4-24.辿り着く先
美乃梨の話しを聞き終えてからというもの、直後に賢治が僅かな感嘆を洩らした事を除けば、一同は言葉を無くしてすっかり黙り込んでしまっていた。
皆一様に、いくら考えても、美乃梨が危惧する問題の度し難さにただひたすら打ちのめされるばかりで、これまでに建設的な意見を述べられた者は誰一人としていない。
その状況だけで事の深刻さが十二分に窺い知れるという物だが、この問題が殊更に致命的だったのは、それが美乃梨の経験則に乗っ取った話に基づいているところだった。
「俺…全然…知らなかった…」
しおらしく項垂れている美乃梨を見やりながら、悔しさを滲ませた面持ちで青羽がポツリと漏らしたその言葉が問題の深刻さを端的に表している。
青羽は性格的に、目の前で誰かが困っていれば、それがなんであれ取りあえずは首を突っ込まずにいられない程にはお節介焼きのお人好しで、おまけに曲がった事を嫌う傾向にある正義感の強いタイプだ。
そんな青羽が、美乃梨の受けていた「結構な嫌がらせ」については、今しがた本人から話を聞くまではまるで関知できていなかったと言う。
それが如何に異例の事態であるかは、中学生当時の青羽が噂になるほど美乃梨と親しくしていたという事実や、そしてそれこそが嫌がらせの原因であった事などを加味すれば、この場に居る誰しもに自ずと理解できた。
「美乃梨…、気付いてあげられなくて…ごめん…」
事の重さから、青羽は堪らず今になっての謝罪と後悔を伝えずにはいられなかったがしかし、何も美乃梨はそんな言葉が聞きたくて自身の苦い経験を語った訳では無い。
「別に…あんたが悪い訳じゃない…」
美乃梨はその事で責めるべくは無いとしながらも、極めて厳しい眼差しで青羽をキッと睨みつける。
「けど…! 今度だって、あんたは絶対に気付けないんだから…!」
そう、青羽は気付けない。いや、正確に言えば、気付かせてもらえない。何故なら事は全て、青羽が関知できない水面下で行われ、加害者は元より、居るとすれば目撃者や、そして被害者までもがその事実を決して明るみには出さないからだ。
それを実際に経験してきている美乃梨は、その事をこの場に居る誰よりもよく知っている。だからこそ美乃梨は、賢治との約束を反故にしてまで全てをぶち壊しにしたのだ。
「そんな…ことは…」
絶対にとまで言い切った美乃梨とは対照的に、青羽はそれを強く否定したい一方で、「そんな事は無い」等とは到底言い切れずにいた。
何もそれは、美乃梨の時にそうだったからと言うばかりではなく、もう一つこの問題の本質とでもいうべき最も重大な懸念が青羽にはあったからだ。
「あ、あのぉ…、でも今回は、そういう事があるって分かってるんだから…、何とか…できるんじゃ…?」
遠慮がちにおずおずと控えめにそう進言して来たのは楓だったがしかし、その見積もりは過分に甘く、事はそう簡単ではない。
「多分それは、難しいだろうな…」
賢治が苦虫を噛み潰したような顔で大まかな否定を述べれば、沙穂がそれを補足する様に一つの具体例を楓に提示する。
「ねぇミナ、例えば…なんだけど…、『嫌がらせ』の内容が学校のSNSに根も葉もない悪口を書き込まれるとかだったら…?」
美乃梨の経験した嫌がらせにそういった類の物があったかどうかは定かで無いが、沙穂の上げたこの一例は昨今の学生が用いる「嫌がらせ」としては代表的なものではあった。
無論、ここで言う「学校のSNS」とは、学校側が提供している公的なもの等では無く、学生たちが主導する非公式の匿名コミュニティの事だ。
遥の通う高校にもそんな物が公然の秘密として存在しており、そこでは匿名性を盾にして、個人攻撃も辞さない虚実ない混ぜの誹謗中傷がこれでもかと溢れかえっている。
それを現代社会の闇だと批判するのは簡単だが、もちろん沙穂はそんな事を論じたくてこれを例に挙げた訳ではない。
「そ、そっか…女子の嫌がらせってそういうのだよね…」
幸いにも沙穂の意図は楓に正しく伝わった様で、自身の見積もりが如何に甘いもので在った事を認め、改めて思い知らされたこの問題の深刻さや根の深さに堪らずその表情を暗くする。
