表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
125/219

4-7.過信と慢心

 午前九時丁度。

 遥は結局、小森茜の何気ない一言によって浮上した終了後の着替え問題に対して何の方策を見いだせないまま、補習の開始を迎えていた。

 問題発覚から今に至るまではおよそ一時間足らずの猶予が在ったのだが、その間に遥がこれといった妙案を思いつく事は遂になかったのだ。

 尤も、問題発覚の直後に他の女の子達が続々とやってきてしまった為、遥が何も思いつかなかったのは仕方がない事なのである。何せ遥は、大慌てで着替えを済ませてプールサイドへ飛び出してゆく際にうっかり転びそうになって再び小森茜のお山に突っ込んだり、その後はその後で、順次更衣室から出て来る水着姿の女の子達にひたすらドギマギしたりと、それはもう色々一杯一杯で、腰を据えて解決策を模索していられる様な状態には無かったので仕方が無いのだ。

「よーし、集まってるなー、それじゃぁ体育の補習を始めるぞー」

 遥を含むプールサイドに集まっていた多数の女生徒達と、それに少し距離を置いて若干名居た男子生徒に向かって、実際に補習の開始を宣言したのは、午前九時のチャイムとほぼ同時に男子更衣室の方から姿を現した体育の菅沼教諭である。

 菅沼教諭は女子の体育がその受け持ちだが、今回の補習は男女の区別なく一手に引き受けるらしい。因みに言うと、体育の補習に限っては学年の区別も無い為、この場に集まっている生徒は遥達一年生だけでは無く、二年生や三年生も居る。

「やることは簡単だー、体育の欠席一回に付き男子は五百メートル、女子は四百メートル泳ぐだけでいい」

 菅沼教諭が補習の内容を明らかにすると、集まった生徒達からは一斉に「えー」という不平の声が上がった。ノルマの多い男子が不満を漏らすのは当然の事として、女子までもが一緒になっているのはもちろん男女同権を訴えての事では無い。女の子達の場合はノルマの程度に依らず、ただ単に内容その物が気に入らないだけの事だろう。

「えぇぇ…」

 遥も他の女の子達に混ざってちゃっかり不平の声を上げていたが、その心情に関しては男子側とも女子側とも言い難い。ただしそれは、元男の子であり現女の子であるという特殊な身の上だからと言う訳では無く、もっと実際的な事情からだ。

「体育は週に二回だから…全部で…えっと…うぇぇ…」

 自分が泳がなければならない必要距離をざっと計算してみた遥は、その中々だった数字に軽く眩暈を覚えて、早くもぐったりとしてしまう。

 七月の体育を丸々欠席していた扱いになる遥は、下手をしなくともこの場に集まっている他の誰よりも多く泳がなければならなかった。

「奏さんは大変そうだねぇ…」

 プールサイドに出てからも相変わらず隣に居た小森茜も遥の事情を察した様で、これには同情を禁じ得ないと言った様子である。

「うん…ちなみに小森さんの方は…?」

 若干の涙目になりながら小森茜に頷きを返した遥が続けて訪ねてみたその質問は、ちょっとした好奇心からでしかなかったのだが、これは些かの地雷だった。

「あたしは生理で二回休んだだけだからそんなにだよー」

 聞いてもいないのにその欠席理由まで教えてくれた小森茜の明け透けな解答に、遥が思わずギョッとしてしまったのは言うまでも無いだろう。

「そ、そう…なんだぁ…」

 元男の子で現在ちんまりした幼女である初心な遥にとって、性の核心とも言うべきその話題は大変に気まずいと言わざるを得ない。聞かなければ良かったと後悔すること頻りの遥だが、小森茜の方はそんな事など全くお構いなしだ。

