3-71.激情
賢治は自分の名を呼んだのが遥で、実際に殴ったのが青羽であるという見たままの状況については何とか理解が及びながらも、そうなった経緯までは流石に分からず、結局は酷く混乱していた。賢治にとって青羽の登場とその行動は、倉屋藍との再会以上に予期し得なかった完全なるイレギュラーだった為それも当然と言えば当然だ。がしかし、そんな具合の賢治以上に混乱してそれが極まるあまり途方に暮れてすらいた者がこの場には二人程いた。
「紬君、大丈夫? あの子、どうして…、なんで、いきなり、こんなこと…」
一人目は、かろうじて上半身を起こした賢治の身体を支えながら、状況が全く理解できずにオロオロするばかりの倉屋藍。そしてもう一人は、この状況を作り出すそもそもの切っ掛けを作り出したと言っても過言ではない筈の人物、詰まるところが遥に他ならなかった。
「ど、どう…なって…?」
素性の知れない闖入者に賢治が突然殴り飛ばされたとしか認識できなかった倉屋藍の混乱は当然として、遥の方も混乱している理由としてはそれと大差が無い。もちろん遥は賢治を殴ったのが誰なのか分かっていたし、青羽の起こしたアクションを事前に察知し得たからこそ先程は声を上げてもいる。だが、言ってしまえば其れだけなのだ。それ以前の、なぜ青羽がここに居て、なぜあんな事をしたのかという経緯の話しになると、遥の認識は「全く定かではない」というレベルで賢治や倉屋藍のそれと大差が無かった。
「なんで…早見君が…」
遥はこうなった経緯を必死に思い出そうとするも、絶望に駆られて女の子である自分を否定する言葉を口にしたその直後から今に至るまでの記憶がまるでハッキリしない。遥がかろうじて思い出せたのは、今もそうしてくれている様に沙穂と楓がずっと傍に寄り添ってくれていた事くらいで、それ以外の記憶はぼんやりと霞がかってしまっている。
過度な精神的負荷によって一時的な心神喪失状態に陥っていたか、もしくはそうなる以前に自ら意識のブレイカーを落としてしまっていたのか、記憶が曖昧な理由は遥自身にも良く分からない。尤も、それが分かった所で今現在の状況がまるで呑み込めないという点については何ら変わる事がなく、ならば今はそのメカニズムを解明する事よりも、混乱の要因となっている事実関係を確認するのが先決だ。
「ヒナ…、ミナ…、どう…なってる…の? なんで、早見君が…?」
遥が困惑を露わにして左右に寄り添ってくれている沙穂と楓を交互に見やると、それまで唖然とした面持ちで居た二人もハッと我へと返った。
「あっ…えっ? あんた、覚えて…る訳ないか、そう…よね…」
沙穂は遥の記憶が曖昧な事に一瞬驚きを見せながらも、直ぐにそれは無理のない話である事を納得して、その上で事の次第を話し始める。
「早見は何かロードワーク中とかで偶然に通りかかって、それであたしらを見つけたからってんで声を掛けて来たんだけど…」
沙穂が話しの入口として青羽がここに現れた最初の経緯について明かすと、今度は楓が酷く動揺した様子でその先を引き継いだ。
「そ、それで、早見くんは、カナちゃんが泣いてるのに気づいて…どうしたのか聞いてきたんだけど、わ、ワタシ…賢治さんの方を指差すくらいしかできなくって…」
その行動が今現在の結果を招いているとでも感じているのか、そこまで口にした楓が顔を青ざめさせて俯いてしまった為、それに代わって再び沙穂が話し手となる。
「そしたら…、早見がいきなりカナの手を掴んで、ここまで来たと思ったらいきなりあの人に殴り掛って…それで、こんな事に…」
以上が賢治や倉屋藍、そして遥に混乱をもたらした出来事の全貌と言う事らしく、二人の戸惑いを隠し得ない話しぶりからして、それがかなり性急な展開だった事が窺えた。
