4-20.厳しさと優しさ
もし、自分の行いが誰かの運命を大きく変えてしまったなら。
もし、その誰かが自分にとって掛け替えの無い人だったなら。
そう思うと美乃梨の心中は察するに余りあって、沙穂と楓などは早々に掛ける言葉を失っていたが、それに引き替え突然の一喝と共に現れた賢治は一切の容赦がなかった。
「お前はアホか」
腕組みを解いて傍まで歩み寄ってくるなり、いきなりそんな相当に辛辣な一言から入った賢治は、その上更に美乃梨の額を指先で強かに弾き飛ばす。
「ふぎゃッ!?」
完全に無防備な状態で賢治の一撃を食らった美乃梨はへんてこな悲鳴を上げながら目を白黒とさせ、沙穂と楓もこれにはかなり面食らって思わず愕然だ。
「ちょッ!?」
「えぇぇ!?」
いきなりの登場、いきなりの叱責、いきなりの仕打ちで、美乃梨は元より沙穂や楓ももう正直訳が分からない。
「な、な、何するんですか賢治さん! 泣いてる女子にいきなりデコピンするとか正気ですか!?」
訳が分からないながらも美乃梨が両手で額を押さえながら抗議の声を上げると、賢治は表情を険しくしながらこれをバッサリと切り捨てた。
「正気じゃないのは俺じゃなくてお前だ。大体こんな処でわんわん泣くやつがあるか」
駅前とは比較にならない程人目の有る場所で遥がもっと盛大な泣きっぷりを披露していた事は賢治の与り知らぬ所だとしも、その言い様はあんまりと言えばあんまりだ。
「い、いやいや! 待ってください! いきなり色々と酷くないですか!?」
「そ、そうですよ! デコピンしたりキツイ事言ったり酷過ぎますよ!」
それまで愕然となっていた沙穂と楓も流石に我に返って堪らず美乃梨に加勢したがしかし、これにも賢治は相変わらずの険しい面持ちのまま全く動じない。
「それくらいじゃなきゃこいつが泣き止まなかったからな」
言われてみればという感じで沙穂と楓が美乃梨を見やれば、額をさすりながらの涙目ではありつつも、確かに先程までの大号泣が今はもう鳴りを潜めていた。
「ほ、ほんとだ…泣き止んでる…って、いやいや! そうじゃなくって! 何があったのかよく知りもしないのにいきなり出て来て何なんですかって事ですよ!」
実際に美乃梨が泣き止んでいた為に沙穂は一瞬怯み掛けるも、直ぐにそもそもの問題点に立ち返って再び抗議する。がしかし、賢治はこれにも全く動じる事は無かった。
「何があったのかは当人から聞いて知ってるよ」
こうもあっさり反論されてしまっては流石の沙穂も返す言葉が無く、今度は完全に怯み切ってまたしてもの愕然だ。
「なっ…」
賢治の言う当人とは、今問題の中心になっている美乃梨の事では勿論なく、遥の事だと思ってまず間違いがないだろう。
遥が打ち明けたのか、それとも賢治の方が聞き出したのかは分からないが、二人の間柄なら可能性としてはどちらも大いにあり得る話だ。
遥を見送った頃にはまだ夕焼けだった空が今はもうすっかり暗くなっている為、それくらいのやりとりがされていてもおかしくないくらいには時間も経過している。
そもそも考えてもみれば、賢治は最初の一喝からして美乃梨の号泣と遥の事情には因果関係がある事を確信している口ぶりだった。
「そう…ですか…聞いてるんですか…」
色々と情報が出そろって来た為に、頭の回転が早い沙穂は愕然となりながらもつい色々と考えずにはいられない。
例えば、賢治が今ここに居るのは、美乃梨をフォローしてほしいと遥に頼まれたからだとすればどうか。
放って置くとすぐにネガティブな考えを抱きがちな遥なら、今回の件で美乃梨が酷く胸を痛めている事には遅かれ早かれいずれは思い至っただろう。
そうなれば友達想いの遥がそれをそのまま放って置ける道理は無いが、かといって自分が出て行けばそれはそれでまた余計な心配を掛けてしまうかもしれない何て事まで考そうだ。
そこで遥が悩んだ末に、誰よりも信頼していて、世界一気を許していると言っても過言ではなく、美乃梨とも面識のある賢治に白羽の矢を立てたとしても何ら不自然はない。
辛辣だったり乱暴だったりと賢治のやり方には少々の問題が有ったものの、それもある種のショック療法だと考えれば、実際に美乃梨が泣き止んでいる事から、沙穂にはそれも効果的であったようにすら思えてきてしまう。
