4-31.覚悟なき決断
幾つかの想定外が重なり、どうにもならない状況に追い込まれていた遥は、もしかなくともそれ以前から無意識の内に心細さを募らせていたのだろう。
そもそも遥は、取り立てて肝が据わっている訳でも、特別逆境に強い訳でも無いのだから、今回のひとり旅自体に心細さを感じていたとしても何ら不思議はない。
そこへきて旅も半ばにもう一歩も歩けない状態に陥ってしまっていたとなれば、それはもう間違いなく心細さは臨界点にまで達していた筈だ。
であれば、そんな折に優しく声を掛けて来た軽トラックの中年男性を前に、遥が結局は小さな子供さながらに声を上げて泣き出してしまったのも無理のない話しだった。
「ぼ、ボク…、ふ、ふぇぇぇ」
号泣という程では無かったにしろ、拭う両手が追いつかないくらいには泣きじゃくる遥の様子を見るや、中年男性は少々慌てた様子で軽トラックを降りて目の前にしゃがみ込んでくる。
「ありゃぁ、大丈夫だぁ、もう大丈夫だかんなぁ」
事情は分からないながらも優しく慰めの言葉を掛けてくれる当たり、中年男性は中々に善良な人物の様で、それだけに遥の涙にも一層の拍車が掛かった。
「ふぇぇぇん」
その泣きっぷりはもうどこからどう見ても完全に幼女の其れであったが、とは言え遥は腐っても高校生、腐っても十九歳だ。
確かに今の身体になってからは何かと涙もろくなっていたし、それを制御できない場面が度々あった事も否定できない。だが今回は、安堵感にまかせて思うさま泣いてしまいながらも、なんとかこれに抗ってみようと試みれる程度には、まだ自制心や自尊心が幾らかは健在だった。
「うっ…うぐっ…うぅ…ぼ、ボク…、おじいちゃんの…家に…行きたくて…」
きちんとせねばと、涙ながらに話し始めたその様子がそれはそれでお子様風味満点であった事はともかくとして、遥は何とかここまでの経緯を中年男性に説明しようとする。
「けど…スマホ…つながらなくて…、だ、だから…、歩いて行こうと…したけど…、サンダルで…、足が…痛くて…ボク…もう…、ふぇぇぇん」
話している内に自分で自分が心底情けなくなってしまった遥は、結局最後には再び泣き出してしまって、その必死の説明も今一つ要領を得ていたとは言い難い。ただ、意外にも中年男性は大凡で理解が及んだらしく、遥のたどたどしい説明に「成程なぁ」と納得した様子で感嘆の声を上げた。
「爺様の家にかぁ、そぉかぁ、偉い子だなぁ」
中年男性はゴツゴツした大きな手で遥の頭を撫でつけながら、心底感心した様子でニコニコとする。
「したら、オジサンが爺様の家まで送ってってやりてぇとこだが―」
あわよくばそうしてもらえたらと思っていた遥は、その言葉にパッと表情を明るくしかけたが、中年男性はそれを実際の申し出にはせず少しばかり困った顔になった。
「知らねぇオジサンの車に乗んのは、お嬢っちゃんも怖かろう?」
そんな事は全くもって思ってもいなかった遥ではあるものの、言われてみれば確かにそれは普通なら大いに警戒して然るべき事柄ではある。
そこまで気を回してくれるこの中年男性はどう考えても完全に善意の人だが、何事も万が一の可能性を想定しておくに越したことは無い。
自身の見積もりが幾らも甘かった所為でこんな状況に陥っている遥は、特に今それがこれ以上ないくらい身に染みている所だった。
「う、うぅ…」
常日頃から何かと不便な幼女の身体が今回は殊更仇となっているように感じられた遥は、益々自分が情けなくなって今一度泣き出してしまいそうにもなる。
その身がか弱い幼女でさえなければ、このどう見ても善意溢れる中年男性を不必要に警戒せずに済んだ事であろうし、それどころか祖父の家にも普通に独力で歩いて行けていたに違いないのだ。男子高校生だった頃の遥もさほど体力があった方では無いが、それでも若かりし頃の響子がニ十分で行けた道のりを歩ききれない道理はない。
「ふっ…ふぇっ…」
考えれば考える程今の自分に対する情けなさが募って、三度泣き出してしまいそうになった遥だがしかし、そんな事をしても何ら状況が良くならない事くらいはちゃんと分っている。ならば遥が今ここですべきは、不甲斐ない自分を嘆く事でも、それを感情に任せて発散させる事でも無い。
「うっ…うぐっ…」
寸前のところで涙を堪えた遥は、幼女の身体に引っ張られて半ば形骸化しかけていた自尊心と自制心に鞭を打って、何とか論理的思考を働かせようとする。
ひとたび冷静になってきちんと考を巡らせてみれば、きっと何らかの打つ手がある筈だと、遥は自身にそう言い聞かせて、一度大きく息を吸い込んだ。
「ふーっ…ふぅーっ…」
遥は吸い込んだ息をゆっくりと吐き出して呼吸と気持ちを落ち着かせながら、それを保てている内にと、中年男性に送ってもらう以外で現状を打開する方法が無いか考えを巡らせる。そして思考能力さえまともに働かせられれば、元来それなりに知恵が回る遥だ。一つの方策に思い至るのにはさほど時間は掛からなかった。
「そうだ…!」
俄かに希望が見えて来た遥は、瞳に溜まっていた涙をごしごしと両手で拭い去り、顔を上げて中年男性の方に身を乗り出す。
「あ、あの…おじさん! お願いが―」
思い付いた方策をさっそく実行に移すべく、その為に不可欠だった中年男性の協力を扇ごうとした遥だったがしかし、その刹那にある重大な見落としが有った事に気が付いてハッとなた。
