4-9.現実逃避と緊急事態
グラウンドの方から聞こえて来る威勢の良い運動部の掛け声と地を蹴る沢山の靴音。
特別教室棟の方から聞こえて来る一向にまとまらない吹奏楽部の演奏と、遂には二部編成になってしまった合唱部のハーモニー。
もう少し耳を澄ましてみれば、体育館の床を打ち付けるボールの音や、一般教室棟で行われている補習の内容なんかもかすかにだが聞こえて来る。
遥が朝一番で訪れた時のゴーストタウンさながらだった静けさが嘘のように、ひとたび始まった夏休みの学校は普段と同じかそれ以上の賑やかさだ。
無論、聞こえて来る以外にも多くの生徒や教職員が様々な目的を持ってあちらこちらに点在している筈で、その一つ一つについて想像を馳せてみるのも時と場合によってはなかなかに乙なものだろう。特にそれは、校内の喧騒とは一線を画する一種異様な沈黙に支配されていた保健室内で、全裸の自分とカーテンの向こう側で微動だにしない青羽との二人きりでいる遥が現実逃避を図るにはうってつけだった。
「後ちょっとだよー!」
時折グラウンドの方から聞こえてくるそんな女生徒の激を励みにして、遥は楓が着替えを持って戻って来るまでの時間をひたすら耐え忍ぶ。
「もっと声出していけー!」
時にはそんな運動部特有の叱咤に沈黙の気まずさを煽られて少々ギョッとしたり、吹奏楽部の誰かが休憩の余興で吹いたトルコ行進曲で変に気持ちを焦らされたりもする。
それでも遥は、楓が出て行った直後に二三言交わした後は青羽もすっかりと黙り込んでしまっていたのを良い事に、その存在を意識しない事にだけひたすら全力を傾け続けることができていた。
そうしている時点で既にこれ以上ないくらいその存在を意識してしまっているという真理はともかく、しばらくはそれでなんとか凌げていた遥だったしかし、それも束の間だ。
それは、特別教室棟の方から聞こえてくる吹奏楽部の練習が再開されて、その演奏がようやく形になってきた頃。今まで外から聞こえて来る喧騒と重苦しい沈黙だけに支配されていた保健室内で、何の予兆も無く突如として遥の身に襲い掛かって来た。
「―っ!」
勢いよく開け放たれたカーテン。そこに俯き加減の胡乱な表情で立っていた青羽。粟立つ全身。大きく見開かれた黒目がちな愛くるしい瞳。そしてその脳裏をよぎった「絶体絶命」の四文字。
「は、早見…君…!」
楓が差した釘が逆に仇となり、一人悶々としていた青羽が遂には抑えが効かなくなって突如として襲い掛かってきた。と言うのであれば、遥がそれに対処できたかどうかはともかくとして、出来事としては至って単純だったのだが、実際の状況はそれよりも少々複雑だった。
何せ、カーテンを開け放ったのは青羽などでは無く、何かに弾かれるようにして勢いよくベッドから飛び上がった遥自身だったからである。青羽はと言えば、遥に襲い掛かるどころか、楓が出て行って以来ずっとそこに突っ立っていただけで、カーテンには指一本触れてはいなかった。俯き加減の胡乱な表情だったのも、恐らくは青羽なりに気まずい空気を耐えていたからだろう。
「か、か、奏さん!? ど、ど、どうしたのっ!?」
こんな状況になっても青羽はもちろん遥を襲ったりはせず、咄嗟に後ろを向いてそのあられもない姿を見ない様にしてくれるくらいには紳士的だった。遥を傷つける者ならば賢治ですら容赦しなかった青羽なので、その対応は当然と言えば当然だろうか。
「や、ヤバいから! は、早く戻って!」
それがどういった意味合いのヤバさなのかは議論の余地があるとしても、遥はそんな事や青羽の都合などは全くもって構いなしだった。
「は、早見君…!」
遥は有ろうことか、一糸纏わぬあられもない姿のまま、青羽の意外と広いその背中に縋りつくように、背後から体操着の裾をギュッと握りしめる。
