4-5.作戦の行く末
午前七時三十分過ぎ、智輝に別れを告げて公園を後にした遥が再び学校へ舞い戻ると、丁度正門が解放されようとしている所だった。
「よかった…!」
公園では思いがけず色々とあったものの、タイミング的には申し分のない時間に学校へ戻って来れた事に遥は一先ずホッと胸を撫で下ろす。
「むっ、奏じゃないか、夏休みなのに早いな?」
開門と同時にやって来た遥に少し驚いた様子でそんな挨拶を送って来たのは、正門を解放し終えたばかりの厳つい顔をした中年の男性教師、クラス担任の中邑教諭だった。
「あっ、中邑先生、おはようございます」
遥は挨拶を返しながらパタパタと中邑教諭の元へと駆け寄ってゆくと、その厳つい顔を上目で見やりながら、少しばかり不安げな面持ちになって小首を傾げさせる。
「先生、ボクの先に誰か来てますか…?」
見た所、周囲に他の生徒の姿は見られなかったが、それでも万が一という事があった。もし他にも気の早い生徒が居て、あまつさえそれが体育の補習に参加する女生徒だったりした日には、その時点で遥の作戦はご破算だ。
「先生方はもう何人か来られているが、生徒だとお前が最初だな」
中邑教諭の返答に差し当たっての不安が解消された遥は、再びホッと胸を撫で下ろしてその表情をパッと明るくする。
「よかったぁ…」
これで後は、当初の予定通りに他の補習参加者が来くる前に着替えを済ませてさえしまえば世は事も無しだ。ただし、ここから先はスピードが命と言っても過言では無く、それに当たって遥には幾つかの考慮しなければならない懸念材料が在った。
「あの…、先生、ちょっとお願いが…あるんですけど…」
まず懸念材料の一つを解消すべく、遥が気恥ずかしそうな上目遣いでモジモジとしながら話しを切り出したのは、別にその愛くるしさに物を言わせようと思った訳では無い。
遥はそんな事を意図的にやれる程計算高くは無いし、例え意識してそれをやれたとしても、相手が中邑教諭ではどの道あまり意味は無いだろう。上目遣いなのは単に背が低くい為に相手を正視すると必然的にそうならざるを得なかっただけの事で、モジモジしてしまったのはそれがちょっと言い出し難い事だったかったからだ。
「なんだ? 補習の件ならどうにもならんぞ」
案の定、中邑教諭は、賢治や青羽あたりならば内容を聞く前に二つ返事で首を縦に振っていたかもしれない遥の無自覚コンボにも怯まず、至って平然とした物だった。
寧ろ少々うんざりした面持ちすら見せている辺り、中邑教諭はこんな風に「お願い」をしてくる女子生徒を今までにも嫌と言う程相手にしてきたのだろう。
「あっ…えっと…補習は、もちろんちゃんと受けますけど…その…」
中邑教諭の釘を刺すような返答に遥は少々ギクリとなりながらも、今更それ自体をどうこうしようとは思っていなかったので、頼みたかったのはそういう事では無い。
「えっと…じょ、女子更衣室の鍵、開けてください!」
遥の「お願い」は何の事は無くただそれだけの事で、これには一番乗りで学校に来れたアドバンテージを少しでも失いたくないと言うそんな思いからだった。意気揚々とプールまで行ったはいいが更衣室がまだ開いていなかったなんて事が在れば、それだけで大変な時間的ロスである。
では、これの何が言い難かったのかと言えばそれは簡単で、元男の子で初心な遥としては、着替え云々以前に女子更衣室という場所に立ち入る事それ自体に妙な後ろめたさが在ったのだ。
考えても見て欲しい。中に誰かいようが居まいが、自ら率先して女子更衣室に入りたがる男が居たら、それはもう普通に変態の類である。
もちろん今の遥は女の子なので、女子更衣室を利用する事を憚る必要は無いし、逆に利用せざるを得ない訳だが、やはりどうしたって抵抗を覚えずには居られなかった。
実を言えばこれは女子トイレなんかにも言える事で、遥は女の子が板について来た今でも、そういった場所を利用する際には未だに結構な葛藤をしていたりもする。
それもあって今回の補習は遥にとってかなりの高難易度と化してしまっている訳だが、今はともかく着替え問題を回避する事こそがなによりの優先事項だった。
「べ、別にやましい事とかはなくて…! は、早くきちゃったから、さ、先に着替えておこうかなって…!」
逸る気持ちと後ろめたさが相まって、遥は一人で変にあたふたとしてしまい、赤くなったり青くなったりと、傍から見れば中々に挙動不審である。ただ幸いにも中邑教諭はそれを不審がったりする事は無く、それどころか普段はあまり見せない様な妙に優し気な面持ちになっていた。
