4-18.夏空
青羽と別れた臨海公園の高台から、追い立てる様だった潮騒と海風にいざなわれるまま立ち戻った水族館の前。遥は入場口へと続く短い階段の片隅に座り込み、ただ独りぼんやりと空を仰ぎ見る。
遠い青、堆い白、降り注ぐ日差しはただただ眩しく、そこに青羽のイメージを重ねてしまうのは些か感傷的に過ぎるだろうか。
仰ぎ見た空にそんな事を感じてしまえば、遥は辛いだけだと分かりながらも、自然と青羽の事を想わずにはいられない。
「…これで…よかったのかな…」
いったいどうすれば、どうする事が正解だったのか、それは臨海公園を抜けるまでの間にも、幾度となく繰り返してきた答えのない自問だ。
青羽が想いを告げてくれた時点で、遥にはどうしたって他の結末を得る選択肢などは選び様も無かったのだから、そもそもその問いには答えなど有るはずも無い。
「せっかく…好きだって…言ってくれたのに…な…」
想いを告げてくれた時の、どこまでも真っ直ぐだった青羽の眼差しと、少し震えていた手の感触を遥はまだ鮮明に思い出せる。
「…うれし…かった…なぁ…」
青羽に「好きだ」と言ってもらえたあの瞬間、遥はこの避け得なかった辛い結末を予見しながらも、それと同時にある種の幸福を感じて報われた気すらしていた。
何故ならあの瞬間に得られた幸福感は、遥が「女の子」として生きていくと決意して以来、ずっと、ずっと追い求めていたものだったからだ。
誤解を恐れずに言えばそれはつまり、「女の子として想われたい」という、賢治では決して叶えられない遥の「夢」、否、「願い」に他ならない。
もっと言えば、遥は駅前の一件で賢治への「愛」と呼べるほど強い大樹の様な想いを見つけて以来、その願いを半ば諦めようとしていた。
その願いを持ち続ければ、賢治がいつか自らの幸せな未来へと進みだしたその時に、それを祝福できる自分で在れないと、そう思ったからだ。もしかしたら遥は、例えその時が来ても、せめて「親友」としては賢治の傍に居続けられる自分で在りたかっただけなのかもしれない。ただいずれにしても遥は、賢治を想うが故に、その願いはもう諦めざるを得ないとそう思っていた。しかし、その願いを青羽がすくい上げて、仮初にでも、泡沫にでも、曲りなりにでも、確かに叶えてくれたのだ。
無論、想ってくれるのならだれでも良かった何て事は断じてない。いつも真っ直ぐに自分を見てくれていた青羽だったからこそ、そんな青羽に遥も少なからず惹かれていたからこそだ。
だから遥は殊更に、青羽と、そして自身の想いに正面から向かい合い、自らの全てを曝け出す事をも厭わなかった。諦めかけていた夢をほんの一瞬でも叶えてくれた青羽に、そんな青羽に惹かれていた自分に嘘をつきたくなかったから。
「…うれしかったのに…なぁ…」
半ば覚悟していたとはいえ、この結末はやはりどうしたって辛く、遥は堪らず目を伏せる。
「ボクが…こんな…だから…」
目を伏せた先では、ほんの少し前までは青羽と繋がっていた筈の小さな手が、今はやり場なく自身のスカートを知らずの内に固く握りしめていた。
そんな遥の小さな手は、それを持つその身は、そして、もしかしたらその心も、もうどうしようもなく女の子である筈なのに、かつては男の子だったという過去も決して消えはしない。
今や男の子ではないのに、どこまで行っても女の子にはなり切れない惨めで哀れな「違う生き物」、それが遥にとっての今の自分だった。
「そんなこと…わかってた…はずなのに…」
青羽のくれた想いと真っ向から向き合う為に、自らの秘密を明かしたその選択に後悔は無い。秘密を知った青羽がそれでも尚「好きだ」とは言ってくれなかった事だって、それは仕方の無い事だと割り切れる。
ただひとつだけ遥に後悔が有るとするのならば、自分がそれに能わない惨めで哀れな生き物であると知りながら、青羽に惹かれるまま恋をもしてしまったその事だ。
「…うぅっ…ダメ…だったのにぃ…なん…で…」
好きだと言ってくれたから、女の子として想ってくれたから、願いを叶えてくれたから。青羽に対する想いが「恋」として花開いた理由なら、遥は今や幾らでも見つけられる。ただ、そのどれもが、今となってはもう泡沫と消えた儚い夢でしかない。
覚悟はしていた。それ以外の結末を選び得なかった。しかし、だからと言って辛くない訳がない。悲しくない訳がない。あの想いは、あの恋は、もしかしたら遥が「女の子」として初めて見つけた、そう「初恋」だったかもしれないのだから。
「…ぐっ…うぅ…」