「まぁ…、上履き隠されたりとか、体操服汚されたりとか、机に花生けられたりとか、そういう地味なやつだって事前の対処が出来るかどうかって言ったら…ね」
沙穂が更に付け加えた幾つかの例は、先ほどよりも内容的には幾分か幼稚ではあったものの、これだって実際にやられれば当然洒落では済ませられない。寧ろ目撃者さえ居なければ足の付き様がないという高い隠匿性から、記録が残ってしまう先の例よりも厄介ですらある。
「最初はね…、やられてる本人も気付かないくらい…ちょっとした事から始まるの…」
酷く悲しげな表情でそう告げた美乃梨の言葉には、経験した者だけが持ち得る強い実感が込められていた。
「青羽…、あんたは目聡いから…もしかしたらいつかは気付けるかもしれないけど…、でも、その時にはもう遅いんだよ…!」
瞳一杯に涙を溜めて訴える美乃梨に、青羽は何も言い返せず、改めて突き付けられた問題の深刻さに唯々打ちひしがれる。
「お、俺は…」
出来る事ならば、青羽は今すぐにでも遥の手を取って「何があっても俺が守ってみせる」と、高らかにそう宣誓してみせたかった。
だがしかし、事ここに至っては、それが如何に非現実的であるかを理解できないほど青羽も愚かしくはない。
青羽は今、どれだけ強い気持ちがあっても、それだけではどうにもならない問題が世の中には有る事をこれ以上ないくらいに思い知らされていた。
「俺は…何があっても…奏さんを幸せにするって…言ったのに…!」
あの時の言葉は、気持ちは、自信は、確かに真実だった筈なのに、今やそれは立ちはだかる現実に阻まれて嘘に成り果てようとしている。
もしかしたら、遥はそれでも共に歩みたいと言ってくれるかもしれない。しかし青羽は今、それをこそ恐れずにはいられなかった。
そうなれば、遥の平穏な高校生活を犠牲にしてしまうのからではない。いや、もちろんそれも問題の一つして有るには有った。実際に青羽は、過去に一度その事で遥から拒絶されているのだから、確かにそこも十分憂慮に値する問題だろう。
だがそれ以上に、何よりも深刻で致命的だったのは、美乃梨の危惧が現実になった時、かつての美乃梨がそうだった様に、遥も決してそれを明るみには出してくれないからだ。
無論、遥の様子に日々注意を払っていれば、美乃梨が言った様に、青羽もいずれはそれに気付くだろう。その時点では最早手遅れであるという美乃梨の指摘も正しくその通りだが、それとてこの問題の本質ではない。
この問題が真に深刻で致命的である理由は、絶対に気付けないといった美乃梨の言葉を青羽が否定しきれなかったその理由と同じ所に有る。
つまりそれは、遥の最も恐れてる事が平穏な高校生活を脅かされる事等では無く、自分の所為で誰かかが傷付く事に他ならないからだ。
遥は、その優しすぎる性格が故に、目の前にあった幸せにも手を伸ばせなかった。
もしそんな遥が青羽との関係を理由に「嫌がらせ」を受けたとしたら、まず間違いなくそれをひた隠しにするだろう。それを知られてしまえば、青羽を自責に追いやって傷つけてしまう事になると、遥ならそんな風に考えてしまうのだから。
そういった事が起こり得るという可能性を見出してしまった以上、青羽は例え遥と付き合えたとしても、常に「遥の身には何かが起きているのではないか」という不安を抱き続けなければならない。
そんな形の関係が、そんな形の未来が、青羽にとって、何より遥にとって、果たして幸せ足り得るのか、最早その答えは敢えて言葉にするまでも無いだろう。
「奏さん…お、俺は…」
このままでは、遥を幸せにするどころか、辛いだけの日々を送らせてしまう事になる。それだけは、絶対に在ってはならない。しかし、一体どうすればいいのか、どうすれば遥を幸せにできるのか、青羽にはもうその答えを見つけられなかった。
「今の…俺じゃ…」
好きな女の子一人幸せにできない不甲斐なさに打ち震え、悔しさのあまり、青羽は血がにじむほどに両手を固く握りしめる。
「ああぁぁ! なんで俺はぁああ!」
やり切れない想いを叫びに代えて、溢れかえる負の感情に押し流されてしまいそうだった青羽がやり場のない拳を振り上げたその瞬間だった。
「早見君…」
