4-19.やるせなさ
ギュッと抱き締めてくれた美乃梨の力強さ。そっと寄り掛からせてくれた沙穂の頼もしさ。しっかりと手を握ってくれた楓の暖かさ。そんな三人の優しい温もりに遥は強く励まされ、大いに勇気づけられながら、それはそれでまた沢山の涙が出た。
「みのりぃ、ヒナぁ…ミナぁ…ふぇぇぇぇ」
それまでの悲しみとはまた違う理由で、遥はそれから三十分くらいは泣き続けただろうか。その間も美乃梨たち三人は、遥の心が少しでも穏やかであれる様にと、唯々優しくその傍に寄り添い続けてくれていた。
こんなにも自分を思い遣ってくれる友人達が居てくれるのならば、きっとこの辛い現実も乗り越えて行ける。
独りでは無かったのだから、残酷なばかりでは無かったのだから、何より、自分にはまだ、こんなにも優しい世界が残されていたのだから。
確かにそう感じられた遥は、友人達の優しさに一頻り涙し終えると、気持ちを前向きにして瞳に溜まっていた最後の涙をその小さな手で拭い去る。
「…美乃梨…ミナ…ヒナ…、あの…ね…、何があったか…聴いて…ほしいの…」
美乃梨たちは今まで、おそらくは敢えてそれを尋ねないでくれていた。
それはきっと、泣き暮れていた自分がそれ以上の悲しみに追い込まれない様にと思い遣ってくれていたからだ。
無論、今だって遥はまだ幾らも悲しくて、それを語り始めれば、もしかしたらまた情けなく泣いてしまうかもしれない。ただそれでも遥は、美乃梨には、沙穂には、楓には、今こうして傍に居てくれる三人になら聴いてほしかった。
「遥ちゃん…無理、しないで」
そう言って、またギュッと強く抱き締めてくれる美乃梨だから。
「カナ…本当に辛い時は…頑張らなくてもいいんだからね…」
そう言って、引き寄せた頭をそっと撫でてくれる沙穂だから。
「カナちゃん…ワタシたちの事なら…大丈夫なんだよ…」
そう言って、眼鏡の奥で瞳を潤ませて手を握ってくれる楓だから。
「ありがとう…でも…ボクが…聴いてほしいの…。だから…話し終わるまで、もう少しこのままで…いさせて…」
その言葉に、その想いに応える様に、美乃梨は、沙穂は、楓は、それまで以上に優しく寄り添って、遥はそれを支えにポツリポツリと語り出した。
「あのね…、ボク…、早見君に…振られ…ちゃったんだ…」
そんな導入から始まったそれは、何者にも成れない遥がほんの一瞬だけ女の子でいられた小さな恋の物語。
青羽が好きだと言ってくれた事、自分も青羽を好きになっていた事、だからこそ自身の秘密を打ち明けた事、そして、秘密を知った青羽がもう「好きだ」とは言ってくれなかった事。遥はその全てを一つ一つ噛みしめる様に、確かめる様に、ゆっくりと拙い言葉で紡いでいった。
地元の駅前から、茜さす空の方角に向って、ノロノロと遠ざかってゆく一台のバス。
やがてそのバスが交差点の角に消えて完全に見えなくなってからも、美乃梨は、沙穂は、楓は、しばらくの間その場から動けずにいた。
あのバスには、遥が乗っているから。美乃梨たちには、遥の乗るあのバスを見送る事くらいしかできる事がなかったから。
もし許されたのなら、美乃梨たちは遥を自分たちの手で家まで送り届け、その上でそのまま一晩中でも傍についていてやりたかった。
幸い今は夏休み中であったし、そうするのに何の支障も無く、その為に本来なら一つ手前の駅で降りるべきだった沙穂も今こうしてここに居る。
ただ、肝心の遥がそれを望まなかったのだ。遥は全てを語り終えた後、「もう大丈夫」とそう言って努めて気丈に振る舞い、帰りのバスにも果敢に一人で乗り込んで行った。
おそらく遥は、そうする事で友人達にこれ以上の心配を掛けまいとしたのだろう。その意図が汲み取れたからこそ、美乃梨たちは遥が乗り込んだバスが影すら見えなくなった今でも、こうしてただそれを見送り続ける事しかできずにいた。
やがて、茜色の空が藍色へと移り変り、ポツポツと街灯の明かりが燈りだした頃になって、遥が乗っていった物と思しきバスが戻って来たのをきっかけに、三人はようやく動きを取り戻して、自然とお互いの方へと向き直る。
「…どうして…なんだろうね…」