それでも泣くまいと、遥が自身を鼓舞する様に再び空を仰げば、青は遠く、白は堆く、日差しはただただ眩しく、決して手の届かない青天の夏空。
「うっ…うぅ…」
瞳に溜まっていた涙が一粒、頬を伝ってほろりと零れ落ちてゆけば、そこが遥の限界だった。
「ひぅっ…ふっ…ふぇ…」
これまで、少なからず無理をしていただけに、一度決壊してしまえば溢れ出す感情と涙は堰を切った様に止めどない。こうなってはもう、遥に出来た事は、晴天の夏空を仰ぎ見たまま感情に任せて声の限り泣き叫ぶ事だけだった。
「ふああぁぁああああぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
階段の片隅とはいえ、日曜日の、それも夏休み中という普段より多くの人出で賑わう水族館の真ん前だったが、そんな事はもう遥には関係ない。
どうせ自分は惨めで哀れな生き物だと、自暴自棄にもなって思うさま泣き続ける遥の声は、かすかに聞こえてくる潮騒は元より、周囲を行き交う人々の喧騒や、羽休めに来ていた海鳥たちの姦しいさえずりや、臨海公園の新緑をステージに繰り広げられていた蝉たちの大合唱をも圧倒する。
「あああああぁぁぁあぁああぁあああぁ!」
遥がこれ程まで盛大に声をあげて泣いた事は、過去それ程例が無かった事かもしれない。遥は元来、どちらかと言えば理性的で、悲しい事や辛い事は吐き出すよりも内に閉じ込めてしまいがちだ。
今の身体になってからは、昔よりもずっと涙もろくはなっていたものの、ここまで感情を全開にして泣き叫ぶ事など早々は無かった事だろう。
そんな遥が今回に限ってそれをしたのは、これまでの経験と蓄積から学んでいたからだろうか。抑え込んだ感情はその分だけ自身の内で渦巻いて、それは時に心をも飲み込んでしまう深くて暗い闇となってしまう事を遥は今や知っている。
だから遥は、人目もはばからず、声を張り上げて泣いたのかもしれない。いつかの様に、自分自身の存在をも否定してしまわない為に。
もしそうだとすれば、遥にそうさせたのは、一時でも、泡沫にでも、青羽が自分を好きになってくれたから、そんな青羽を好きになる事が出来たから、何より、その瞬間は確かに存在していた筈の「女の子」として幸せだった自分を否定したくなかったからだ。
「ぁぁぁぁぁぁぁあぁああぁあああぁ!」
最早留まるところのない遥の大号泣は、必然的に周囲の注目を引き、幸か不幸か、世間はそうしているのが小さな女の子だと分かれば、それを放って置いてくれるほど無関心では居てくれなかった。
「お嬢ちゃん、どうしたの? お家の人とはぐれちゃったのかな?」
まず真っ先に声を掛けて来たのは、水族館の制服を着た若い女性職員で、おそらくは騒ぎに気付き業務の一環として駆けつけて来たのだろう。
「だいじょうぶよ、泣かないで? お名前いえるかな?」
女性職員はとても優し気で、職責以上の心配をしてくれていたのかもしれないが、小さな子供をなだめるようだったその口調は、遥を一層惨めな気持ちへと追い込んでいた。
「うっ…うぅうぅぅ…」
遥にとって、自分の身体が年端も行かない小さな子供であるというその事実は、常日頃から頭を悩ませている多大なるコンプレックスだ。
青羽が自分を年齢相応に扱ってくれていた事から、遥は今ある結末には悲嘆しながらも、その事に関してはこれまで余り意識せずに来れていた。しかし、女性職員が親切で優しかったが為にその現実を突き付けられた今、遥はそれをどうしたって普段以上のネガティブな材料にしかし得ない。
「うぇええええぇぇぇえええぇぇええええええ!」
女の子になり切れないどころか、自分はそれ以前の何も持たない小さな「幼女」でしかなかった。その改めて思い知らせれたもう一つの残酷な現実に、遥の慟哭にはいよいよもって歯止めが効かなくなる。
この時点で遥は、溢れ続ける感情と涙、そして自身の泣き声とで、周囲の様子などは一切合切何もかもがまるで分からなくなっていた。
「よしよし、直ぐお家の人に来てもらうからね」
水族館の女性職員が尚も小さな子供をなだめるような口調でそんな事を告げて、周囲にいた適当な人物に何やら声をかけた事にも遥は最早気付かず、ただひたすらに思うさま泣き続ける。
「ふぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええええ!」
やがて別な女性職員がもう一人現れ、元いた女性職員と二、三やり取りをしてすぐに立ち去っていったことも、それから程なくして水族館と臨海公園を要する関連エリア一帯に次のようなアナウンスが流れた事も、遥は全く気付かなかった。