これでは青羽よりも寧ろ、遥の方が「変な気」を起こしてしまったかのようではあるが、実際にはそういう訳では断じて無い。そうこうしている間にもその内では羞恥心が順調にすくすくと成長中であったし、それを証明する様に遥は小さく震えて、その顔も既に耳たぶまで真っ赤だった。
それなのに一体全体何がどうして青羽に迫る様な行動に出てしまったのかと言えば、それは遥が最早羞恥心がどうのとは言って居られない程のひっ迫した状況に追い込まれていたからに他ならない。
「早見君…! ぼ、ボク…と、トイレ…行きたい!」
つまりはそういう事で、全裸のまま青羽の前に出る事を厭わなかった程に遥を追いこんだ物の正体は、自らの意志では如何ともしがたい人体の自然的生理現象であった。一つ捕捉があるとするならば、遥が小さく震えて顔を赤くしていたのは、羞恥心からというよりも、生理現象に必死で抗っていた事の方が主な原因だった事くらいだろうか。
「と、トイレ!?」
恥も外聞も無かったその訴えに、青羽が思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのも無理は無い。如何に見た目が幼女然としているからといえども、青羽からすれば遥は同じクラスの同級生で、しかも密かに好意を寄せている「異性」なのだ。そんな相手に突然「トイレ」等とその見た目通りの小さな子供みたいな要求をされては、素っ頓狂な声くらいは上げて然るべきである。
「そ、そんな事…俺に言われても…!」
勿論、遥だって何も好き好んでこんな事を青羽に打ち明けたくは無かったし、出来る事ならば自力でどうにかして対処したかったが、そう出来なかったからこその現状だった。何せ遥は今も絶賛素っ裸で、トイレに行きたいのであれば行けばいいというそんな単純な話では無いのだ。
「と、トイレなら…出てすぐにあったと思う…けど…」
確かに一番近いトイレは、保健室を出た廊下の向かい側で、行こうと思えば一瞬で辿り着ける距離にはある。青羽よりも長くこの学校の生徒をやっている遥がそれを知らない訳は無かったがしかし、素っ裸の状態でそこへ向かうなんて事はどだい不可能だ。
例え一瞬とはいえ、万が一にでもそこを、誰かに目撃されでもしたなら、それは恥ずかしいどころの騒ぎでは無い。故に、これはもう俄かに芽生えた女の子としての羞恥心以前の、もっと根源的な、ある意味では人としての尊厳に関わって来る問題と言っても過言では無かった。
「み、水瀬さんが戻って来るまで、我慢は―」
青羽も遥の直面している問題が何なのかを理解して、そんな最も無難な解決策を口にしかけたが、これは断然論外である。それが出来るのであれば、遥はそもそも恥を忍んで青羽に助けを求めたりはしていない。
「無理ぃ!」
保健室はその性質上、グラウンドに面した一般教室棟の隅に設けられており、特別教室棟の更に向こう側にあるプールの更衣室とは極端の位置関係にある。遥には楓が出て行ってからの正確な時間経過は定かでなかったが、決して短くは無い道のりに在っていつ戻って来るとも知れないその帰りを待つなんて選択肢は余りにもリスキーが過ぎるという物だ。
「ミナが戻ってくる前に漏れちゃうよぉ…!」
遥は内またになって身じろぎしながら、その小さな手で握っていた青羽の体操着をグイグイと引っ張り、もはや予断のならない状況である事を必死に訴えかける。
「で、でも…、奏さんが着られそうな物なんてココには無いよ!?」
実際の所、冷静になってよくよく保健室の中を探してみれば、デスクの引き出しに入っている美鈴恵美の白衣や、そもそも遥が元々着ていた水着が二人の位置からは死角に当たる窓際に干してあったりもした。ただ、危機的状況あってかなり焦っていた遥と、全裸の遥に縋りつかれて少なからず気が動転していた青羽がそれを見つけられたはずも無い。
「ご、ごめん奏さん、俺にはどうすることも…」
青羽は完全にお手上げといった感じで、遥はもはや万事休すかと思われたがその刹那、その脳裏にまるで天啓が舞い降りたかの如く、この状況を打開できる物が保健室内に存在している事に気が付いた。
