4-1.ごく普通の朝
カーテンの隙間から差し込む眩しい光、かすかに聞こえて来る鳥のさえずりと盛大に鳴り響くセミの声。ごく普通で、何の変哲も無い夏の朝。
「んー…」
ベッドの上で身体を起こして大きな伸び一つ。枕元に置かれていた目覚ましに目をやれば、時刻はアラームが鳴る少し前、時計の針はいつも通りの起床時間を示している。
「ふぁ…」
小さな欠伸と共にベッドから立ち上がったその足取りはまだ少し覚束ず、頭もどこかぼんやりとしてはいるものの、これからすべき事はいつも一緒でその動きに淀みは無い。
まずは目覚ましが鳴り出さない内にアラームを解除して、パジャマを脱ぎ捨て高校の制服へと着替えたら、次にはドレッサーの前で今日付けてゆくヘアピンを吟味する。
「あっ、今日はこれかなぁ」
ジュエリーボックスを一瞥してから手にしたのは、パッと目に付いた飾りの無いシンプルなオレンジのヘアピン。採用理由は何となく色が夏っぽいというただそれだけの事。朝の時間は貴重なのだから、特別な理由でも無ければ余り深く考えたりはしないのだ。
「よしっ」
無事にヘアピンを選び終えたらそれを制服の胸ポケットに挿し込み、壁のフックに掛けてあったリュックを手にして一階のリビングへと降りてゆく。
「おはよぉ」
リビングには既に両親の姿が在り、テーブルの上にはこんがりと焼けたバタートーストとコップに注がれたオレンジジュース、それにプレーンヨーグルトのカップが各三人分。記憶している限り昔からずっと変わっていない何時も通りの朝食メニュー。
「いただきまーす」
自分の席に付いて朝食を食べ始めれば、それまで新聞に目を落としていた父親が顔を上げて、言葉少なに「最近どうだ」何て言う漠然とした問を投げ掛けて来たりする。質問の意図は何となく分からなくは無いものの、かといっていちいち事細かに近状報告していられないのが思春期の女子高生という生き物だ。だから大抵は「ふつー」とか「まぁまぁ」みたいな曖昧な返答をするのが毎朝のお決まりで、そんなやり取りをしながら朝食を食べ終えたら父との会話を切り上げて席を立つ。
「ごちそうさまー」
キッチンで洗い物に勤しんでいる母親の元へ食べ終えた食器を下げたら、リビングを一旦抜けてトイレ経由で洗面所へ。そこで顔を洗い、歯を磨き、ちょっと癖のあるふわふわとした髪を整えて、仕上げに制服の胸ポケットに挿してあったヘアピンをセットしたらこれで今朝の支度は完了だ。そうこうしている間に時間は丁度頃合いで、一旦リビングに戻ってリュックを回収しがてら両親に挨拶を送ったら玄関へと向かう。
「いってきまーす」
すっかり足に馴染んだ少し大きめの靴を履き、玄関から一歩外へ踏み出せば、夏の日差しは既に高く、仰ぐ空は抜ける様な青と積み重なった眩い白。
「良い天気…」
若干恨み言混じりにそんな事を呟きながら、一層盛大に鳴り響くセミの声をBGMに、学校へと向かうべく歩き出す。
奏遥、十六歳。女子高生として高校に復学してから四ヶ月足らず。毎日のように繰り返している何でもないごく普通の朝。元々は男の子だった事や、今の身体が十歳前後の大変愛らしい幼女である事を除けば、朝はどこにでも居る普通の女子高生とそう変わりは無い。
「ハル、おはよう!」
自宅の門前で顔を合わせた幼馴染の大学生からにこやかに送られて来きた朝の挨拶。これはまだ、世の中探せば幾らでも見つけられるかもしれない比較的「普通」の事柄としても良いだろう。特に幼馴染の住んでいる家が直ぐ隣ともなれば、出かけるタイミングが一緒で毎朝の様に顔を合わせるなんて事も、きっとそれほど不自然では無い筈だ。がしかし、その幼馴染が自宅の門前に横付けした車の傍らに立ち、助手席のドアを開け放って明らかに自分を待ち構えていたとなればどうだろうか。その上、これが今日に限った話ではなく、ここ一週間、毎朝の様に続いているとするのならば。