名を呼んで、振り上げられた拳にやんわりと触れた小さな手。
「そんな顔しないで? ボクね…今すごく幸せだよ…?」
小さな身体で青羽の正面に立ち、微笑みながらそう告げてきたのはそう、今までただの一言も発せずに、誰よりも打ちひしがれた様子でいた筈の遥だった。
「…えっ? しあ…わせ…?」
そのあり得ない一言に、青羽はさっきまで溢れさせていた感情をも置き去りにして、ただひたすらに目をまん丸にする。
今正に、その実現を諦めざるを得ない瀬戸際に瀕していたにも拘わらず、遥は確かに「幸せだ」とそう言ったのだ。。
「か、奏…さん…?」
遥が何故そんな事を言ったのか、青羽にはまるで分からなかったが、無論それは他の面々とて同様だった。
「カナ…ちゃん?」
「カナ…あんた?」
沙穂と楓は余りの不可解さに唯々困惑で、更にはその横で殊更の驚愕を見せていたのが美乃梨だ。
「は、遥ちゃん…ど、どうしちゃったの!? ショックでおかしくなっちゃったの!?」
美乃梨は驚きのあまり、まるで遥の頭どうかしてしまったかの様な酷い動揺振りをみせる始末である。
「…?」
賢治だけは、唯一具体的な反応を示してはいなかったが、密かに眉をひそめていたあたり、遥の真意を測りかねているという点では他の面々とさして違いは無さそうだ。
「えっ…と…、あれ…?」
自身の発言が思いのほか皆を困惑させてしまった為に、遥も少々戸惑った様子で頻りに小首を傾げさせる。遥は遥なりに、直面している問題を真剣に考えた上で、今最も伝えるべきだと思った気持ちを精一杯の言葉にしたつもりだった為、皆の反応は少し予想外だったのだ。
「あの…、えっと…」
どうにも上手く伝わっていなかった事を認めざるを得なかった遥は、自身の考えと気持ちを改めてちゃんと言葉にしようと少しばかりの思案をする。
ただ、伝えたい事は「幸せだ」とそう告げた最初に一言に集約されていたのだから、遥が考えを纏め上げるのにはそれ程の時間を要しなかった。後は、そこに至った経緯と、そこから至る結論までをきちんと添えて、それをちゃんと伝えられるかどうかだけだ。
「あ、あの…、あのね、ボク…思ったんだ…」
依然として困惑している一同に見守られながら、遥はしばしの思案を経て、そんな言葉から改めて自身の想いを綴り始める。この想いが確かに伝わりますようにと、今もてるありったけの気持ちを込めて。
「ボクには、こんなにも沢山の大切な人がいてくれる…」
遥はそれを噛みしめる様に、ここに居る「大切な人」を一人ずつ順番に見回してゆく。
「ヒナ…」
時には優しく、時には厳しく、いつも支えてくれている沙穂。
「ミナ…」
誰よりも大らかで、どんな時も一番に共感を示してくれる楓。
「美乃梨…」
何があっても変わらず唯々真っ直ぐに想ってくれている美乃梨。
「賢治…」
過保護がちょっぴり玉に瑕だが誰よりも信頼してやまない賢治。
「皆が…ボクを心配して…今ここに居てくれる事が凄く嬉しくて…それに…」
何より、青羽が、今でも変わらず好きだと、想いを伝えに来てくれた。
「早見…青羽君…」
遥はいつしか拳のほどけていた青羽の掌に自身の小さな手を重ねて、少しだけはにかんだ笑顔を見せる。
「ボクもキミが好きだよ」
心のままに、その想いを言葉にすれば、遥の胸の内で咲いていた一輪の青い花が抜ける様な晴天の空となって一杯に広がってゆく。
その鮮やかな心模様は、間違いなく青羽がくれたもので、遥は眩しいほどに溢れるかえるその美しい感情にふさわしい言葉を一つしか知らない。
「幸せって…こういう事なんだね…」
大切な人がいて、好きな人がいて、想いが通じ合っている。これを幸せと呼べないのなら、幸せなんてものは、これから先どこを探してもきっと見つかりはしない。遥は今、心から強くそう感じられていた。
「今がこんなに幸せなら…」
静かに耳を傾けてくれている皆に見守られながら、ここまで何とか想いを言葉に編み上げてきた遥は、最後の結論を告げる前に、青羽の手をギュッと強く握りしめる。
「ボクは…、その…か、彼女になれなくても…平気だよ!」
それが、遥の辿り着いた結論。遥なりに考えた、青羽と歩む幸せの在り方だった。




