4-22.我儘
考えるよりも早く、身体が動いていた。
遥はそれまで伏せっていたベッドから跳ね上がり、躊躇なく部屋を飛び出して半ば転がり落ちる様な勢いで階段を駆け下りてゆく。
「遥、今の声はいったい―」
階段を下り切った所で鉢合わせになった父の正孝が何か言い掛けていたが、今はそれに取り合っている余裕など遥には当然無い。
「後にして!」
脇をすり抜けざまそんな膠も無い一言で正孝をあしらい、遥は靴を履く手間すら惜しんで裸足のまま玄関に降り立って扉を開け放つ。
「はやみくん!」
外はもうすっかり暗く、まばらな街灯と家々から漏れる生活光程度では、数メートル先の門前に佇む人影でしかない人物の特定は遥の人より秀でた視力でも難しい。
たがそれでも遥は、その人影が青羽である事を信じて疑わなかった。青羽が走らせた全速力の想いは、そこに乗せられていた願い通り、確かに遥の元まで届いていたのだから。
「はやみ…くん…!」
青羽が来てくれた。想いは確かに受け取った。今でも変わらず好きだと、青羽がそう言ってくれた。胸の奥から込み上げる気持ちは暖かく、遥はそれを噛みしめる様に、一歩ずつ、ゆっくりと玄関のアプローチを進みだす。
その歩みに合わせて点々と燈ってゆくガーデンライトは、普段なら只の照明でしかないが、遥には今それが青羽の元へと導いてくれる標の様にすら見えた。
「…はやみくん!」
青羽の元まで、あと数歩の距離。
今やもう、ガーデンライトに薄っすらと照らせれたその顔もハッキリと見て取れる。
「奏さん!」
青羽が再び自分の名を呼んでくれる事が心の底から嬉しくて堪らない。
臨海公園の高台で繋いでいた手がほどけてしまったあの瞬間から、遥はもうそんな簡単な事すら二度と叶わない気がしていたのだから。
「はやみくん…」
あとほんの少しで、お互いに手を伸ばせばもう届く距離。
辿り着きさえすれば、そこにはきっと、在りし日に思い描いた以上の未来がある。
多分それは、想像もつかないくらいに素敵な未来で、そして多分、この機会を逃したらもう二度と手には入らない。
遥はそんな未来が広がっていく事を夢見ていた筈なのに、そこまであと僅かという処でピタリと歩みを止め、それ以上はもう一歩も踏み出せず、その場で顔を俯かせてしまった。
「はやみくん…、ボク…」
胸の内では、青羽が咲かせてくれた一輪の青い花が今でも大樹の枝先でさやさやと揺れている。
青羽の事が好きだ。その気持ちが恋なのも、きっと間違いじゃない。
だがそれでも遥は、顔を伏せたまま、あと僅かの距離を踏み出せずに逡巡する。
「奏さん…、今更こんなの信じてもらえないかもしれないけど、でも聞いてほしい!」
青羽は後もう少しの所で立ち止まってしまった遥を前にしても狼狽えず、その口ぶりもこの状況を覚悟していたかの様だった。
尤も、「今更」だなどとはまるで思っていなかった遥は、決して青羽に対する不信感からその歩みを止めてしまった訳ではない。そうでなければ、遥はまだ今ごろは自室のベッドに伏せったたままで、こうして青羽の前に立っている事もいなかっただろう。
「奏さんが秘密を打ち明けてくれた時、俺…バカなくせにあれこれ考えちゃって、何を言えばいいか、どうしたら良いのかも分からなかった…」
それも無理のない話だと理解できていた遥は、その事で青羽を責めるつもり等も当然初めからありはしない。
「けどそれは! 奏さんの事が嫌になったとかじゃなくて、むしろ好きだから…大好きだからだったんだ!」
青羽の言葉は想いに寄り過ぎていて、明瞭な様で漠然としていたが、再び想いを告げられた今なら、遥にはそれがどの様な心境だったのか想像がつく。
きっとあの時の青羽は、いつかの沙穂がそうだった様に、自を思い遣ってくれていたが故に苦悩して、葛藤していたに違いないと。
「早見君…、ボクね…、今すごく…嬉しいんだよ…」
その言葉に偽りはなく、事実遥の心は今、かつてない程の喜びに満ち溢れていた。