そんな具合に彼是と考えだしてしまえば、沙穂はもうその賢しい性格が災いして無暗やたらと賢治に噛みつけもしない。がしかし、そんな沙穂の一方で、それとはまるで対照的に、賢治が事情を知っていたからこそ猛烈な反発を見せたのが楓だった。
「何があったか知ってたなら…余計に…酷いじゃないですか! 花房さんがどんな気持ちで泣いてたか分からなかったんですか!?」
沙穂とは違って理論的思考よりも感情的な共感が先立つ楓は美乃梨に肩入れするあまり珍しく攻撃的にもなって、涙を滲ませた瞳で賢治をキッときつく睨みつける。
「美乃梨がどんな気持ちで泣いてたか…か…」
楓の猛反発を受けてその中に在った言葉をボソっと繰り返した賢治は、ここへきて今日一番の険しい表情を見せた。
「…そんなものは、キミらよりも俺の方がよっぽど良く分かってるだろうさ…」
賢治はそこで一旦言葉を止めると、楓から視線を外して美乃梨の方へと目を向ける。
「どうだ美乃梨、違うか?」
名指しで問い掛けられた美乃梨に沙穂と楓も目を向ければ、その顔からサッと血の気が失せていったのが二人にもハッキリと分かった。
「……ちがわ…ないと…思う」
肯定しながら小さく頷いた美乃梨がそのまま俯いてしまうと、賢治は少しだけ表情を和らげていつも遥にしているのと同じようにその頭を乱暴な手つきで無造作にかき乱す。
「心配すんな、あの時の事はもう今更責めちゃいない」
賢治の言う「あの時の事」が遥の運命を大きく変えてしまった事故の事を指しているのは沙穂と楓にも直ぐに分かった。そして、賢治と美乃梨の間に自分たちで推し量れない様な深い因縁がある事もまたここまでくれば否でも分かる。
「ただな…お前がハルの事で泣くのはダメだ…」
賢治の言葉は変わらず厳しいままではあったが、僅かに和らいでいた表情と同じ程度にその口調も今までより優しげに聞こえたのは、おそらく気のせいではない筈だ。
「…ごめん…なさい…」
美乃梨が遂には俯き加減で謝罪の言葉をも口にしてしまった為、賢治にも何らかの理があるらしい事までは流石の楓でも漠然と察しがついた。ただそれでも、だからと言ってそれで全てが腑に落ちたかと言えばそれはまた話が変わってくる。
「…花房さんの気持ちが分かってるなら…なんで…こんなの…やっぱり酷いです…」
今や本人が半ば省みているとはいえ、美乃梨の心情を察するに余りあった楓にはどうしたってそこは割り切れなかった。
「まぁ、我ながら酷いとは思うよ。アホだの正気じゃない云々も確かに言い過ぎだったかもな」
先の乱暴にも過ぎた発言も含めて自身の辛辣さをあっさりと認めた賢治は、美乃梨の方へ視線を戻して項垂れているその頭を再び乱雑にかき乱す。
「美乃梨、悪かったな」
美乃梨は俯いたままその謝罪に何も応えなかったが、その心中を代弁する様に今度は先程から黙ってしまっていた沙穂が少しばかり遠慮がちに口を開いた。
「花房さんは…、カナやあなたがそうやって許してくれちゃうから…、余計に自分を責めるんじゃないですか…?」
それは如何にも大人びた沙穂らしい考え方で、おそらく美乃梨の心情としてもそれ程大きく外れてはいないだろう。美乃梨のような直情的な性格の持ち主なら、自覚のある罪は赦されるよりも責められた方が往々にして生き易い。
「そうかもしれないが…、それは美乃梨が泣いていい理由にはならないな…」
賢治の言葉は厳しい上に今一つ要領を得ず、沙穂はその真意を推し量ろうとまた考え込んでしまう。
「あの…だから…どうして…何ですか…?」
楓が再び黙ってしまった沙穂に変わって素直に疑問をぶつけると、賢治は美乃梨の方をチラリと見やってから大きなため息を吐いた。
「こう言うのは少々癪だが…、今のハルが在るのは、ある意味じゃこいつのおかげだからだよ…」
それは少々意外な言葉で、些かの困惑を禁じ得なかった沙穂と楓は思わずこれに顔を見合わせてしまう。
「えっ…と…それって…?」
今一つ理解が及ばなかった楓が再び疑問を呈すると、賢治は顎に手をあてがってしばし思案してから一つの問題提起をしてきた。
「…ミナちゃんと、ヒナちゃん…だったかな? 聞くがキミらはハルと友達になれて良かったと思うか?」