「そう…だったんだ…」
沙穂と楓の説明を聞き終えた遥は、二人の話を踏まえたうえで今一度記憶を辿ってそれを実体験として思い出そうとする。がしかし、状況はその間も刻一刻と進展しており、遥は間もなく悠長にそんな事をしている場合では無くなった。
「賢治さん、俺…、貴方の事を見損ないました!」
倉屋藍に支えられながら膝に手を付いてヨロヨロと立ち上がった賢治に向って、青羽は怒りに満ちた苛烈な口調で非難の言葉を浴びせかける。
「貴方が何処で何してようと俺の知ったっちゃないけど、奏さんを泣かせるなら話は別だ!」
そう言い放った青羽が再び拳を振り上げたそこから先は、殆どの事がほぼ同時だった。
「や、やめて!」
賢治の身体を横で支えていた倉屋藍から上がった悲痛な制止の声。
「ちょっ! 早見!」
「は、早見くん!」
青羽の背中に向って投げ掛けられていた沙穂と楓による必死な呼び掛け。
「…そう…だな」
誰に言うでも無く、ポツリと呟いてただ青羽の拳を甘んじて受け入れようとしていた賢治。そして、声を上げる事しかできなかった一発目の時とは違って、考えるよりも早く身体が動いていた遥。
「ダメっ!」
おそらく、この場に居た誰一人としてその行動を予測できなかっただろう。事実、沙穂と楓は自分たちの腕の中から飛び出していった遥を止める事も、手を伸ばしてそれをつかまえる事も出来なかった。まして、間違いなく頭に血が上っていただろう青羽や、覚悟を決めた面持ちで目すら瞑っていた賢治なら尚更だ。遥自身にしても、自分の貧弱な身体のどこにそんな瞬発力が備わっていたのか、何故そんな事が出来たのかは全く分からない。ただ気付いた時にはもう、膝に手を付いてかろうじて立っていた賢治を庇う様にして、振りかぶった拳に全体重を乗せていた青羽の正面に躍り出ていた。
「カナちゃん! い、いやぁあ!」
「早見とめて! カナが、カナが!」
それまで遥に寄り添っていただけに、いち早くそれに気付いた楓と沙穂から悲鳴も同然の声が上がる。タイミング的には殆ど手遅れに近かったが、沙穂と楓の上げた悲鳴は全くの無駄だったと言う訳でも無かった。
「ハルっ!?」
「か、奏さんっ!?」
両眼を見開いた賢治は反射的に遥を守る様に腕を回して、青羽はその拳を止める事自体は叶わなかったが、咄嗟に体を開いて勢いを殺すと共に軌道を僅かに逸らす。
「…っ!」
中腰で立っていた賢治の顔面をとらえる筈だった青羽の拳は最終的に、風切り音と共に遥の頬を掠め、その顔の真横でピタリと止まった。
「か、カナ!」
「カナちゃん!」
青羽の動きが止まったと見るや沙穂と楓が駆け寄って来て、その間に賢治は遥の肩を掴んで自分の方へと振り向かせる。
「ハル! 大丈夫か!?」
後先など全く考えずに動いていた遥は、自身の行動や起こった出来事に思考が上手く追い付いついておらず、半ば放心状態で賢治の呼び掛けに応える事が出来なかった。
「お、俺、そんなつもりじゃなかったのに…! 奏さん、ごめん!」
震える手で自身の拳を無理やりに引っ込めた青羽がかなりの狼狽えた様子で必死に頭を下げて来るも、遥はそれにも応えられず只々呆然とするばかりだ。
「ほっぺ、赤くなってる…」
賢治と共に遥の顔を覗き込んで来ていた倉屋藍が指先でそっと触れたその箇所は、確かに本来の血色とは異なる形でほんのりと赤くなっていた。
「か、カナちゃん、だ、だ、大丈夫!? は、はやく冷やしたりしないと!」
楓は直ぐ傍まで辿り着いて早々、かなり大袈裟な様子で心配してくるが、当の遥が自覚できていたのは、頬の表面がちょっとヒリヒリするかもしれないといった程度だ。
「カナ、見せて…」
楓と共にやって来ていた沙穂は自身のスマホを取り出し、画面の明かりを遥の頬に当てて患部の様子をより詳細に確認しようとする。