だがしかし、そんな満ち足りている筈の心とは裏腹に、遥はやはり俯いたままその場からは動けずにいる。
「嬉しいのに…、ボク…」
嬉しかったからこそ、遥は気付いてしまったのだ。否、思い知らされたと言い換えても良い。
「こんな…ボクじゃ…!」
目を伏せた遥の視界には、ガーデンライトの明かりが途切れた暗がりを前に立ち尽くす小さな足と、今ではもうすっかり見慣れた筈の驚くほど頼りない小さな手。
それは、もはや男の子でもなく、女の子にもなりきれない哀れで惨めな「違う生き物」たる自分の小さな手足。
遥は、青羽が今でも自分を想ってくれていた事がどうしようもなく嬉しかったからこそ、その反面で思い知らされ、そして考えずにはいられなかった。
この身が哀れで惨めな生き物であったばっかりに、自分はごく普通の女の子だったなら在りもしなかった筈の苦悩や葛藤を青羽に強いてしまっている。
確かに青羽はそれを乗り越えて、再び想いを伝えに来てくれたかもしれない。
確かにその想いに応えれば、その先には幸せな未来が待っているのかもしれない。
ただそれは同時に、この哀れで惨めな生き物たる自分を、青羽に背負わせてしまう事に他ならないのではないか。もしそうならば、幸せな未来なんてものも、結局は泡沫に消えてしまうただの夢にしか過ぎないのではないか。
そうなった時、自分が悲しみに暮れるだけならば、それはこの半年間で幾度となく繰り返して来た事なのだからまだどうとでもなる。たがしかし、それが今度こそ青羽を深く傷つけてしまう結果になるのだとしたら、遥はきっとそれには耐えられない。
だから遥は、あと僅かの距離が踏み出せず、もうその場からは一歩も動けなくなっていた。
「ボクは…、ボクはこんなだから…! 早見君を幸せにしてあげられない…!」
遥は堪らず自身に対する不信と不安をぶちまけて、いっそ青羽が自分を嫌いになってくれていた方がどれだけ楽だったかとすら思わずにはいられない。
そんな思考と感情のどん詰まりにまで追い込まれて身動きが取れなくなっていた遥を前にして、青羽は何故か不意にクスリと小さく笑い声を洩らした。
「奏さん、違うよ」
何が違うのか、何故笑ったのか分からなかった遥が思わず顔を上げると、ガーデンライトの薄明りに照らされてキラキラと輝いていた青羽の瞳と視線が交じり合う。
「俺が、奏さんを幸せにするんだ」
その途方もなく真っ直ぐな言葉と、見つめる瞳の輝きに心を大きく揺り動かされ、遥は思わず手を伸ばしてしまいそうになった。しかし遥はその寸前で、それこそが青羽に全てを背負わしてしまう事に他ならないと思い留まって、伸ばしかけていた手を自身の胸元に抱き込んで再び顔を伏せる。
「…で、でも…それじゃぁ…早見君が…」
今ここで、青羽の想いを受け入れて泡沫の幸せを手に入れる事は、きっと驚くほど容易い事だ。その小さな足であと僅かの距離を踏み出して、その小さな手をほんの少し伸ばすだけで事足りる。けれども、その先に有る決して幸せではない結末をも想像し得てしまった遥は、やはりどうしたってもうそうする事が出来なかった。
「はぁ…、賢治さんは…やっぱりすげぇなぁ」
小さな溜息と共に、青羽の口から突然挙がったその名前に、遥は思わず再び顔を上げて、目をぱちくりさせてしまう。
「えっ…なんで…けんじ…」
遥にしてみれば、今ここで出てきた賢治の名前は全くの脈絡が無く、ならば当然これには困惑せずにはいられない。
「あぁ、うん、賢治さんが言ってたんだ、奏さんはどんな時でも自分の事は二の次だって…、本当にその通りなんだなって思ってさ…」
青羽がいつの間に賢治とそんな話をしたのかは関知しない事だとしても、遥から言わせてもらえばそれは見解の相違というヤツだった。
「そんな事…ない…、ボクはただ…早見君を傷つけたくないから…それが怖いから…」
詰まるとろそれは自身の為に他ならず、遥は以前それを自分の「弱さ」だと賢治に語った事がある。
「だから…全部…ボクの我儘なんだ…」