どんな思惑があって賢治がそんな質問をしてきたのか沙穂と楓には良く分からなかったが、それに対する答えならば二人共考えるまでもなく初めから分かり切っている。
「カナは大事な友達です! そんなの良かったに決まってるじゃないですか!」
「そうですよ! あたしたち何があってもカナちゃんが大好きなんですから!」
沙穂と楓が息を揃えて同様の気持ちを告げると、賢治はその答えを満足そうにして微かに笑みをこぼした。
「ありがとな…、きっとハルもそう思ってるよ」
今度はそれと分る程優し気な口調で沙穂と楓に感謝の言葉を述べた賢治は、未だ俯いたままでいる美乃梨の方を再びチラリと見やる。
「…まぁ要するに、キミらやハルがそう思えるのは、ある意味こいつのおかげって事さ」
賢治はまだ幾らも遠回しではあったものの、沙穂が最初にその言わんとしている事に気づいてハッとなり、楓の方もやや遅れながらも同じようにハッとなった。
「そ、そう…か…、カナが事故に遭ってなかったら…あたしら…」
「あっ…そ、そっか…ワタシ達、カナちゃんと知り合えても居なかったんだ…」
遥がもし事故に遭わず、その運命が変わっていなかったなら、今頃は賢治と同じ大学生で、今年高校に上がったばかりの自分たちとは接点すらなかっただろう。
無論、だからといって遥が事故に遭ってくれて良かった等と言うつもりは沙穂にも楓にも毛頭ない。遥がその所為で奇異な身の上になって辛い思いをしている所を二人は今日の事に限らず、今までにも沢山見て来ている。遥の身になってみればおくびにもそれを「良かった」とする事等は出来なかったし、だからこそ二人には美乃梨の心情も察するに余りあった。
だがしかしその一方で、沙穂と楓にとって遥という大切な友達を得られた事は、先程自分達で断言した通りに間違いなく「良かった」事で、ならば確かに賢治が言う様にそれはある意味では美乃梨の「おかげ」という事になるかもしれないのだ。
「なぁ美乃梨、お前は自分の『所為』だって言うけどな…、お前の『おかげ』だって沢山あるんだよ…、だからお前はハルやこの子達の為にも泣いちゃいけない」
賢治がその肩に触れて優しくも厳しい言葉を掛けると、美乃梨は瞳一杯に溜まっていた涙を両手で拭いながら顔を上げて真っ直ぐに前を向く。
「…賢治…さん…あたし…頑張って…みます…」
美乃梨には、まだ自分を責める気持ちや、やり切れない想いが幾らもあった筈だ。ただそれでも美乃梨は、遥の今に「良かった」事があるのなら、そしてそれを自分の「おかげ」だと言ってもらえたのなら、やはりもう泣くわけにはいかなった。
「よしっ…お前はいつもアホで正気じゃないがやればできるヤツだ!」
賢治がわざとらしく口元をニヤリと歪ませて、先程は訂正した筈の発言を再度持ち出したのは、きっと美乃梨が必要以上に背負い込まない様にと慮ったからだろう。決して、賢治が美乃梨の事を常日頃からそんな風に思っているからではない。筈だ。
その実際の所は今ここで敢えて確かめるべくは無いとしても、美乃梨が少し頬を膨らませている以外はこれで一先ずひと段落と見てよさそうで、そんな折に楓がふと思い出した様に疑問を一つ賢治に投げ掛けた。
「あの…ところで…カナちゃんは大丈夫…なんですか…?」
美乃梨の号泣と突然現れた賢治の所為で少々それどころではなくなっていたが、それらが解消されればやはり一番の心配は遥の事を措いて他にない。
遥は別れ際こそ「大丈夫」だと言って気丈に振る舞ってはいたものの、それが自分たちを心配させないためのフリであった事がありありと窺えていたとなれば猶更だ。
「あっ…そうですよ、カナの傍に居てあげてくださいよ!」
楓が遥の身を案じだした事で、沙穂ももう一歩踏み込んだ心配からの意見具申をすると、賢治はこれに極めて渋い表情で深々とした溜息を洩らした。
「ハルの事なら…今回ばかりは青羽に任せるしかない…」
憮然としたその面持ちと口ぶりから、賢治にとってそれが相当に不本意らしい事は容易に察しが付く。がしかし、沙穂は、楓は、そして美乃梨は、この時、賢治が一体全体何を言っているのか、その一切合切が全くもって理解できなかった。




