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4-16.忍ばせる想い

 柔らかくにじむ水の碧、キラキラと瞬く銀の泡、そして悠々と泳ぐ色彩豊かな魚たち。

「綺麗だねー」

 分厚いアクリルガラスの向こう側に切り取られた小さな熱帯の海は、確かに遥が言う様に美しい。

「う、うん…綺麗…だね…」

 青羽も口では遥に同調して見せはしたものの、正直な話しをすれば全くもってそれどころでは無かった。

 何せ、水族館等という如何にもデートにはおあつらえ向きの空間で、正真正銘「デート」という名目の元に遥と手を繋いでいるのだ。

 遥の外見がちんまりとした愛らしい幼女である為、傍から見ると青羽は夏休みに小さな妹を水族館に連れてきてあげた良いお兄ちゃんといった様相ではあったし、入場券を買った際なんかには窓口で「大人二枚」と告げところ、係りの女性に怪訝な顔をされたりもした。

 それでも青羽にとっては傍からどう見えるか、他人がどう思うかなんて事は知った話では無く、遥はあくまでも同い年の女の子であり、ひっそりと想いを寄せている「好きな子」だ。

 そんな「好きな子」から「今日はデート」だ等と言われ、現に今こうして一応はそれっぽい感じになっているとなれば、当然ながら青羽としてはもう色々意識しまくりである。

 遥は今なにを思っているのか、遥は今なにを感じているのか、遥は今なにを考えているのか、そして遥は今どんな表情をしているのか。青羽はそんな事ばかりが気になって、折角紆余曲折在りながらも希望通り来られた水族館もまるで楽しめてはいなかった。

 それはそれで実に高校生らしいデートっぽくはあるので、青羽はある意味ではこれを十分満喫していると言えるのかもしれないが、ともかく一杯一杯である事に変わりはない。

 さて、そんな青羽の一方で遥はどうだったかといえば、こちらは自分で「デート」等と言い出して手まで繋いでおきながら、全く何の気負いも無い様子で、純粋に水族館を満喫中だ。

「あっ、早見君、見てあれ!」

 繋ぐ手を引っ張って、無邪気な笑顔で遥が指差した先を目で追ってゆけば、そこに居たのはイソギンチャクの森からちょこんと顔を覗かせるオレンジ色の熱帯魚だった。

「えっ…あ…う、うん…」

 水槽の方をチラリと見やった青羽は一応の受け答えをしつつも、やはりその意識と視線はどうしたって水族館の展示では無く遥の方へと戻ってしまう。

「かわいいねー!」

 そんな如何にも女の子っぽい共感を求めて上目遣いの視線を向けてきた遥こそが、今の青羽からすれば正しく「かわいい」以外の何ものでも無かった。

 特に白のワンピースを着た今日の遥は普段見慣れている制服姿とは一味も二味も違う愛らしさがあり、教室では決して見せてくれないだろうその無邪気な笑顔も青羽には相当に堪らない物がある。

「あっ…えっ…と…か…」

 これが晃人あたりだったなら、こんな時は臆面も無く「貴女の方が可愛いですよ」なんて歯の浮きそうなセリフを口にして、その上それがかなり様になっていたかもしれないが、手を繋いでいるというだけで一杯一杯の青羽にそんなウルトラCができた筈は当然無かった。

「かわいい…ね、カクレクマノミ…だっけ…」

 案の定、青羽に出来たのは魚に対する共感に忍ばせて、その言葉を口にしたのが精一杯である。それでも青羽としてはかなり頑張った方ではあったのだが、相手が遥ではそんな遠回しが通用する筈も無い。

「へぇ、かくれくまのみっていうんだぁ、早見君くわしいんだね!」

 遥が純粋に感心した様子でいっそう愛らしい笑顔を見せると、いよいよもって堪らなくなった青羽は思わずサッと視線をそらして水槽の方へと向き直った。

「そ、そんな事は…ないよ…うん…」

 それは別に謙遜などでは無く、青羽がその魚を知っていたのは、単純にカクレクマノミが一昔前にちょっと流行った割とメジャーな魚だったからだ。ただ、丁度その頃に事故で身体を失っていた遥はそうとも知らずに、尚も感心した様子でニコニコとしていた。