「おはよ…えっと…今日も?」
遥が挨拶を返しながら少しばかり困った顔をして問い掛けると、それに対する幼馴染の大学生、要するに賢治の対応は実に事も無げだった。
「あぁ、今日も学校まで送るよ」
賢治の淀みないその返答に、遥は朝一番から軽い眩暈を覚えて、思わず頭を抱えそうになる。女子高生になってからというもの、大小さまざまな問題と対峙して来た遥の高校生活における至上命題は、いつだって「平穏無事」ただそれしかない。それなのに、こう毎日の様に賢治の車で登校していては目立って仕方がないという物で、実際、遥はその所為で、この頃学校内では周囲から送られてくる好奇の視線で針の筵状態だった。
遥は以前、敢えて賢治と一緒に居る所を周囲に見せつける事で一つの「平穏」を勝ち取ってはいるのだが、今回のこれは薬も過ぎれば何とやらという奴である。
だから遥は、今日こそ賢治の申し出を断って「平穏」を取り戻そうと、昨日の夜からひっそりとそう心に決めていた。
「賢治…あ、あのね…ボク…今日は―」
遥は意を決して断りの文句を口にしようとしたがしかし、それをさせてくれなかったのがもちろん賢治である。
「なぁハル、少しでも一緒に居たいんだ…良いだろ?」
正面からじっと見つめられて、優し気な笑顔と穏やかな口調でこんな風に言われてしまっては、遥のささやかな決意などはひとたまりも無い。
「あぅ…」
胸の内で咲き誇っていた恋心を全て散らしてしまった今でも、否、だからこそ遥だって本心では少しでも長く賢治の傍に居たかった。賢治と共に在れる「今」には何時か終わりが来てしまうのだと、その事を知ってしまったのだから。故に、他ならぬ賢治がそれを望むと言うのならば、それが多少の平穏と引き換えになろうとも、遥がこれを拒めなかったのは仕方の無い事だろう。
「じゃぁ…おねがい…します…」
結局、遥は今朝も平穏を取り戻せずに、胸の内で想いに揺れる大樹の枝先に小さな蕾を増やしながら、賢治に促されるまま車の助手席に乗り込むのだった。
家から学校までは、徒歩ならおよそ三十分、バスを使って十五分程度、そして裏道を熟知している賢治の車ならば五分と掛からない。
「さぁ、着いたぞ」
ご丁寧に校門の真横で車を停めた賢治は、遥がシートベルトを外している間に、後部座席へ手を伸ばして、防犯ブザーがぶら下がった水色のリュックを手繰り寄せる。
「ん…なんか今日はやけに軽いな?」
賢治は手にしたリュックの重さが明らかに普段とは異なっている事に眉を潜めさせたが何の事は無い。中身は筆箱くらいのもので、教科書やノートは愚か、いつもなら母の響子が持たせてくれるお弁当すらも入っていないので軽いのは当然だ。
「今日は終業式だよ」
リュックの中身が軽い理由を遥が簡潔に説明すると、賢治は「成程」とそれに納得してから何やら少しだけ寂しそうな顔をした。
「…なら、明日から暫くは朝の送りが必要無いのか…」
いたく残念そうにそんな事を言う賢治の様子に、遥は何と反応すればいいのやらと言った感じで思わず苦笑いだ。
「あー…うん…夏休みだからね…」
そうなれば寧ろこんな朝の短い時間と言わず、その気さえあれば四六時中一緒に居られるのだが、遥は敢えて今はその事を言わなかった。代わりに遥は賢治の手からリュックを受け取って、小さく笑顔を見せてから助手席の扉を開け放つ。
「それじゃぁ、行ってくるね」
その言葉に賢治が「ああ」と短く応えたのを認めて車から降りれば、いつもならこの時点から好奇の視線がチラホラと向けられてくるのだが、今日はその限りでは無かった。