「あっ…」
今までどうして其れを見落としていたのか、それは恐らく遥がずっと泣いていた所為で周りが良く見えていなかったからだ。だが、今ここで其れに気付いてしまったとなると、遥はもうそれを見過ごす事など到底できはしなかった。
「どうしたんだぁ、お嬢っちゃん?」
遥が何か言いかけて途中で言葉を止めてしまった為に、中年男性はそれを不思議そうにして首を傾げさせる。
「オジサンがしてやれる事といやぁ、爺様を呼んできてやる事くらいかねぇ?」
それは正しく遥が頼みかけていた事ではあったのだが、既にそれは気付いてしまった「見落とし」によって最早最善の策とは言い難く再考の余地が幾らも有った。
遥は祖父が免許を持っていない事を今まで見落としており、呼んで来てもらったところでここから動けない事に変わりがない事に気が付いてしまったから、ではない。
遥の記憶している限り祖父はちゃんと免許を持っているし、よしんばそうでなくとも保護者同伴なら、今は憚られている中年男性の軽トラックに乗り込む事だって可能だ。
見たところ中年男性の軽トラックは二人乗りではあるものの、そこは小さな遥なので祖父の膝にでも座れば問題ない。
無論、道路交通法上それが容認されるのかどうかや、遥が実際にそうしたいかどうかという点については十分考慮に値する問題ではあるが、それは今し方気付いてしまった見落としとはまた完全に別の事柄だ。
「ちなみに、お嬢っちゃんの爺様はなんちゅうんかな?」
取りあえずそれを聞いてからどうするか決めようという事なのか、中年男性が祖父の名前に付いて訊ねて来ると、遥はその問いには些か答えあぐねて返事に困ってしまう。何故ならその問いは、今まで見落としていた事柄の核心に迫るもので、遥はそれを中年男性に伝えるべきか決断しかねていたのだ。
「あ、あの…えっと…それは…」
中年男性にそれを明かせば、おそらくは今の状況におけるあらゆる問題が一挙に解決する筈で、ならば断然明かした方が良いに決まっていたがしかし、それでも遥はそれを躊躇せずにはいられない。
それもその筈、遥が気付いてしまた見落としとは、この親切で人の良い中年男性が何を隠そう男の子だった頃の自分を知り、血すらつながった「従兄」であったという事実に他ならなかったからだ。
もう少しだけ詳しく言えばこの中年男性は、響子の姉、つまり遥からみれば伯母にあたる人物の一人息子で、姓を西山、名を一樹と言った。
今の今までそれを完全に見落としていた遥は、先ほどの「お願い」をしようとした際に、涙を拭ってクリアになった視界でよくよく目の前の中年男性を見てみたところ、どうにもこうにも覚えのある顔だと気付いたのだ。
それだけではまだ他人の空似という可能性もあったのだが、その身に纏っている作業着の胸元に「西山一樹」とご丁寧な刺繍が入っていたとなれば、これはもうどう考えても従兄の一樹で間違いはなかった。
「この村に住んどるモンならたいがい知り合いだで、遠慮するこたぁないからなぁ?」
一樹の言い様をそのまま言葉通り受け取るならば、中には知り合いでは無い者もいるという事になるが、遥の祖父に関して言えば知り合いどころか正真正銘の血縁である。
「えんりょって…いうか…そ、その…」
目の前の人物が知らないオジサン等では無く従兄の一樹であると気付いた今、遥にはわざわざ祖父を呼んでもうなんて面倒で回りくどい手段を取る必然性は最早どこにも無い。
遥が自分の素性を明かして、祖父の家まで送って行って欲しいと言えば、きっと今度は一樹も変に気を回す事も無くそれを快く引き受けてくれる筈なのだから。
そうなれば差し当たっての問題は一挙に解決まで至る訳だがしかし、やはりと言うべきか、当然と言うべきか、遥にとってそれは中々に容易い事では無かった。
祖父には今の自分を見てもらう覚悟を決めていたとはいえ、相手が変わればそれはそれで遥にはまた別の新しい覚悟が必要になって来るのだ。
「あ…あの…えっと…」
遥はどうすればいいか逡巡しながらも、中学生に上がる頃までは祖父の家を訪れる度、この一樹に兄の辰巳共々よく遊んでもらっていた事をつぶさに思い出していた。
昔から面倒見の良い優しい人で、思えば遥が毎年祖父の家を訪れるのを楽しみにしていたのは、この一樹に会える事も理由の一つとして確実にあったのだろう。
そんな一樹は六年ほど前に就職だか出稼ぎだかでかなりの遠方に引っ越してしまい、それからは今時期にも祖父の家に姿を見せなくなっていたのだが、どうやら遥が身体を失っていたこの三年の間に戻って来ていたらしい。
それだけに、遥としてはこの一樹との再会は全くもって予期していなかった出来事であり、これでは自分の素性を明かす覚悟など到底直ぐには整うはずも無かった。
「あぅぅ…」
只でさえ色々と想定外があって精神的に参っていた所に、更なる予定外が加わった遥は、もうどうしたらいいのか分からなくなってまたしてもの涙目だ。
「ありゃぁ、そかぁ、はよぉ爺様に会いたいよなぁ、実はオジサンもこれから自分の爺様に会いに行くところでなぁ、気持ちはよぉ分るよぉ」
一樹はおそらく、今にも泣き出しそうだった遥を共感でもって慰めてくれようとしたのだろう。だが一樹が告げて来たその言葉は慰めになるどころか、遥に覚悟が決まらぬまま自らの素性を明かす決断を迫るものに他ならなかった。