「でも好きなんだよね?」

 主語が省かれたその問い掛けに、遥の方ばかり見ていた青羽は何やら突然の核心を突かれた気がして思わずギクリとしてしまったが、勿論それは只の早合点だ。

「お魚」

 そんな後からの捕捉に、流石の青羽も遥の質問が至って平和な内容だった事に気が付いて心底ホッとしてしまう。

「あ、あぁ! さ、魚…ね! それは…えっと…普通…かな!」

 青羽がホッとした拍子についそんな正直なところを答えてしまうと、遥はこれにキョトンとして小首を傾げさせた。

「あれ? じゃぁ、どうして今日は水族館だったの?」

 青羽が魚好きだから今日の行き先は水族館なのだと思っていた遥からすれば、それは至って当然の実に素朴な疑問だったのかもしれない。がしかし、そんな遥の素朴な疑問は、特に魚好きという訳でも無かった青羽をギョッさせるには十分だった。

「っ! そ、それは…! え、えっと…その…なんて…いうか…」

 青羽がしどろもどろになって言い淀んでいる間に、どうやら遥は独自の見解に至ったらしく、「もしかして」と何やらしたり顔を見せる。

「早見君も本当はデートがしてみたかった…とか? だから水族館?」

 如何な遥でも水族館がデートスポットっぽいという認識の持ち合わせくらいはあったようで、その推察は珍しく中々に鋭いところを付いていた。青羽としてもデートしたかったかどうかで言えば、それは断然もの凄くしたかったというのが正直なところだがしかし、それが今日の行き先に水族館なんていう如何にもデートっぽい場所を選んでしまった理由だったかといえば、それはまた別の話しである。

「い、いやいや! そ、そうじゃないよ! 水族館だったのは…そ、その…奏さんが好きかなって、そう思ったからだよ!」

 流石に慌てた青羽が気まずさ半分、気恥ずかしさ半分に白状したこれこそが、今日の行き先に水族館を選んだ理由並びに先ほどギョッとしてしまったその真相だった。

 青羽は今回の話を持ち掛けられた時に、自身のちょっとした欲から遥と二人で遊びに行く事を希望してはみたものの、後になって良く考えてみたのだ。今回の事が遥からの「お礼」であるというのならば、自分にとっては遥が喜んでくれる事こそが一番の「報酬」たり得るのではないかと。

 それは男子高校生らしからぬ何とも控えめで実に奥ゆかしい話ではあるものの、詰まるところは遥に対する好意に根差している為、青羽がそれを言い辛かったのは当然と言えば当然だった。

 結局は下心を勘ぐられて焦ったばっかりに青羽はその想いをぶっちゃけてしまったも同然ではあったのだが、幸か不幸かこれに関しては美乃梨をして「小学生レベル」と言わしめた遥の本領発揮である。

「えっ? ボクって…水族館…好きなの? あんまり来た事無くって…」

 青羽の想いに気付くどころか、遥は良く分からないと言わんばかりの殊更キョトンとした様子で、あまつさえ自分が水族館を好きかどうかで真剣に悩み出す始末だった。

 秘めたる想いに気付かれなかった事については幸いの青羽であったのが、それはそれとしてだ。その反応から少なくとも遥は現状、特別に水族館が好きという訳でも無い事を察してしまった青羽に関しては、間違いなく不幸だったと言わざるを得ないだろう。

「あ、あれ? だって奏さん、前に教室でイルカの本読んでたから…俺…てっきり…」

 青羽が困惑頻りの様子で水族館好きだと思った根拠を上げると、遥は思い出した顔になって「あー」と気の抜けた感嘆の声を上げた。

「早見君、そんなことよく覚えてたねぇ」

 遥が「イルカの本」を読んでいた事は間違いが無かった様で、これに青羽はホッとしかけるも、それはまだ尚早というヤツである。

「う、うん…本を読むくらいだから、奏さんはイルカが好きなのかなって…」

 その本は普段活字ばかり読んでいる遥にしては珍しく、写真が多く掲載されていた物で、鮮やかな青い表紙が印象的な一冊だった。その為に青羽はその本を良く覚えていた訳だがしかし、それで遥がイルカ好きと判断したのならば、それこそ早合点というヤツである。