「男子は分かんないけど、女子は大体似たような感じだと思うよー」

 小森茜はこれまた聞いてもいないのに他の女子達にまで言及して、あまつさえ遥にとって気まずさしかないその話題をより一層ディープな所まで広げようとする。

「中には生理中でもタン―」

 何やら不穏な単語を言いかけた小森茜であったが、幸いにもそれは菅沼教諭の一段階張り上げられたよく通る声によって遮れ、最後まで口にされる事は無かった。

「おーい、まだ説明は終わってないぞ! 今から大事な事を言うからなー!」

 菅沼教諭がそう告げた瞬間、流石の小森茜も口をつぐんで、不平を切っ掛けにざわついていた他の生徒達も一斉にシンと静まり返る。

「よしっ、あー、今日中に泳ぎ切れなかった者は明日以降も来てもらうが―」

 これに生徒達からはまたしても「えー」という不平の声が上がったがしかし、それも次の瞬間までだ。

「泳ぎ切れたものは、時間内でもその時点で帰って構わない!」

 その言葉を耳にした途端、生徒達から上がっていた不平の声は、喜びと賞賛の声へと一変した。

「スガやんナイスー!」

「四百なんて十分もあれば余裕っしょー!」

「菅沼先生だいすきー!」

「うぉー! さっさと終わらせて家でゲーム三昧だー!」

 結局の所はノルマ分泳がなければならない訳だが、それさえ達成すれば早や抜け出来るというだけで、生徒達のやる気を鼓舞するには必要十分だった様である。貴重な夏休みを一分一秒でも多く満喫したいという高校生の心理を上手く付いた菅沼教諭の作戦勝ちといった所だろうか。

「わーい! パッパと泳いでっ夏休み~♪」

 小森茜もまんまと乗せられた口の様で、調子外れな即興ソングを口ずさむほどの浮かれぶりだったが、実はそのすぐ横にもこれと大差ないくらいに歓喜している者がいた。そう、誰を隠そう遥である。

「やったっ…終われば帰れるって事は…!」

 歌こそ口ずさんではいないが、俄かに表情明るくなって瞳すら輝かせていた遥は、それまでが少なからず鬱々としていただけに、ぱっと見では小森茜よりも分かりやすかったかもしれない。ただ、そんな遥がそれ程までにあからさまな歓喜をしているその理由に付いては、小森茜を始めとした他の生徒達とはかなり一線を画していた。

「およ? 奏さんって泳ぎ得意なんだー」

 小森茜は遥の喜びようからそんな風に思ったのだろうが、勿論これは全くの勘違いである。そもそも、今の身体になってからというもの、まともにこなせた運動がラジオ体操くらいしかない遥の泳ぎが達者である道理はない。

「ぜんぜんっ!」

 遥が全く誇れる要素の無い事を表情明るく胸さえ張って言い放つと、流石の小森茜も意味が分からないと言った感じで些かの困惑である。

「えぇぇ? それじゃぁ早く帰れないよね? 奏さんいっぱい泳がなきゃだし」

 これに付いては正しくその通りだが、ここにこそ遥の歓喜している理由があった。

「うん! だからきっとボクが終わるころには皆帰ってるよね!」

 ここまで言えば、小森茜も遥が喜んでいる理由に察しがついたようで、「あー」と気の抜けた感嘆の声を上げる。

「そっかー、それじゃぁ終わった後の着替えも安心だねー」

 そう、つまりはそういう事で、言ってみれば遥が喜んでいた理由は、他の生徒達とは完全なる真逆だった。

「体育の授業ずっと見学しててよかった!」

 ちゃんと体育の授業に出ていれば補習に参加する事も無かったので、その喜び方は激しくズレているが、ともかく遥としてはこれでもう何の憂いも無い。当初は思わずぐったりとしてまった誰よりも多い補習ノルマも、それが着替え問題を解決してくれる一助となるのであれば、遥はむしろ大歓迎だった。

 こうなって来ると先程は唯々気まずいばかりだった小森茜との雑談内容も途端に明るい材料に変わって来る。小森茜の話を信じるのならば、大半の女子は精々が二日分程度のノルマしかない筈なので、おそらく三十分もあれば皆帰ってゆく筈だ。

「よーし、それじゃあ名前を呼んだ者から順に、一番のレーンから入って行けー、準備運動を忘れるなよー」

 歓声冷めやらぬ中、菅沼教諭が二三度手を叩きながら補習を進行してゆくと、生徒達はそれまでの騒ぎを静めて、言われた通りに各々適当な準備運動をしながら、名前を呼ばれるのを待つ。

「まずは、青井、宇野、江川、小田、加藤、奏」

 高校のプールは六レーンに区切られてている為、菅沼教諭はまず六人の名前を読み上げ、そしてその中には遥の名前もあった。

「奏さんさっそく呼ばれたねー、いいなー」

 小森茜は第一陣に選ばれた遥を少しばかり羨ましそうにするが、菅沼教諭が読み上げている名前は五十音順の様なので、おそらく彼女が呼ばれるのももう間もなくの事だろう。

「むぅ…いきなりかぁ…」

 小森茜を始めとした早く帰りたい他の生徒達とは違って、少しでも時間を掛けたい遥としては、早々の順番は嬉しくも何ともない。とは言え、呼ばれたからには行かねばならず、遥は若干渋々ながらも生徒達の輪を抜け出して、自分に割り当てられたレーンにノロノロと向ってゆく。

