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4-34.祖父

 一樹の優しさにふれ、思うさま泣いたおかげもあってか、祖父の家に辿り着いた頃には随分と気持ちが軽くなっていた遥だがさて、ここで今一度思い出して欲しい。

 今回のひとり旅における遥の最大にして唯一の目的が一体何だったのか、そしてそもそも遥が何に対して最も大きな不安を抱えていたのかを。

 全てはそう、「東山のおじいちゃん」に会って、「訳アリ」な身の上になってしまった今の自分を見てもらう事を措いて他にはない。

 遥自身、一樹との彼是で何かもうすっかりと山場を越えたような気になっていたが、そんな事は全くもってなかったのだ。

 一樹の助けを得て、祖父の家にまで辿り着き、その玄関前に立ったことによって、寧ろこれからが本番であった事を、遥は今正に否が応にも思い出させられていた。

「うっ…」

 完全に予定外の再会だった一樹の時とは違って、祖父に対しては予め一応の覚悟を決めて来ていた遥ではあったが、やはりと言うべきか、いざとなるとどうしたって気後れせずにはいられない。

「うぅ…」

 この期に及んで今更気後れしていても仕方がない事は、遥だって勿論分かっている。こんな処でまごついているよりも、さっさと祖父に会ってしまった方が色々と楽になれるだろう事も遥はちゃんと分かっているのだ。

 しかし、それでも気の小さい遥はどうしても踏ん切りをつけられずに、玄関戸の脇に据え付けられた呼び鈴に指を伸ばす事すらも出来ずにいた。

「はぅぅ…」

 遥が大きく息を吐いて堪らず俯いてしまうと、後ろに控えていた一樹の大きな手がポンッと肩に触れて来る。

「だぁれも急かしゃぁせんから、ゆっくりと構えたらええよ」

 もしこの場に居合わせたのが例えば母の響子あたりだったなら、気後れするばかりの遥に対して叱咤激励もあったかもしれない。ただ、一樹が遥の小さな背中に向って投げ掛けたものは、その心中を慮ったひたすらに優しい言葉だった。

「…きーにぃ…」

 優しくされると弱い遥は思わずウルッとしてしまいそうになりながら、チラリと振り返って穏やかな面持ちで見守ってくれている一樹の顔を上目で見やる。

「おじいちゃんは、やっぱり…、その…、ビックリする…かな…?」

 優しい一樹の前ではついつい弱さを曝け出してしまいがちな遥は、不安な気持ちそのままに、それを聞かずにはいられなかった。

「…そぉさなぁ」

 遥の問いに対して一樹は安易な即答をせず、穏やかな面持ちの中に少しばかり神妙な様子を覗かせて目を細めさせる。

「…そらぁまぁ最初はビックリするかもしれんが…」

 僅かな思案を経てから告げられたその返答に遥は堪らず更なる不安を掻き立てられるも、一樹はそれを解きほぐすかの様に柔らかい笑顔を見せた。

「それは遥くんがえらい可愛らしぃなっとるからで、悪いこたぁ何も無い筈だぁ」

 遥としてはその「可愛らしくなっている」事こそが問題ではあったのだが、一樹に言われると何か不思議と本当にそれは別段「悪い事では無い」気がしてくる。

「そう…かな…?」

 そうであって欲しいという願いを込めて遥が是非を問い返すと、一樹はうんうんと頷きながらやんわりとした手つきでそのちょっと癖のあるふわふわの髪を撫でつけた。

「こぉんな可愛らしぃ孫が出来て喜ばんジジイはまんずおらて」

 十代の遥には「可愛らしい孫」を持つ気持ち等は当然分からなかったし、その「可愛らしい」外見も普段はただのコンプレックスでしかない。ただ、本当にそれが祖父を喜ばせられるものであるのならば、そんなにも幸せな事は他にそうそうないだろう。