まず、バスで来るよりもかなり早く学校に辿り着いた今時刻は、一般生徒がまだ登校して来ておらず、この時点で大分人目が無い。ただ、これはここ一週間のいつも通りなので取りあえずいいとして、それよりも肝要だったのは、今日が終業式である為か部活の朝練習が実施されていなかったという点だ。
おかげで早朝の学校は実に静かな物で、校門の直ぐ傍に横付けされた車から降り立った遥に好奇の視線を向けて来る者がそもそも存在していないという寸法だった。
「わぁ…」
遥は人気の無い学校にちょっとばかり感動を覚えながら、この隙を逃さずとばかりに、若干の早足で校門を抜けて校舎に向かって歩き出す。
女子高生になってからも、すっかり歩きなれた校舎へと続く石畳。いつもなら部活組の喧騒や、多くの生徒に紛れて歩いていたその道程が今日は無人の野を行くが如くで、遥はそこにちょっとだけ優越感みたいなものを感じないでもない。二学期も賢治が朝の送りを続ける様ならば、それこそ部活組よりも早く登校してみたら良いかもしれないと、遥がそんな事を考えながら校舎へと向かっている最中の事である。
「遥さん、おはようございます」
不意に後ろから掛けられた朝の挨拶に遥は少しばかりびっくりしてしまったが、その聞き覚えのある声が誰の物なのかに関しては考えるまでも無い。
「晃人君…おはよう。本当に早いね?」
遥が歩みを止めずに顔だけ振り返って挨拶を返すと、晃人は横に並んで歩調を合わせながらニッコリと微笑み掛けて来る。
「今日は生徒会もそれなりに仕事がありますので」
いつもより早く登校して来た理由を答えた晃人は、遥がそれに納得している横で何やら少しだけ心配そうな面持ちを覗かせた。
「後姿をお見掛けしたのでつい挨拶してしまいましたが、大丈夫でしたか?」
遥はそれが一体何の事を言っているのか分からずに小首をかしげさせるも、少し考えてから一つの事に思い当たる。晃人に話しかけられて遥が被る不都合と言えば、主に女生徒から向けられてくるチクチクとした視線が定番だが、今はその心配も無いので勿論その事では無い。
「えっとぉ、それってこの前相談に乗ってもらった事だよね?」
遥が念のため確認を入れると、晃人はそれに「えぇ」と頷きを返したので、やはりあの事で間違いがなさそうだった。
正確に言うとそれは沙穂と楓が相談に乗ってもらった事だが、詰まるところは遥が以前一時的に陥っていた「性の芽生え」に関する珍現象の事である。女の子としての自意識が成長してきた所為で男を無用なまでに意識してしまい変な想像をしてしまうという、沙穂や楓を大変に困惑させたあのとんでも事件だ。
遥は当時その所為で晃人とまともに話をする事もできない状態だったのだが、今では変な想像や妄想が掻き立てられる事も無くすっかりと平気になっていた。
「うん、それならもう全然大丈夫」
遥はそれを証明する様に、以前は直視できなかった晃人の顔をその大きく黒目がちな愛らしい両の瞳でじっと見詰めてみせる。
「解消されたなら良かったですが…」
晃人は「性の芽生え」が無事終息した事にはホッとした様子を見せながらも、次にはさっきにも増して心配そうな面持ちになった。
「こんな事は余りなさらない方がよろしいかと…」
その忠告の意味が良く分からなかった遥は、キョトンとしてしまい小首を傾げさせたが、元より必要が無ければこんな風に人の顔をじっと見詰めたりはしない。
「うん、何かちょっと恥ずかしいもんね」
そんな遥のお気楽な返しに晃人が益々の心配顔になったのは言うまでもないだろう。
「そういう事では無いんですが…」
これに遥はまたもキョトンとしてしまうも、そんなやり取りをしている間に二人は校舎へと続く石畳を歩き終えて昇降口の前まで辿り着いていた。ここから先は一年生と三年生では下駄箱の位置も向かうべき先も違うので、これで晃人とは一先ずのお別れだ。