「あっ…! あるっ!」
それが先に述べた美鈴恵美の白衣や自分が着ていた水着の事であったならば、その後の展開は大分スマートだったのだが、残念ながら遥が見出したのはそのどちらでも無い。それでも遥は最早それしかない事に一切の疑いを持たず、それ以外の道を模索している余裕も在りはしなかった。
「早見君! あるよ! 着られる物!」
遥は確信を持ってその存在を知らしめるも、依然として何も見つけられていなかった青羽は当然ながらこれに困惑だ。
「えっ? ど、どこ? 俺の見た限りじゃそんな物…」
頻りに視線を泳がせ保健室内を改めて見渡してみた青羽は一向にそれを見つけられない様だったが、それもその筈である。遥が存在している事に気付いたそれは、青羽がどれだけくまなく保健室の中を探し回ったとしても、決して見つけられない所にあるのだ。
「ココにあるよ!」
見えていなくとも間違いなくそこに在ったそれを遥がグイグイと引っ張ってみせると、流石の青羽もそれがどこにある何なのかに気付いた様で、その双眸が驚嘆に見開かれる。
「あっ! 俺の…体操服!」
そう、遥が見つけたそれは、先程からずっとしきりに裾を引っ張っていた青羽自身が着ている体操着の事に他ならなかった。灯台下暗しとは正にこの事で、青羽がいくら保健室の中を見渡しても見つけられなかった訳である。
「あっ…でも、これ、汗臭いだろうし、結構汚れてて…」
物が何であるのか分かった所で青羽はそんな悠長な躊躇をみせるも、いよいよもって一刻の猶予も無くなってきていた遥からすればそんな事は些末な問題だった。
「良いからはやく脱いで!」
遥は握っていた裾を今度は上に引っ張って、青羽から強引に体操服を剥ぎ取ろうとする。保健室のベッドを前にして、全裸の女子が男子の服を無理やり脱がそうとしているその図は色々と問題ありだが、何分緊急事態なので遥は元より青羽もそんな事を気にしていられる状態には無かった。
「わ、分かった! すぐ脱ぐから!」
青羽は遥が途中まで引っ張り上げていた裾を自らも掴んで、今度は躊躇なく体操着の上を脱ぎ去ると、それに続けて下に穿いていた短パンにも手を掛ける。
「下は要らない!」
それは別に青羽をパンツ一丁にしてしまうのを申し訳なく思ったからというわけではなく、一分一秒でも時間の惜しかった遥が、小柄な自分ならば上だけあれば既に必要十分だと判断したからだ。
「貸して!」
実際に、青羽の手からもぎ取り、遥が手早く身にまとって見せた体操着の上は、ミニのワンピースくらいの着丈はあっていちおう隠すべきところはちゃんと隠れていた。
「ありがと!」
無事に裸では無くなった遥は言うが早いか、短パンを膝辺りまで下ろしかけていた青羽を残して、かつてない程のスタートダッシュで駆け出してゆく。
「か、奏さん!? 下も穿いた方が!」
青羽のその忠告も遥には最早届いてはおらず、ひるがえる体操着の裾から白くてほっそりとした太ももを盛大にチラつかせながら、猛然とした勢いで保健室を出て行ってしまった。
「あ、アレはアレで…何か…マズい…ような…」
保健室に取り残された青羽が明らかに赤い顔でかなり気まずそうにポツリとそんな雑感を漏らしたのは、健全な男子高校生ならば仕方が無い事だろう。
なにしろ、体操着の上だけを身に着けた遥の恰好は、確かに見えてはいないが今にも見えてしまいそうなくらいにはギリギリで、中々どうして結構な際どさだったのだ。特に青羽の場合はそれが自分の体操着である事と、遥に対する欲目もあって、大して目を見張るべき所もない貧相な全裸よりは寧ろグッとくるものがあったのかもしれない。
そんな塩梅だった青羽なので、脱ぎかけていた短パンを穿き直す際に、思わずふっくらとなっていた自身の出っ張りに些か難儀した事もまた、健全な男子高校生ならば仕方の無い事であった。