『迷子のご案内を致します。白いセーラーカラーのワンピースをお召しになった八歳くらいの女の子が水族館正面入口前でお連れ様をお待ちです。お心当たりのあるご来場者様は水族館正面入口前までお越しください』
遥の肉体年齢は十歳前後の前寄りだが、八歳くらいとまでされたのはおそらく階段にしゃがみ込んでいた事と、その泣き様が余りもだったからだろう。
『繰り返します。迷子のご案内を致します。白いセーラーカラーのワンピースをお召しになった八歳くらいの女の子が水族館正面入口前でお連れ様をお待ちです。お心当たりのあるご来場者様は水族館正面入口前までお越しください』
二度に渡るアナウンスが流れ終えると、女性職員は遥の背中をそっとさすりながらニッコリと微笑みかけて来た。
「ほら、これでもう大丈夫よ?」
遥は何が大丈夫なのかは分からないながらも、背中に触れた人の温もりには自然とほんの少しだけ落ち着きを取り戻しかける。がしかし、女性職員が親切で優しいばっかりに、遥は次の瞬間には再び悲しみに突き落とされていた。
「すぐにお迎えが来てくれるからねー」
迷子アナウンスを出されていた事に気付いていなかった遥には、女性職員が何故そんな事を言ったのかはやはり分かり様も無い。ただ遥は、今の自分を迎えに来てくれる者など、唯の一人としていない事だけは嫌という程に分かっていた。
「ふぁあああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああ!」
そうするしか無かったとはいえ、折角向けてくれた想いをその愚かな身で持って裏切る事しか出来なかった自分を青羽が迎えに来てくれる筈なんてない。その思いが遥に今の自分はもはや「独り」である事を否が応にも実感させる。
「あぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああ!」
出来る事ならば、遥はこの泣き声がそうである様に、仰ぎ見るあの堆い雲と遠い空の向こうに溶けて消えてしまいたかった。
「あらあら…大丈夫だから、大丈夫だからね?」
女性職員は一層優しくなぐさめてくれたが、大丈夫な事等何一つ見つけられなかった遥が泣き止むことはなく、青天の夏空に向かってひたすらに慟哭する。
「あぁあぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああ!」
いったい、どれ程そうしていたのかは分からない。ともすれば、遥は涙が枯れ果てて喉がつぶれてしまうまでそうしていただろう。
それは、一向に泣き止まない遥の様子に、さしもの優しかった女性職員もほとほと困り果てて、そろそろ「大丈夫」とも言い難くなってきたそんな頃の事だった。
「遥ちゃんいたあああああああああああああああ!」
遥の号泣にも勝るとも劣らない大音響で水族館前に響き渡り、殊更人目を惹いた歓喜の声。そして、それにやや遅れながら、少し遠巻きに聞こえて来た声がもう二人分。
「カナ!」
「カナちゃん!」
それはそう、遥と青羽の後をこっそりつけるべく水族館エリアまで来てしまっていた美乃梨と沙穂、それに楓の三人に他ならない。
「遅くなってごめん! あたしたち向こうのアウトレットまで行っちゃってた! それにもう一つごめん! 邪魔しちゃ駄目だったのに、でも遥ちゃんが泣いてたから!」
沙穂と楓に先立って、全速力で真っ先に駆け寄って来た美乃梨はそんな些か言葉足らずな説明と弁明をしながら肩で軽く息を切らす。
「はぁ、はぁ…あ、アナウンス聞いて、もしかしたらと思って来てみたけど…、ほ、本当に…カナだった…!」
続けて遥の元に辿り着いた沙穂は美乃梨と違って息も絶え絶えといった感じで、それは最後の一人となった楓もまた同様だった。
「ひぃ、ひぃ…、か、カナ…ちゃん…な、何があったか…わ、わからないけど…、ワタシたちが…いるからね!」
想像できるだろうか、誰も来るはずがない、自分は独りなのだと、そんな悲しみに暮れていた遥にとって、美乃梨や、沙穂や、楓の存在がこの時どれ程の救いになったかを。
「み、みのり…ひ、ヒナぁ…うぅ…ミナぁ…!」
出来る事ならば、青羽が来てくれていたらと、そう思う気持ちが全くなかったと言えばそれは嘘になる。ただそれでも、美乃梨や、沙穂や、楓が来てくれただけで、遥がこの辛い現実から這い上がろうとするにはもう十分だった。