無論、今ここで想いを断ち切っても、それはそれで青羽を傷つけてしまう結果になる事を遥は良く分かっていた。だからこそ遥は、あと僅かの距離を踏み出す事は愚か、その場から立ち去る事すらも出来ずにいたのだ。
「奏さんが我儘だって言うなら、俺だって相当だよ」
遥の理解でいけば、青羽は少々お節介な所を除けばどちらかといえば謙虚で、我がままとは遠い様に感じられてこれには頷きかねる。
「何せ俺、ここへ来る前に、賢治さんと会って、一つ約束して来たんだ」
賢治の名前が挙がった事ですら意外だった遥は、これに殊更の困惑を禁じ得ず、堪らず小首を傾げさせた。
「やく…そく…? どうして…けんじと…?」
約束の内容は元より、青羽がなぜ賢治とそんな物を交わしたのか、何より其れのどこが「何せ」なのか、遥にはそのどれもがまるで判然としない。
「ここへ来る為には、そうしなきゃいけないと思ったからなんだけど…」
青羽自身、賢治と約束を交わした理由は上手く言葉では説明できない様だったが、おそらくは筋を通したかったという事なのだろう。
「それで俺、何があっても奏さんには絶対傷付けられたりしないって、賢治さんとそう約束してきたんだ!」
青羽は先程の賢治と約束を交わした理由とは打って変わって、その内容に付いては自信に満ちた溢れた様子で宣誓してくれたがしかし、遥には一瞬その意味が良く分からなかった。
何があっても相手を「傷付けない」というのならともかく、青羽は何があっても自分は「傷つけられたりしない」と、そう言ったのだ。
「…えっ? 傷付け…られたりしない?」
聞き間違いかもしれないとすら思った遥が確認を入れるも、青羽はそれで間違いがない事を相変わらずの自信たっぷりな様子で力強く肯定する。
「そう! だから奏さんは俺を傷つけるかもとか、そんなこと全然心配しなくていいんだよ!」
ここまで言われれば遥もそれが聞き間違いなどでは無かった事を認めざるを得なかったが、道理に反している様に思えてならなかったその理論には思わず唖然とするしかない。
「そ、そんな…ことって…」
相手を傷つける事を恐れて葛藤する心理を全身に鋭い針を纏ったヤマアラシに例えたりするが、青羽はそれに対して自分は固い装甲を持ったアルマジロだから平気だと言っている様な物だろうか。
「信じられないかもしれないけど、でも俺、自信あるんだ!」
そうは言われても、その自信自体が一体何を根拠に成り立っているのかも遥にはまるで分からない。それでも青羽はそのひたすらに真っ直ぐな瞳を自信に輝かせて、遥の戸惑いや不安をいとも容易く蹴散らしてゆく。
「だって俺は、奏さんが幸せでいてくれたら、それだけで幸せなになれるんだ! お互いに幸せなら傷付く理由がないじゃないか!」
それは、一見荒唐無稽なようでいて、恐ろしく単純でこれ以上ないくらいに明確な根拠だった。
「で、でも…そんなの…」
持ち前のネガティブ思考から、それは単純すぎるが故に困難なのではないかと、そう思わずにはいられない遥だったが、青羽はそこにこそ自信があると胸を張る。
「俺は奏さんに負けないくらい我儘だって言ったじゃないか! 俺、何があっても絶対に奏さんを幸せにするよ! だから大丈夫なんだ!」
他でもない自分の為にそうするのだという青羽のそれは、遥とは真逆のベクトルではありながらも、確かに同じ平行線上存在する全く同種の我儘だった。青羽は我儘であるが故に、出来る出来ないでは無く、自らの手でそれを必ず実現させるとそう言うのだ。
「だから奏さん! 俺に奏さんを幸せにさせて欲しい!」
今まで以上に力強く、熱っぽい想いと共に、青羽が門から身を乗り出して手を伸ばして来れば、二人の間を隔てていた最後の暗がりにポッと明かりが燈る。
「はやみ…くん…」
つながった光の道筋と、その先へと確かに導いてくれている青羽の伸ばした手。あと僅かに踏み出してその手を取れば、そこには青羽の我儘によって約束された幸せな未来が待っている。




