチん山にゃぁ、鹿みちゃぁ飽きるほどおるでな! 一頭や二頭なんもないわい!」
という事らしく、一頭分で十分事足りるのではないかという突っ込みはさて置き、遥はこれにちょっとだけ一安心である。
「そうやよぉ遥くん、正味な話し近頃は鹿さ増え過ぎとってねぇ、爺様が獲っても獲ってもおっつかんくらいなんよぉ」
そんな解説を付け加えてくれたのは、お腹いっぱいで動けない遥とそもそも丸投げだった眞利に代わって、今まで夕食後の片付けをしに台所へと引っ込んでいた一樹だった。
「あ、きーにぃ、洗い物…手伝えなくてごめんね…」
後片付けを押し付ける形になってしまった遥が少しばかり申し訳なくなって謝りを入れるも、当の一樹は別段気にした様子もなくニコニコとする。
「えぇよえぇよ、遥くんはお客さんやでねぇ」
それを言ったら一樹だって客の筈だが、近隣住まいで比較的頻繁に顔を見せる所為か、そのあたりは眞利も割と扱いがぞんざいだった。
「そうじゃぞ遥、皿洗いなんぞ一樹にやらせておけばええんじゃい」
そうは言われても、遥としてはやはりちょっとだけ申し訳なく、隣に腰を下ろした一樹にだけ聞こえる様にこっそりと耳打ちをする。
(明日はボクも手伝うね)
その申し出に、一樹は遥の心情をも汲み取ってくれたのか、無理にこれを遠慮する事も無くニッコリと微笑んでやんわりと頭を撫でてくれた。
「遥くんはえぇ子やねぇ」
普段なら遥はこれを子供扱いだと感じて口を尖らせて見せたりするところだが、一樹には完全に心を許している事もあってか、少々照れくさくはあるものの中々どうして満更でも無い。それどころか、いつも賢治がやる様な髪をかき乱すちょっと乱暴な感じとはまた違う一樹の優しい手つきが存外に心地よくすらあった。
「えへへ…」
遥がほんのり赤い顔ではにかんだ笑顔を見せれば、一樹も益々ニコニコとして引き続きやんわりと頭を撫でてくれたがしかし、これを少しばかり面白く思わなかったらしい人物が何を隠そう祖父の眞利である。
「おう遥、面白かもん見しちゃるで、こっちさ来んかいな」
言うが早いかスクと立ち上がった眞利はそのまま大股で近づいてくるなり、遥を片腕でヒョイっと抱き上げて半ば無理やりに一樹から引き剥がしてしまった。
「にゃっ!? お、おじいちゃん!?」
突然の事に遥は堪らず困惑であるが、眞利はそれに構わず「面白かもん」とやらを披露する為に茶の間を抜けてのっしのっしと廊下を進んでゆく。
「ちょっ、ど、どこいくの? い、いいものって…も、もしかして…」
遥は直前にしていた話の流れから、よもや解体したばかりの鹿でも見せられるのではないだろうかと、そんな事を想像して若干の戦々恐々だ。ただ幸いにも辿り着いた先は、獲物の解体に使っている作業場等では無く、廊下を進んだ先に程なくあった眞利の書斎だった。
「ちいと待っちょれよ」
書斎の扉を開けて室内に入った眞利は、遥を応接用のソファーにちょこんと座らせてから、自身は壁に据え付けられている大きな書棚の方へと歩み寄る。
眞利は見た目こそ完全な肉体派で実際その通りなのだが、分厚い本がギッシリとつまった書棚からも分かる通り、意外にも書物を愛するインテリジェンスな一面もあるのだ。
「おじいちゃんの本棚、相変わらず凄いなぁ…」
読書が趣味の遥としては、眞利の書棚は正に宝の山であり、これがあるのもまた毎年祖父の家を訪ねるのが楽しみな理由の一つであろう。
「面白いものって…なんだろう…!」
もしかしたら其れは、何か珍しい貴重な本だったりするのだろうかと俄かに胸躍らせる遥であったがしかし、残念ながらそれについては少々当てが外れる事となった。
「おう、あったわい、こいじゃこいじゃ」
程なく目的の物を見つけて戻って来た眞利が応接机の上にドサッと広げた物は、分厚い表紙に綴じられた多数の紙から成り立っている点からいけば「本」と言えなくもない。だがその実態は遥が期待していたような書籍の類では無く、中身は幾葉もの色褪せた写真と退色が進んだ手書きのインク文字で構成される一冊の古びたアルバムだった。