「そういう…もの…かな…?」

 遥が再びそうであって欲しいという願いの元に是非を問えば、一樹も今一度うんうんと頷きながら優しく頭を撫でてくれる。

「そらぁそうさぁ、それに爺様はあんま細かいこたぁ気にせん質やし、そう気負わんと」

 果たして「可愛らしくなっている」事が細かい事なのかどうかは大いに疑問が残るところではあるが、祖父がかなり大雑把な性格の持ち主である事は遥も良く知っていた。

 何せ祖父は、お小遣いをくれる際には財布から適当に引っ張り出したお札を幾らあるかも確かめずそのまま渡してきて、例えそれが受け取るのを躊躇してしまう様なかなりの高額だった場合でも「まあええ」で済ませてしまう様なお人なのだ。

 無論、お小遣いの金額と「可愛らしくなっている」事は決して同列で語れる問題では無いのだが、それでも確かに「あの人なら」とそう思ってしまえる処が祖父にはある。

「そう…なの…かも…」

 一応の納得を口にしつつも、遥の表情はまだ幾らも不安げで、其れを見た一樹は今までよりも一層穏やかでとことんまで優しい笑顔を見せた。

「そんな顔せんと、なんがあっても俺が付いとるから大丈夫やぁ」

 それは、遥にとってこれまでで最も勇気付けられる言葉で、胸の内にあった気後れや不安な気持ちがスッと薄らいでゆく。

「きーにぃ…」

 遥は一樹の笑顔を真っすぐに見つめながら、その眼差しに溢れている優しさを取り込む様に胸元で両手をギュッと握りしめた。

「ボク…、がんばる…!」

 何があっても、一樹が傍に居てくれる。だから大丈夫なのだと、そんな風にようやく気持ちを前向きにできた遥は、言葉の上でも自身を奮い立たせて、今一度玄関の方へと向き直る。

「よ、よしっ…!」

 玄関戸の脇に据え付けられた呼び鈴に向って伸ばした指先は少し震えていたが、それも一樹が再びそっと肩に触れてくれると不思議と治まった。

 一樹の言葉と、何よりもその存在に支えられて、遥は遂に意を決して祖父と会いまみえんとしたがしかし、正しくその時である。

 遥が呼び鈴を押すよりも早く、玄関の戸がガラリッと音を立てて勢いよく開け放たれ、その内側から一人の大柄な男がぬっと姿を現した。

「ぴぎゃっ!?」

 遥の口からは思わずへんてこな悲鳴が上がってしまっていたが、何もそれは不意を突かれてしまった所為ばかりではない。

「誰ぞ来たんか―って、なんじゃい一樹かいな」

 玄関の前に立っていた一樹の姿を一瞥するなり、残念そうな様子を見せたその人物こそはそう、「東山のおじいちゃん」こと東山眞利その人で取りあえず間違いはなかった。

「今なんぞ、妙ちきりんな鳴き声が聞こえた気ぃもしたが…」

 おそらく一樹よりも頭一つ分以上は上背の有る眞利には、呼び鈴を押そうと玄関戸の真ん前に立っていた小さな遥が視界に入らなかったのだろう。

「爺様、下、下」

 一樹が指をチョイチョイとやって視線を誘導すると、妙な鳴き声の元を探して左右をキョロキョロやっていた眞利はここでようやく遥をその視界に捉えた。

「…おぉん?」

 眞利がまるで覆いかぶさるようにして上から覗き込んで来れば、遥は堪らずその場にペタリとへたり込んでしまう。

「ひぇっ!」

 眞利は背丈だけで言えば賢治と同じくらい、つまり一八〇は超えており、その上、児玉に匹敵しかねないくらいの老人らしからぬ非常にガッチリとした体格の持ち主で、その佇まいはちんまりとした遥からすれば相当な圧迫感があった。