「プールの更衣室なら菅沼先生が開けに行ったからもう入れると思うぞ…」
普段は厳めしい中邑教諭がやけに優しい理由は良く分からないとしても、女子更衣室がもう開いているとなれば、遥にはこれ以上ここで油を売っている理由はない。
「あ、ありがとうございます!」
遥は中邑教諭にペコリと頭を下げると、何となくの気まずさからそのまま若干顔を俯かせて、目的の女子更衣室へと向かうべく足早に歩き出す。
「頑張れよ…」
本人が思っている程には早く遠ざかってはいかないその小さな背中を眺めながら、中邑教諭がそんな事をポツリと呟いていた事は、遥の与り知らぬ所ではあった。
遥達の通う学校のプールは、一般教室棟と特別教室棟からなる二棟の校舎よりも更に奥、正門側から見ると敷地の裏手側に在る。経路的には昇降口を経由して手前側が体育館に繋がっている連絡通路を奥に進んで校舎の中を抜けて行くのが通常にして最短だ。
校舎をぐるりと迂回すれば直接アクセスできなくもないが、言うまでも無くそれは遠回りで、時間の惜しい遥が使用したのは当然ながら通常ルートの方だった。
「ついた…」
連絡通路を突き進んで程なくその突き当りにまで辿り着いた遥は、正面と左右にそれぞれ一つずつある三枚の扉を順番に見やって、思わずゴクリとつばを飲み込でしまう。
その三枚は、正面がプールへ直接出られる扉、左手が男子更衣室の扉、そして右手が遥の目的としている女子更衣室の扉となっていた。
「うぅ…」
出来る事ならばここ最近使い慣れている正面の扉か、かつて使っていた事のある左手側の扉に入りたい遥はあるが、勿論そんな訳には行く筈も無い。
「はやく…しないとだよね…」
今回の作戦はスピードが命である事を改めて自身に言い聞かせた遥は、意を決して右手側に向き直ってそのドアノブへと手を掛ける。情けない事に手が震えてしまっていたが、ここで下手に時間を食っていて、その間に誰か来てしまっては其れこそ元も子もない。
「ボクは女の子、ボクは女の子、ボクは女の子…!」
遥は自分に言い聞かせる様にそんな事を繰り返し呟きながら、中邑教諭が言っていた通り既に開錠済みだった女子更衣室の扉を開け放つ。
「えいっ…!」
扉を開いた瞬間、女子更衣室の内側に密閉されていた空気が流れ出し、それと同時に今まであまり嗅いだ事のない様な一種独特な匂いが一気に押し寄せてきた。
「うっ…! けほっ! けほっ!」
遥が思わずむせ返ってしまったその匂いの正体は、おそらく女子高生達が使っている制汗剤やコロン、はたまた化粧品なんかの残り香がごちゃ混ぜになった物だろう。
「だ、男子更衣室よりキツイ…かも…」
男子の場合は単に汗臭いというだけの事だったが、女子更衣室のそれは人口的な香り成分が良くない具合に混ざり合っていて、これはこれで筆舌尽くしがたい物が在った。ただ、今後も女子更衣室を度々使う事を考えれば、これはもう慣れるしかなく、何よりこの期に及んでは、こんな事でいちいち怯んでもたついていている場合では無かった。
「が…がまん…しなきゃ…」
遥はとにかく作戦を無事に成し遂げたい一心で、女子高生臭とでも言うべき独特の匂いを堪えながら何とかかんとか更衣室の内に踏み込んでゆく。匂いはともかくとして、室内の構造自体は男子更衣室のそれと大差はなく、その点に関しては遥も特に戸惑う事は無い。入って直ぐはロッカーの背が目隠し状に配置されていて、着替えを行う場所はその向こう側だ。
「よ、よしっ…」
女子高生臭に若干クラクラとなりながらも、女子更衣室の内の内とでもいうべき所まで辿り付いた遥は、是非も無く一番手前側にあったロッカーを選んで早速着替えを開始する。
リュックを下ろして中から水着と水泳帽を引っ張り出し、一旦それらをロッカーの網棚に預けたら、次にすべきは当然ながら今着ている制服を脱ぎ去ってゆく事だ。
「ん…しょっ…」
遥はまず手始めにワイシャツの上に着ていたベストを頭から脱いで、それを無造作にロッカーの中へと放り込む。
因みにこのベストは夏服の無防備感を幾分か和らげてくれると共に、スカートを短くする際には腰回りを隠す役割も果たしてくれる為、今の遥には必要不可欠なアイテムだ。その割に随分と扱いがぞんざいだが、今回ばかりは脱いだものをいちいちキレイにたたんでいる余裕は無いので、これは致仕方が無い。
「ふぅ…」