 そもそもその本は厳密に言うと「イルカの本」ではなく、メインは映画の題材にもなったフランスの有名なダイバーで、「イルカも出て来る本」とするのが正解だ。加えて言えば、遥の雑多な読書趣味においてその本は数多ある中の一冊に過ぎず、その上それは図書室から借りて来た学校の蔵書だった。

「なるほどー…それでかー…」

 遥は青羽が勘違いしていた理由に一頻り納得すると、少し考えを巡らせてから苦笑いを見せる。

「んー…、まぁ、イルカ、可愛いよね」

 その言葉に、それなら、と僅かに光明が見えた気がした青羽であったがしかし、それもまた尚早だった。

「でも早見君、この水族館イルカいないよ?」

 好きか嫌いか以前に、そもそもここではイルカが見られないという遥から指摘されたその事実に青羽が愕然となったのは言うまでも無い。

「なっ…!?」

 その証拠にと遥は入場口でもらっていた館内の案内冊子を見せてくれたが、確かにイルカの水槽なんて物はどこにも存在しておらず、魚類以外で見られるのはペンギンくらいの物だった。

「ま、マジかぁぁぁ…!」

 色々と勘違い甚だしかった青羽はもう、恥ずかしいやら情けないやらで、それこそカクレクマノミの如く今直ぐイソギンチャクの隙間にでも入り込みたい気分である。

「ご、ごめん…奏さん…俺…全然ダメ…だったね…」

 一気に落ち込んでしまった青羽はいっそ自虐的にもなったが、元々イルカを見たくて来た訳でも無かった遥の方は何の事やらといった感じだ。

「えぇ…? イルカが居なかったくらい別に大丈夫だよ?」 

 そうは言われても、遥が水族館に余り興味が無かったという時点で完全に空回りしていた形の青羽としては、もう唯々落ち込むばかりである。

「マジでごめん…俺、一人で色々と勘違いして…」

 いよいよもって青羽の落ち込み様が激しくなってくると、それを見兼ねたのか、遥が小さな身体と短い腕を伸ばして、チョイチョイとその頭を撫でやった。

「早見君、ボク、好きだよ…たぶん」

 遥が小さく微笑みながら告げたそれは、おそらく先程判断しかねていた「水族館が」という意味だっただろう。ただその言葉は、落ち込み様著しかった青羽をハッとさせて、その顔を上げさせるには十分過ぎるものだった。

「か、奏…さん…」

 青羽が顔を上げた所為で手が頭に届かなくなった遥は腕を引っ込めながら、真っ直ぐな眼差しと柔らかな笑顔を見せる。

「ありがとね、早見君」

 改まって告げられたその感謝に、いったいどんな意味が込められていたのか、青羽にはその全てを正確に理解する事は出来なかった。ただ、そんな中でも青羽には、一つだけハッキリと分った事が有る。

「奏さん、お、俺―!」

 そこから先の言葉は、もう喉元まで出かかっていた。

 もしかしたら、先ほどの様に別な意味に忍ばせてなら、その想いを口にしても許されるのではないかと、青羽は刹那の葛藤をする。

「うん…?」

 微笑んだまま小首を傾げさせるこのどうしようもなく愛おしい女の子を、今も繋いだままでいるその手で引き寄せ、いっそ抱き締めてしまえたら、きっとそれは幸せ以外の何物でも無い。

「俺―!」

 柔らかくにじむ水の碧、キラキラと瞬く銀の泡、悠々と泳ぐ色彩豊かな魚たち。

 分厚いアクリルガラスの向こう側に小さく切り取られた美しい熱帯の海。

 そして、目の前では、愛しくてたまらない女の子が優しく微笑みかけてくれている。

「俺は―!」

 そこから先の言葉は、もう喉元まで出かかっていた。

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