4-33.琴線
「いんやぁ、世の中なにがあるか分らんもんやねぇ」
一樹がしみじみとした様子でそんなザックリとした驚きを口にしたのは、遥を乗せた軽トラックが「東山のおじいちゃん家」へと向かって走り出してから程なくの事だった。
「…うん、そう…だね…」
助手にちょこんと座り、曖昧な返事をした遥は酷くぐったりした様子でいたが、勿論それは凸凹のあぜ道を行く軽トラックの乗り心地が最悪だったからでは無い。
確かに一樹の軽トラックは路面状況も相まって、遥が今まで乗って来たどんな乗り物よりも酷い乗り心地ではあっただろう。ただその程度の事は、自力で祖父の家まで辿り着けるかどうかという瀬戸際にあった遥からすれば些末な問題で、実際その点に関してはさして苦にも思ってはいなかった。
では、遥が何故にぐったりしているかと言えば、それについては至って簡単である。
最後の切り札だった健康保険証を提示しても尚、一樹が今一腑に落ちない様子を見せた為、遥は結局、自分達や祖父に纏わる喋れる限りの話を余す事なく、小一時間掛けてたっぷりと語る羽目になっていたからだ。
その甲斐あって今は無事こうして一樹の軽トラックに乗り込めている遥な訳だが、それだけの大仕事をやってのけていたとなれば、それはもうぐったりくらいはして然るべきなのである。
「んでもまぁ、健康保険証も本物やったし、俺んを『きーにぃ』呼ぶんは、いくら考えても遥くん以外にはおらんもんなぁ」
できればもっと早くその結論に辿り着いてほしかったと思う事頻りの遥ではあるものの、今は敢えてそこに言及する元気もない。
「うん…そう…だね…」
遥がやはりぐったりとした様子で先程同様の曖昧な返事をすると、ハンドルを握って軽トラックを走らせる一樹はそれを横目でチラリとだけ見やって何やらニコニコとした。
「しっかし、遥くんやぁ思うと、何やら昔とそう変わっとらん気もするなぁ」
流石にそれは調子が良すぎる様に思えてならなかった遥は、これには思わず不平の声を洩らさずにはいられない。
「えー…」
今の自分が昔とは似ても似つかない事は、遥自身、それこそ一樹が中々信じてくれなかったのも仕方がない事だと思える程には良く分かっている。年齢性別は言うに及ばず、顔立ちなどの容姿にもかつての面影なんてものは欠片も在りはしないのだ。
「…変わってないって…どのへんが?」
遥が率直にそれは具体的にどの部分なのか問い掛けると、一樹は前を向いたまま昔を懐かしむ様に目を細めて殊更にニコニコとした。
「遥くんは、昔からよぉ泣く子やった」
どんな答えが返って来るのかと思いきや、一樹の解答は些か予想外なもので、尚且つあながち的外れな見解でも無かった為、遥はこれに思わずギョッとしてしまう。
「そ、そ、それは…、すごく…ちっちゃかった時…でしょ…」
だから仕方が無いのだという論調であるが、そこに何ら説得力が無かった事は言わずもがなだ。
「そぉやなぁ、そのせいか余計に昔と変わっとら気がしてなぁ」
実際に、正しく小さな子以外の何物でも無い見た目で、それに相応しい泣きっぷりを一樹に披露してしまっていた遥としては、勿論これに返せる言葉などは有ろうはずも無い。
「あぅ…」
因みに、遥のまだ有るかもしれない名誉の為に一つだけ断っておくと、一樹が言う良く泣いていたとされる「昔」は、今の身体と比べてももっと小さかった頃、其れこそ小学校に上がる以前のまだ物心すらあやふやだった時の事だ。それ以降は、父である正孝の「男児たる者、容易には泣く事無かれ」という教育方針もあって、遥はその通り簡単には泣かない子供にちゃんと成長している。
「遥くんとこの伯父さんは厳しい人やっけぇ、遥くんは昔から泣くときゃぁ、さっきみたいに我慢しながら泣きよったもんなぁ」
訂正しよう。一樹の言う遥が良く泣いていた「昔」とは、父、正孝の教育がしっかりと身に付いた後の事もばっちり含んでいたようだ。
「はぅぅ…」
良く思い返してみれば、確かに遥は小学校の低学年頃までは、父の教えに無理して順じ様とする余り、一樹が言う様に我慢しながら泣く変にいじらしい子供だった。
いくら父に諫められているからと言っても、一桁台の子供ならば泣いてしまう時があるのは半ば仕方がない事で、ここはむしろ当時の遥はよく頑張っていたという事にしておこう。流石にそれ以降は、今度こそ本当にちゃんと男の子らしく容易には泣かない子供に成長していた事を念の為に付け加えておく。
尤も、一樹がどの時期に言及していたにしろ、話の趣旨が過去の事よりも今日の泣きっぷりに焦点が当てられている以上、遥が恥ずかしい事にはどのみち変わりなかった。
「うぅ…」
恥ずかしさのあまり遥が顔を赤くして俯いてしまうと、一樹は相変わらずのニコニコ顔でそれを大変微笑まし気にする。
「そんな顔せんと、爺様なんかは伯父さんとは逆に、子供みちゃ泣くんが仕事や言う人やし、恥ずかしいこたぁなんもあれせんよ」
祖父がその様な考え方の持ち主である事は遥も知っていたがしかし、今の自分がそれに当てはまるかどうかについては、大いに議論したいところだった。
「でもボク…、来年には成人式なんだけど…」