 そんな人物が眼前に迫って来れば、思わず腰が引けてしまっても然るべきではあるがしかし、遥が今一度へんてこな悲鳴をあげてしまった理由はもっと他にある。

「なんじゃ、見慣れん子ぉやなぁ…えらい可愛らしぃが…」

 遥の態勢が低くなった分、眞利も屈みこんで、更にはにゅっと首を伸ばしてグッと顔をも近づけきた。

「ふぎゃー!?」

 今度はまるで気が立った猫の様な悲鳴を上げてしまった遥は、ジタバタと地面を這いつくばりながら必死の様子で一樹の脚にしがみつく。

「なんやい、おかしな子ぉやなぁ、何をそんなに怯えよる」

 眞利に会うべく、大きな不安や少々の困難を乗り越えて折角ここまでやって来た遥が何故にこの様な反応を見せているかと言えば、勿論それには已むに已まれぬ訳がった。

「爺様…、そげな恰好で出て来られちゃ、そらぁ怖がられるわいな…」

 一樹が呆れた様子で述べたその通り、遥は不意を突かれた事や眞利の圧迫感の有る佇まいよりも、その出で立ちこそが恐ろしかったのである。

 では眞利が一体どのような出で立ちであったかといえば、それは次のような物だった。

 顔を覆うゴーグルとマスク、首から下げられた白いビニール製のエプロン、両手には肘まである半透明のゴム手袋を嵌め、その一方には大ぶりの鉈が握られている。

 これだけでも眞利の出で立ちが中々に異様である事は十分お解りいただけたとは思うが、極めつけにその全てが漏れなく赤黒く斑に染まっていて、更には生臭さと鉄臭さを漂わせていたとなればどうだろうか。

 その姿はさながらスプラッタームービーのキリングモンスターさながらであり、そんなものがいきなり目の前に現れて迫って来れば、きっと遥でなくとも少なからずギョッとはしてしまった筈だ。

「シシか何ぞバラしとったか知らんけども…せめて鉈くらいは置いてきないや…」

 一樹が今一度呆れた様子で進言すると、眞利は遥を覗き込んだまま、おそらくだがそれを些か心外そうにする。ゴーグルとマスクで顔が覆われていて表情が読み取れない為、正確なところは判らないが多分きっとそうだ。

「シシやのぉて鹿や、早よぉバラしてしまわんといかんのに、誰ぞ来よったもんだでわざわざ出てきたったんじゃい」

 だから鉈を手にしたままだったという事らしく、如何にも大雑把な眞利らしいと言えばらしいが、例え手ぶらで出て来ていたとしても遥はやっぱり怯えてしまっていただろう。現に今も遥は、生臭さと鉄臭さ溢れる血まみれの眞利を前にして、それが祖父であると頭では理解しながらも、それこそ生まれたての小鹿の様に一樹の足元でプルプルと震えてしまっていた。

「こん程度で震えあがっとる様じゃぁきっと都会ん子やなぁ、誰かは知らんが一樹の連れならまぁええわい」

 見慣れない小さな女の子に対してその様な大雑把すぎる結論で納得した眞利は、ここでようやく遥から視線を外して態勢をも起こす。

「わしゃぁ鹿ぁバラしに戻るで、適当に上がっていきないや」

 誰かも知らない子を家に上げてしまうおうという当たり、これまた如何にも大雑把な眞利らしく、実際にその宣言通りさっさと家の中へと戻って行ってしまった。

「…あん人は相変わらずやねぇ」

 玄関を開け放ったままその奥へと消えていった眞利を見送りながら、一樹が半ば感心した様子でそんな感想を告げて来ると、遥もその脚に縋りついたままコクコクと頷きを返す。実際に遥の知る限りでも、祖父の様子は主に大雑把なところが最後に会った頃のまま全く変わっていなかった。無論、スプラッタームービーのキリングモンスターさながらの出で立ちで現れた事に関してまでは流石にその限りでは無いが。

「したら、爺様が鹿ぁバラし終わるまで、お茶でも飲みながら待っとろうかねぇ」

 遥としても取りあえず今はそうするしか無さそうではあったがしかし、其れには少しばかりの問題が発生していた。

「あ、あの…、きーにぃ…ボク…ちょっと…立ち上がれない…かも…」

 勿論それは、自分が誰であるか祖父に気付いてもらえなかった事や、それを明かす機を完全に逃してしまった所為で心が挫けてしまったという様な事では無い。もっと単純に、遥は祖父にビックリされるどころか、逆にビックリさせられ過ぎてしまい、もうすっかり腰が抜けてしまっていたのである。

「あんれまぁ…」

 自分の脚にしがみついたまま立ち上がる事が出来ず涙目になっている遥の様子に、さしもの一樹も思わずの苦笑いであった。

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