それは、いつも理路整然としている沙穂にしては珍しく、ひどく漠然とした遠慮がちな問いかけだった。
「どうして…って…言われても…」
楓は沙穂の漠然とした問いに歯切れの悪い曖昧な言葉を返したが、それは決して質問の意図が分からなかったからでは無い。今この場で為される質問なら、それはまず間違いなく遥の語ってくれたあの切ない物語についてである事は確かめるまでも無かった。
「どうしてって…言われても…」
楓は再び同じ返答を繰り返しながらも、沙穂の意図を汲み取って自身の胸の内から一つの答えを見つけ出す。
「……たぶん…ワタシのせい…だよね」
楓がそんな結論に辿り着いたのは、当然と言えば当然の帰結だった。
自分が青羽を遥とデートさせてあげたい何て考えを持たなかったら、それを阻止しようとしていた沙穂や美乃梨に初めから協力していたなら、こうはなっていなかったかもしれない。
楓はそう思うと悔いても悔み切れず、堪らずに涙を浮かべて俯いてしまったが、その肩に沙穂が触れてゆっくりとかぶりを振った。
「…早見は前々からカナの事が好きだったんだし…カナも早見を好きになってたんなら…どのみち遅かれ早かれ…だったんじゃないかな…」
確かに沙穂の言う事は尤もで、その理屈は楓にだって理解できる。ただそれでも楓は、この誰も幸せになれなかった結末がどうしたってやりきれなかった。
「でも…こんなのって…ないよ…なんでカナちゃんばっかり…こんなのワタシ嫌だよ…」
思えば遥は、夏休みに入るまでの一学期間だけでも大小さまざまな問題と向き合い続け、その度に少なからず辛い思いをしてきている。駅前での一件がまだ記憶に新しかっただけに、楓は「それなのに」と、殊更そう思わずにはいられない。
「早見くんなら大丈夫だって…そう…思ってたのに…」
駅前の一件で、絶望の淵に立っていた遥を目にするなり、猛然と賢治に立ち向かっていた青羽の事を思うと、楓は余計にこの結末がやるせなかった。
「…早見が好きだったのは『女の子』のカナだったって…事でしょ…仕方ないわよ…」
失望や落胆が見え隠れしていたその言葉から、沙穂も青羽に期待する物が少なからずあったのかもしれない。
ただ楓には、遥の素性に言及したその言い様が酷く突き放した様にも感じられてしまい、思わずカッとなって気付けば沙穂の両肩に掴みかかっていた。
「どうして…! どうしてそんな事言うの! カナちゃんは何にも悪くないのに!」
確かに遥は元男の子だった関係から、時には自分達が思わない様な素っ頓狂な事を言ったり、女の子なら当たり前の事が出来なかったり分からなかったりもする。だがしかし、楓からすれば、それが一体何だというのだ。
遥自身は自分を指して何者にも成れない哀れで惨めな生き物だとすら言ったが、そんなことは決してないと、楓は誰よりもハッキリそう断言できた。
「カナちゃんは…、カナちゃんはもう男の子に恋だってできる普通の女の子なんだよ! カナちゃんが悪い事なんて絶対にないのに!」
例え遥自身が認めていなくとも、例え本人が気付いていなくとも、楓は知っている。
今の遥がどれほど「女の子」であるか、そして今まで遥がどれほどひた向きに「女の子」の自分と向き合って来たのかを。
「そんな事…! あたしだって…あたしにだって…分かってるけど…!」
楓がそうである様に、沙穂にもまた遥の事を誰よりも傍でずっと見て来たという自負がある。遥自身には何の罪も無い事なんて、楓に言われるまでも無く沙穂は嫌という程良く分かっていた。しかしその一方で、沙穂は持ち前の理知的な性格ゆえに、遥自身の善悪に関係なく、その特殊な身の上がこれからもあらゆる場面で「害」になっていくだろう事を否定しきれないのだ。
「分かってるんだったらどうしてカナちゃんが悪いみたいな事言うの!」
楓も沙穂の性格は良く分かっていたし、普段はそれを大いに頼もしくも思っている。だが、今この場では沙穂がその性格ゆえに遥の事を半ば諦めてしまっている様にも感じられて、楓にはどうしてもそれが許せなかった。
「カナちゃんが悪い事何て一つも無いってヒナちゃんだって知ってる筈でしょ!」