「ふぅ…名残惜しいですが、今朝の所はここまでですね」
晃人が残念そうに溜息を一つついて別れを切り出すと、遥はそれに小さく笑みを返して手を振って見せる。
「うん、生徒会のお仕事頑張ってね」
その労いの言葉ににっこりと微笑んだ晃人は最後に一礼を残し、自分の下駄箱へと向かうべく遥の前から立ち去って行った。
晃人を見送った遥は、踵を返して自分の下駄箱に向かう最中、「性の芽生え」に関する話題がその終息理由にまで及ばなかった事にひっそりと安堵する。何故ならそれが終息したのは、おそらくだが一度だけ心の底から女の子を止めたいと思ってしまったからなのだ。そんな事を言えば晃人はきっと必要以上に心配してしまう筈なので、例え今ではもうそんな事を思っていなかったとしても、明かさないで済むならばそれに越した事は無かった。
「はぁ…」
遥は思いがけず少しばかり複雑な心境なりつつも、下駄箱で上履きに履き替え、いつも通り教室に向って歩いてゆく。この時間帯は廊下ですれ違う者も無く、程なくたどり着いた教室も案の定まだ無人だった。
誰もいない教室の窓を開け放ち、室内にこもった熱気を夏空の下に逃がしたら、遥はいつも通り、真ん中最前列にある自分の席にちょこんと腰を下ろす。高校生用の机と椅子は、小さな幼女の身体には相変わらず少し大きかったが、今ではそのサイズ感もすっかりと慣れた物だ。
自分の席に着いた遥がスマホをいじったりしながら一人でぼんやりとした時間を過していると、窓の外は徐々に活気を帯びてきて、教室にも一人二人と人が増えてゆく。そうこうしている間に沙穂や楓も教室内にやってくれば、そこから先の時間はそれこそいつも通りの朝だ。
「カナちゃぁん…通知表返ってくるの怖いヨォ…」
荷物を置いて早々に、今朝も相変わらずの困り顔で目の前までやってくる楓と、今朝もやっぱり眠たげで欠伸まじりにお馴染みの呆れ顔をみせる沙穂。
「カナぁ、ミナをあまやかしちゃダメよー」
沙穂がそれだけ告げて自分の席で突っ伏してしまえば、次にやってくるのもまたいつも通り、まるで夏の日差しみたいな笑顔を見せる今朝もめっぽう爽やかな青羽である。
「奏さん、水瀬さん、おはよう!」
今までなら、遥がこれにちょっとうんざりした顔で愛想なく応えるまでがいつも通りのワンセットだったが、ここ最近のいつも通りは少しばかり違っていた。
「おはよう、早見君」
遥は控えめながらも笑顔で挨拶を返し、そしてその大きく黒目がちな愛らしい両の瞳で青羽の顔をじっと覗き込む。確かに遥は必要が無ければ人の顔をじっと見詰めたりはしないが、これに関しては必要な事で、これが遥にとってここ最近のいつも通りだった。
「え、えっと…か、奏さん?」
ここのところ毎日同じ事をしているのに青羽は慣れないのか、今朝も少々困惑気味で、周囲の女子達からは当然の様にチクチクとした視線が送られてくる。それでも遥は青羽の顔から視線をそらさずに、一つの事を確認し終えるまでそれをやめはしない。
「んー…」
女子達からの突き刺さる様な視線にも負けず、しばらく青羽の顔を観察し続けた遥は、程なく確かめたかった事を認め終えてほっとした顔で小さく笑みをこぼす。
「うん、大分きれいになったね」
青羽が登校してきたらできるだけ愛想よく挨拶をして、その顔にしこたま刻まれていた傷の治り具合をチェックする。それがここ最近における遥のいつも通りだった。
「お、お陰様で、この通りもう大丈夫だよ!」
そんな青羽本人からの自己申告に遥は今一度小さく笑みを返してから楓の方へと向き直る。そこからはこれまたいつも通りに楓の泣き言に付き合って、後は時間が来たら学生の本分を全うするだけだ。
奏遥、十六歳、女子高生。高校に復学してから四ヶ月足らず。色々な事が変わりつつある夏休み目前の朝だった。