ベストを脱ぎ終わった遥は、続いてファスナーを下ろしたスカートをそのまま足元へストンと落下させ、それを拾い上げもせずに今度はワイシャツへと移行する。
小さな手でシャツのボタンをプチプチと一つずつ外していく遥の様子は少々じれったくはあったが、それでもここまでは取りあえず比較的順調だった。
「なんか…すごくイケない事してる気がする…」
遥がそんな事をポツリと漏らして、一瞬着替えの手を止めてしまった事も、その心情はともかくとして、作戦に際してはそれほど致命的でも無かっただろう。実際、遥は直ぐに気を引き締め直して着替えを再開させた為、時間的なロスは殆ど有ってない様な物だった。
がしかし、世の中とは何時だってままならない物である。
それは、制服をあらかた脱ぎ終えて下着姿になった遥が、水色のチェック柄と黄色いリボンのワンポイントが可愛らしいショーツに手をかけたその時の事だった。
「ふんふんふふ~ん♪」
やけに調子はずれの鼻歌と共に、ガチャリと開かれた女子更衣室の扉。そして、何の躊躇も無く内側に踏み入って来た足音が一つ。鼻歌のトーンは明らかに女の子の物で、であればこれはもう補習に参加する為にやって来た他の女生徒である事は間違いが無い。
「ど、ど、ど…どうしようっ!?」
どうもこうも無くとっとと着替えを済ませてさっさと更衣室を出てしまえばよかったのだが、咄嗟の事に弱い遥はもうそんな事も判断できない程のパニック状態である。
そうこうしている間にも足音と鼻歌は確実に近づいて来て、やがて程なくロッカーの端から一人の女生徒がひょっこりと顔を出した。
「おっ、奏さんだー、おはよー」
遥が一番手前側のロッカーを使っていた所為もあってか、すぐさまその姿を見つけた女生徒は、妙にお気楽な感じでにこやかに挨拶を送って来る。名を呼んで挨拶して来たくらいなので当然向こうはこちらを知っている訳だが、遥の方もその女生徒の事を知っていた。学内には知り合いと呼べる程度の相手すらも余り多くは無い遥でも、流石にクラスメイトの顔と名前くらいは把握していたのだ。
「あっ…うっ…こ、小森さん…お、おはよぉ…」
フルネームを小森茜と言うその女生徒は、クラス内でそれ程目立つタイプと言う訳でも無いが、以前に晃人からの伝言を届けてくれた事があった為、遥の中では割と印象的な人物ではあった。勿論、だからと言ってこの状況下においては到底歓迎できるような相手では無く、逆に遥としてはクラスメイトであるだけに余計気まずいまである。
「奏さんも補習受けるんだー? あー、ずっと体育は見学してたからそれもそっかー」
小森茜が何やら不思議そうにしたかと思うと、勝手に自己完結してしまった事は説明の手間が省けたという物でこれはこの際別に良い。だが小森茜が次に取った行動は、そんな事は到底言って居られない様な、遥の予想をはるかに超えた些かとんでもない物だった。
「ふふんふんふ~ん♪」
小森茜は再び調子はずれの鼻歌を始めたかと思うと、それと同時にまるでそうするのがさも当たり前の様に、遥の直ぐ真横で着替えをおっぱじめてしまったのである。
「ふぇっ…!?」
衣擦れの音がハッキリと聞こる程の距離で何の躊躇も無く制服を脱ぎだしてしまった小森茜に、遥が未だかつてないくらいにギョッとなった事は言うまでも無い。
この時点での時刻は午前七時四十五分過ぎ。九時から始まる補習までには、準備時間を考慮に入れたとしてもまだ幾らも猶予は有った。
現に、遥と小森茜以外は未だ誰一人として女子更衣室にやって来ていない事からも、それだけは確実に間違いのない事だ。ただ、遥にとってはもうそんな事はどうでもよく、小森茜一人居るだけで、今の状況は十分に絶望的だった。
「な、なんでぇ…」
遥の記憶だと、普段の小森茜はHRギリギリに登校して来る事が殆で、決して朝の早い生徒では無かった筈である。それが何故今日に限って早くやって来たのかは、本人に直接聞いてみる意外に知る術は無いがただ、確かめてみるまでも無くハッキリとしてる事が一つだけあった。
それはそう、無駄に早起きしたあげく小学生に間違えられたりした甲斐も無く、小森茜の登場によって、遥の作戦が敢え無く失敗に終わってしまったという事実である。
「あぅぅ…」
遥はもう、着々と肌色面積を増やしてゆく小森茜の方を見ない様に努めるのが精一杯で、最早自分の着替えを済ませる事もままならずに、只ひたすら真っ赤な顔を俯かせるばかりであった。