このとき楓は感情的になる余りに、沙穂の性格について一つ見落としていた事が有る。否、もしかしたらそれを分かった上で、他の誰でも無い沙穂に共感して欲しかったが為に、敢えて焚きつけていたのかもしれない。
普段は理知的で大凡の場面では冷静でありつつも、実のところ決して穏やかではない沙穂の激しい気性を揺さぶる為に。
「カナちゃんは悪くないってワタシたちが言ってあげなくて他の誰が言ってあげられるの!? カナちゃんはワタシたちの大切な友達でしょ!?」
もし本当に、楓が沙穂の気性を揺り動かそうとしていたのなら、それ自体は間違いなく成功だ。楓が良く知っている通りに、沙穂は性格的にここまで言われて大人しくしてられるほど穏やかでも大らかでもないのだから。
「…だったら! 誰が悪いのか教えてよ! 何が悪いのか教えてよ!」
沙穂はそれまで両肩を掴んでいた楓の手を振り払い、逆に掴みかかって激しい剣幕で詰めかける。沙穂を感情的にする事が楓の計算だったとするならば、確かにそれは成功していたがしかし、そこには幾つかの誤算があったと言わざるを得ない。何故なら沙穂は感情的になりつつも自身の想いに頑なであったし、何より楓は知らずの内に、もっと別な者の感情をこれ以上ないくらいに激しく揺さぶってしまっていたからだ。
「二人共もうやめて!!」
夕暮れ過ぎのそれなりに人が往来する駅前に響き渡って俄かに注目を集めたその悲痛な訴えは他でもない、今までずっと俯き加減で押し黙っていた美乃梨のもので間違いがなかった。
「誰が悪いのかなんて分り切ってる! だって悪いのはあたしだから! 遥ちゃんが辛い思いをするのはあたしの所為だから!」
半ば絶叫にも近かった美乃梨の激しい嘆きに楓と沙穂はハッとなる。
それは、少し冷静になって注意深く考えてみれば、容易に気付けていた筈の事だった。
楓も、沙穂も、遥がどういった経緯で女の子になったのか、そして、遥と美乃梨がどういった関係であるのかを知っている。
ならば、遥がその特異な身の上で辛い思いをして、誰よりも心を痛めていたのは、どう考えたって美乃梨を措いて他に居なかったのだ。
「は、花房さん! 違うよ! 誰も花房さんが悪いなんて思ってないよ!」
「そうよ! あたし達だってそういう事が言いたかったんじゃないの!」
楓と沙穂はついさっきまで言い合いになりかけていた事等はあっさり捨て置き、一瞬の目配せからピッタリと息を合わせて必死の弁解とフォローを開始する。
楓と沙穂は美乃梨を責めたかった訳でも、そもそも遥を苦しめた犯人探しをしたかった訳でも無い。二人は唯、遥が昔は男の子だったというだけで辛い思いをしなければならなかった事がやり切れず、それぞれのやり方でそれに憤っていただけなのだ。
「…楓ちゃんと沙穂ちゃんが…あたしを責めてるんじゃないのは…分かってる…!」
その言葉に楓と沙穂は一瞬ホッとしかけるも、一度感情を溢れさせた美乃梨はもう止まらなかった。
「でも…! あたしの…あたしの所為だから! あたしが…あたしが…遥ちゃんを…!」
楓と沙穂の弁解とフォローも虚しく、美乃梨は溢れる感情に任せて益々自責の念を強めてゆく。
「ごめん…なさい! ごめんなさい…はるか…ちゃん…!」
こうなってはもう、何を言っても、どう取り合った所で、楓と沙穂の手に負えるものでは無い。こうなった美乃梨を何とか出来る者が居るとするならば、それは間違いなく遥だけだ。美乃梨もそれが分かっていたからこそ、これまでは必死に堪えていたのだろう。遥の前で感情を溢れさせてしまえば、どうしたって遥は自身の事等厭わずに無理をしてしまうのだから。
「うあぁぁぁぁん! はるかちゃぁぁぁん!」
昼間の遥に負けず劣らずの号泣を始めてしまった美乃梨をどうする事も出来ない楓と沙穂は最早唯々狼狽えるばかりだったがしかし、意外なところから助け舟はやって来た。
「美乃梨、泣くな! ハルはもうとっくにお前を許しただろう!」
いつからそこに居たのかは分からない。分からないが、五メートルほど離れた街灯の真下で腕組みをして仁王立ちしていたその声の主はそう、賢治だった。