「これ、おじいちゃんのアルバム…?」
眞利が見せたがっていた「面白かもん」が珍しい書籍で無かった事は少々残念ではありつつも、これはこれで興味をそそられないでも無かった遥は、身を乗り出して祖父の古いアルバムを覗き込む。
「そうじゃ、ワシがまだ十代だった頃のもんやが、どや? 中々男前じゃろう!」
等と自信満々に言うだけあって、実際写真に収められている若かりし頃の眞利は、キリっとした顔つきと今よりもスラっとした体格が見栄えする結構な美青年だった。それが晩年には熊の様な偉丈夫になろうとは、おそらくこの当時には誰も想像していなかった事であろう。
「まぁ、ワシんこたぁどぉでもええ、そいよりもこっちじゃ」
そう言って眞利はいくつかページを飛ばすと、その先にあった五枚ほど貼られている写真の中から、詰襟姿の自分とセーラー服姿の少女が並んで写っている一枚を指差した。
「えっと…?」
眞利と少女が共に学生服姿である事と、二人して手に筒の様な物を持っている所からして、その写真は中学か高校の卒業時に撮影した物であろう事が一先ず推測できる。
少女との対比でこの当時から既にそうだったらしい祖父の長身さが際立って見えたが、おそらく眞利の見せようとしているポイントは其処では無い筈だ。
「こっちの…女の子…?」
遥が念のため確認を入れると、それに頷きを見せた眞利は少女の頭辺りを改めて指し示す。
「可愛いか娘やろう? よう見てみぃ、なんぞ気付かんか?」
眞利が言う通り、セーラー服の少女が可愛らしい感じの娘である事くらいは遥にも見て取れたが、何分鮮明さとは程遠い色褪せた古い写真である。
「うーん…?」
まじまじと観察してみても特にこれといって引っかかるところは無く、遥は首を傾げさせるばかりだ。
「こいじゃよう見えんか…、そんなら…」
まるでピンと来ていない遥の様子を見るや、眞利は再びページを幾つかめくって別な写真を探し始める。
「…おお、こいならどうじゃ!」
アルバムを二、三ページ進めたところで手を止めた眞利が次に指差した写真は、先ほどの少女と思しき人物の着物姿をバストアップにして単独で収めたものだったが、それを目にした途端に遥は突如愕然となった。
「えっ…これ…えっ…?」
その写真は、先程よりも寄りで撮影されているおかげで、今度は少女の顔立ちまでハッキリと見て取れる。ただそれだけに、遥はその写真に大いなる困惑を禁じ得なかった。
「どうじゃ、今度は分かったじゃろう?」
確かに遥は、眞利が何を見せたかったのかを正しく理解するに至っていたがしかし、それだけに困惑も殊更である。
「これ…えっ? だって…えぇ…?」
少し癖のある柔らかそうな黒髪、少女特有の丸みを帯びた整った輪郭、高くはないが筋の通った形の良い鼻と控えめながらもふっくらとした唇、そして、ぱっちりとした二重の愛らしい黒目がちの瞳。遥は、その写真に写っている人物を誰よりも良く知っている。
その人物はそう、着物姿である事を除けば、どこからどう見ても自分そのものだったのだから、遥が知らない訳はなかった。
「おんや、遥くん、こげな写真どこで撮りよったん?」
いつの間に書斎へ来たのか、後ろからヒョイっと顔を出した一樹が件の写真を覗き込みながら口にしたその疑問は、遥が今正に直面している困惑と混乱そのものだ。
そこに写っている人物は、どこからどう見ても自分にしか見えないがしかし、遥にはこんな着物姿の写真を撮った覚えがまるでない。にも拘らず、祖父の持っていた古いアルバムには、間違いなく自分だと思える写真が酷く色褪せた状態で収められている。こんな事は、手の込んだ合成写真か、もしくは知らずの内に記憶もなくタイムスリップでもしていなければ有り得ない。
「驚いとるのぉ、どうじゃ? 面白かろう?」
困惑頻りの遥と不思議そうに首を傾げさせる一樹の様子に、眞利はしてやったりといった感じでニヤリと笑う。
「お、おじいちゃん…これ…! これ…!?」
驚愕のあまり困惑をうまく言葉にもできない遥だったが、その反応を存分に堪能したらしい眞利は意外にもあっさりと種を明かしてくれた。