 そうこうしている間にも、他の第一陣で名前を呼ばれた五人はそれぞれのレーンに到着して、後は遥を待つばかりといった状態になっていた。

「ひぇっ…」

 第一陣の五人のみならず、待機している生徒達からも「早くしろよ」という無言のプレッシャーを感じた遥は思わず小さく悲鳴を上げてしまう。

「ご、ごめんなさぁい…」

 遥は小声で謝罪を述べながら、早く帰りたい勢の圧力に押し出される様に一旦はその歩調を早めたが、その途端、菅沼教諭に呼び止められ、その歩みを妨げられてしまった。

「奏、ちょっと待て」

 早く帰りたい勢の圧はその間もどんどん増しているものの、菅沼教諭に待てと言われれば、遥はその通りに待つしかない。

「あっ…はい?」

 遥が立ち止まって振り返ると、菅沼教諭は直ぐ傍まで歩み寄って来て、何やら心配そうな面持ちを覗かせる。

「奏、お前、泳ぎは大丈夫なのか?」

 教師陣には事情が周知されている為、菅沼教諭がそんな心配をしたのも無理のない話だったが、その質問が些かの心外であった遥はこれには少しばかり口を尖らせた。

「普通に泳ぐくらいなら大丈夫ですよぅ」

 それは別に虚勢や過信といった類の物では無く、遥がそう言い切ったのにはちゃんとした根拠が在る。それと言うのも、遥は今の身体になって割と間もない頃に、病院でのリハビリメニューとして、ほぼ毎日の様に泳いでいた事があるからだ。運動能力が壊滅的な遥なので、得意不得意で言えば断然不得意である為、小森茜には「ぜんぜんっ」と答えてはいたが、少なくともただ泳ぐというだけならば何ら問題はない。

「そうか…うぅむ…しかしなぁ…」

 本人からの解答を聞いても尚、菅沼教諭は心配そうにして、しまいには目の前の遥とプールサイドに設置されるビート板のラックを見比べだした。

「アレ、使った方が良いんじゃないか?」

 例えそれが親切心からなのだとしても、遥としては泳げると主張している所に補助器具を勧められては殊更の心外だ。

「必要ないですから! みんな待ってるんでもう行きますね!」

 頬を膨らませて菅沼教諭からプイっとそっぽ向いた遥は、そのまま勝手に話を切り上げてそそくさとプールの方へと進んでゆく。

「あっ、おい! 奏、気を付けろよー!」

 その小さな背中にむかって投げ掛けられた菅沼教諭のそんな忠告に、遥は「大袈裟な」と溜息すら付く始末だったが、これは間違いなく「過信」、いや「慢心」だった。

 年長者の言う事は、例えそれがどれだけ腑に落ちない物であっても、そこに一分の理があるのならば、少なからず胸に留めておくべきだったのだ。

「もぅ…」

 引き続き頬を膨らませながらプールの縁に辿り着いた遥は、そのまま無警戒に足から飛び込んだ次の瞬間にそれを思い知る事となった。

「あっ…」

 と思った時には時すでに遅い。パシャっという軽い着水音と共に、飛沫を上げて一旦水面下に沈み込んだ所まではまだよかった。あとは床を蹴って再び水面に浮上すればいいだけで、遥は今の身体になってからもそれと同じ事を何度となくやったことが在る。がしかし、遥は直ぐに気が付いた。本来そこに在る筈の、蹴るべき床がどこにも無い事を。

「…っ!?」

 もちろん床が勝手になくなったりする訳は無く、それはこのプールが建設された当時から変わらずずっとそこに在り続けている。変わった物があるとすれば、それはそう、遥の方に他ならない。一四〇センチに満たないちんまりとした幼女である今の遥には、飛び込みスタートも想定して作られている高校のプールは些か深すぎたのだ。

「ーっ!?」

 普段は難なく泳げても、足が付かない場所になると途端に泳げなくなる者は意外と多い。それでも慌てず騒がず、自然の浮力に身を任せるか、背後にある壁を蹴っていれば、まだ何とかなっただろう。ただ、想定外の事態にはめっぽう弱い遥がこの状況下に冷静で居られたはずは当然無かった。

「ンーっ!?」

 遥は慌てた所為で変にもがいてしまい、浮くも沈むもままならず、それに一層焦って肺の中に在った僅かな酸素を全て吐き出してしまう。

「ーッ!」

 酸素を失った所為で、急激に強まってゆく息苦しさと、それに比例して薄まってゆく意識レベル。

 ビート板、使えばよかったかも。遥はそんな後悔の念と、突如目の前に立ち上った盛大な水泡を最後の記憶に、そのまま水中であっけなく気を失った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