遥はそれが若干の墓穴であると分かりつつも、高校生なりのささやかな自尊心から、自分は見た目通りの小さな子供では無い事を論う。
「そらぁそうかもしれんけどなぁ」
遥の主張に対して、一応の同意を見せた一樹は、それから少しばかり感慨深げな面持ちになって、些か思い掛けない事を口にした。
「あんな辺鄙なとこにそんなナリでポツンとおったら、俺が遥くんでも泣くわいなぁ…」
その言葉に遥は不意にハッとなって、今までの反論に窮していた其れとはまた違う意味合いから言葉を失い息をも呑む。
「…ッ」
遥にはこれまで、一樹が幼女になってしまった自分をどの様に思っているのか、少なからず計りかねていたところがあった。
ここまでで一樹が見せた反応といえば、軽トラックを発車させた直後の驚きに類するものと、その後の泣き様が昔と同じだったという割と他愛のない指摘の二点だけなのだ。
それだけに遥は、もしかしたら一樹はまだ目の前の幼女が成人間近の従弟であるという事実を完全には呑み込み切れていないのではないかとすら思っていた。だがそれは、今や大きな間違いで在った事を遥は認めざるを得ない。
「きー…にぃ…」
おそらく一樹は、呑み込み切れていないどころか、小さな女の子になってしまった従弟の事を、思いの他ちゃんと考えてくれている。そうでも無ければ、先ほどの「自分でも泣くだろう」といった趣旨の発言は、まず出てきはしない。その発言は、遥の奇異な身の上とその所為で陥っていた状況を正しく理解しようとする姿勢や、少なからずの共感があって初めて至れるものに違いなかったのだ。
ならば、もしかしたら、一樹が中々自分を従弟だと認めてくれなかったのは、其れを信じられなかったからではなく、其れがどういった事であるのかを、共感が及ぶ程に正しく理解しようとしてくれていたからなのかもしれない。
「きーにぃ…、ぼ、ボク…」
一樹は自分の事をちゃんと考えて受け止めてくれていた。それどころか、もし自分だったならと考えられる程の共感までしてくれている。そう思うと、遥の胸には俄かに熱いものが沸き上がり、それにつられて自然と目頭までもが熱くなった。
「うっ…ぐっ…」
ともすれば溢れそうだった涙を、遥は必死で堪えようとする。年甲斐もなく一樹の前でメソメソ泣いてしまった事に恥ずかしさを覚えた直後に、今一度泣いてしまう事は遥のささやかな自尊心が許さなかったのだ。
ただ、それを保てていたのもほんのわずかな間、次の瞬間までだった。
「これまでも…、きっと色々大変やったんやろうなぁ…」
深い感慨と強い共感の籠った言葉と共に、それまでハンドルを握っていた一樹の左手がやんわりと頭に触れて来れば、遥のちっぽけな自尊心などはひとたまりもない。
「き、きーにぃぃぃ」
母の反対を押し切って、「訳アリ」のひとり旅を断行した遥は、これまで努めて意識しない様にしてはいたが、その胸には間違いなく大きな不安を抱えていた。
その様な心持の中、殆ど自業自得だったとは言え、道半ばに行くも戻るもままならない状況に陥ってしまえば、当然ながら遥の不安は否が応にも大きく膨らんだ。
そんな折に一樹との思い掛けない再会を果たした遥は、情けなく泣いてしまう程に一時は安堵したのものの、其れも束の間、今度は覚悟の定まらぬ決断をせねばならなかった。
そしていざ決断して自らの素性を明かし、紆余曲折在りながらも自分が従弟だと信じてもらえた事により差し当たっての問題をも解消した遥だが、無論それで胸の内にあった不安までもが解消されていた訳では無い。それどころか遥の不安は、もしかしたらこれまでで最高潮を迎えていた可能性すらあった。
そもそも、今回のひとり旅において遥が最も不安だった事は、過去の自分を知る身内が今の自分をどう思うのかというその一点だったのだから、そうだとしても不思議はない。
そこへ来て、一樹の示してくれた共感が遥のちっぽけな自尊心をいとも容易く乗り越えて、不安によって殊更響きやすくなっていた琴線をこれ以上ないくらいに鳴らしてしまったのは、きっと無理からぬ話だったのであろう。
「うっ…うぅ…きーにぃ…ぼ、ボク…ボク…」
思えば遥は、一樹には昔から良くこんな風に泣かされていた。勿論それは、悪意によっての事では無く、今正にそうである様に一樹がどうしようもなく優しいからだ。
遥が父の教え通りに容易くは泣くまいとすればするほど、それ以上の優しさでもって心に触れてくる。一樹は昔からそんな人だった。きっと、一樹が遥は良く泣く子だという印象を持っていたのも、その所為なのだろう。
「すまんなぁ、中々気付いてやれんで…、田舎モンはどうにも理解が遅くてなぁ…」
只でさえ涙腺が崩壊しかけていた所にそんな言葉を掛けられては、最早遥は恥も外聞もなく思うさま泣きじゃくる以外に無かった。
「うっ…うぇぇ…きーにぃぃ」
今日何度目の披露になるか分からない遥の泣きっぷりに、一樹は目を細めてニコニコとする。
「えぇよえぇよ、泣いたらええよ、なんもあれせん、なんもあれせんからなぁ」
遥はその言葉のままに、それまで抱えていた不安をひたすらに吐き出し続け、それは一樹の運転する軽トラックが目的地に辿り着くまでの間、遂に治まることは無かった。