「こいは、若い頃ん音女、つまりお前達の婆様じゃわい」
それは、聞いてみればなんて事は無い、至って順当な解答というやつではあったのかもしれない。ただ遥はといえば、最早狐狸にでもつままれた気分で唯々これにポカンとするばかりだった。
「えっ…お、おばあ…ちゃん…?」
東山音女、享年五十一歳。二十五年ほど前に他界した眞利の妻で、遥と一樹の祖母。それ故に、遥は祖母を遺影でしか見た事が無い。
東山家の仏間に飾られている遺影の祖母は、確かに愛らしい感じの美しい人ではあったが、よもやその若かりし頃がこんなにも今の自分に似ていたなんて、遥にはまるで想像も及ばなかった事である。
「遥は音女の生き写しじゃな!」
眞利がそれを愉快そうにして豪快に笑うと、遥の後ろでは一樹が妙に感心した様子でウンウンと納得の頷きを見せた。
「ほんと、よぉ似とるねぇ」
其れは合成写真や超常現象なんかよりもよっぽど驚愕の事実であり、遥はこれに依然としてポカンとしながらも、その一方で幾つか腑に落ちた事が在る。
「…おじいちゃんは、それでボクが遥だって…気付いたんだ…?」
遥が腑に落ちた事の内の一つを確認の為問い掛けると、眞利は其れが正解である事を頷きでもって肯定した。
「そうじゃ、鹿さバラしに戻ったとこで、どうにも見覚えある顔じゃ思っての!」
初見の時に直ぐ様そこに思い至らなかったのは、それが六十年以上は前の記憶だったからか、はたまた単に眞利が大雑把な性格だからだろうか。いずれにしても、そういう事であれば名乗りもしなかったのに眞利が気付いてくれた事に関しては大いに納得の遥だ。
「…そっか…うん…、でもボクって…おばあちゃん似…だったんだね…」
似ている等というレベルを通り越して、眞利が言っていた様に正しく生き写しである事に遥は引き続き少なからずの困惑を覚えながら、ここにも一つ腑に落ちた事が在った。
それと言うのも遥は、自分の遺伝情報を基にして造られた筈の今の外見が、かつての自分は言うに及ばず、母の響子や父の正孝、おまけに言えば兄の辰巳ともまるで似ていない事をずっと不思議に思っていたのだ。因みに言うと、響子は完全に眞利似で、これも遥が今回の事に混乱してしまった一因かもしれない。
それでも間違いなく祖母とは血がつながっているのだから、隔世遺伝的にその容姿を受け継いだのだとすれば遥としては大いに納得である。
「音女に似ちゅうこたぁ、遥はまちがいのう将来別嬪やでな! ジジイとしちゃぁ誇らしいわい!」
その言葉で遺影に見た愛らしくも美しい「女性」である祖母の姿を思い浮かべた遥は、自分もあんな感じで成長するのかと思うとそれはちょっとばかり嬉しかった。
「そっか…ボク…、成長したらおばあちゃんみたいな美人になれるんだ…、それなら…」
その時はもしかしたらと、そこまで考えた遥は、その刹那に脳裏を過った一人の顔に少しばかりハッとなって、それを打ち消す様にプルプルと左右に首を振る。
「ん? どしたんや遥くん?」
従弟の挙動不審を一樹が不思議そうにして何事か問い掛けて来るも、遥はそれに対して今一度プルプルと左右に首を振るしかなかった。
「な、なんでもないよ! び、美人になれるなら嬉しいなぁって!」
それは咄嗟の誤魔化しではありつつも偽りない本音で、それに伴うちょっとばかり個人的で複雑な心境はともかく、遥がそんな希望を抱ける様になった事もまた今回のひとり旅における一つの収穫ではあっただろう。
女の子として、否、女性としての自分には将来性があるのだとそう思える事は、間違いなく遥が今の身体で生きていく上では大きな励みになるのだから。
ただ、それはそれとして、遥にはこの時一つ見落としていた事が在る。
それは、アルバムに貼られていた順番からして、今の遥に瓜二つだった若かりし祖母の写真が、少なくとも中学を卒業した後の姿を収めたものである事だ。
それはつまり、遥もむこう五年くらいは今の容姿からさして成長しない可能性の示唆に他ならなかったのだが、その事に気付くのはもっともっと後になってからであった。