「あっ…ヒナ…ミナ…、ボクは…だいじょうぶ…だよ?」
この段階でようやく少しだけ放心状態から抜け出せた遥がひとまず自身の無事を報告してみると、沙穂はそれに対して眉間にしわを寄せて険しい顔をした。
「大丈夫じゃないでしょ…しっかり赤くなってるじゃない…」
スマホをしまいながら大きなため息を一付いた沙穂は、一度遥の頬をやんわり撫でると、それから一際険しい面持ちになって青羽の方へと向き直る。
「早見! 何で止めなかったの! 痕にでもなったらどうするつもり! あんた責任とれんの! 大体あんた何なの! いきなりあんな事するなんて正気なの!」
沙穂は今にも掴みかからんばかりの勢いで青羽に詰め寄って厳しい批判を次々と投げつけていったが、思えばその怒り方はまだ幾らも優しい物だったのかもしれない。
「俺…カッとなってて…止めようとしたけど止められなくて…謝って済む事じゃないし、責任の取り方とかは分からないけど…でも、本当に…本当に、ごめん!」
実際に、青羽がこうして心底落ち込んだ様子で自己嫌悪一杯に謝罪を述べて来れば、沙穂はまだそれを聞き入れられるくらいには理性的だった。遥が傷つけられた事に強い憤りを見せながらも、沙穂とてそれが「不幸な事故」で青羽の本意ではなかった事を理解していたのだ。だが、その一方で、遥を傷つけられたというその事実さえ在れば、どんな理屈や道理も意に介さず、いかなる謝罪の言葉も到底聞き入れられなかった者がいる。
「倉屋、ハルを…頼む…」
低く唸る様な声で倉屋藍に向って一言そう告げた賢治の瞳は、大きく見開かれて真っ赤に血走りながらも、ゾッとする程に冷たい色合いをしていた。
「つ、紬君…?」
託されるままに遥の肩を抱きとめながらも困惑を禁じ得ない様子だった倉屋藍は、きっと賢治のこんな姿を見たことがなかったのだろう。いや、おそらく倉屋藍だけではない。淳也や涼介、それに光彦といった他の親しい旧友達や、もしかしたら朱美や児玉といった実の家族ですらもそれを見た事がなかったかもしれない。
だが遥は、遥だけは、今の様な寒気がするほどに冷たい眼差しをした賢治を、かつて一度だけその目で見た事がある。忘れもしないそれは、遥が今の身体になってまだ間もなかった頃の事だ。賢治は美乃梨が事故の当事者だった事を知り得たその直後に、今と全く同じにゾッとするほど冷たい眼差しを見せていた。
「け、賢治…! 待っ―」
賢治の中で渦巻いている感情が何なのかを一瞬で理解した遥は、慌てて次の行動を制止しようとしたがしかし、その時にはもう遅い。すでに背を向けていた賢治は、沙穂の肩を掴んで強引に押し退けたたかと思うと、次の瞬間、青羽の顔面に向って何の予備動作も無く拳を振り抜いていた。
「ッ…!」
青羽は声にならない悶絶と共に殴られた勢いのまま地面に倒れ込み、遥を除く他の一同は余りにも衝撃的だったその行動に唯々唖然となって絶句するしかない。
「賢治! ボクは大丈夫だから! 平気だから!」
唯一人全てを理解していた遥が必死になってその背中に呼びかけるも、賢治はそれに構わず青羽の襟を掴んで強引に引き起こす。
「ハルに怪我なんかさせやがって!」
言うが早いか賢治の拳が再び青羽の顔面めがけて振り抜かれ、周囲に思わず目を背けたくなる様な鈍い音が響き渡った。
「がふッ…!」
襟を掴まれていた所為で今度は倒れる事もできなかった青羽の首から上が大きく仰け反って、その口元からは赤黒い雫がポタポタと滴り落ちる。
「お前が…! お前みたいなやつがいるから! あの時だって!」
青羽にはそれが何時の事か、何の事なのかさっぱり分からなかっただろうが、今の賢治はそんな事も一切お構い無しだった。賢治は「あの時」から今までずっとやり場をなくしていた激情を全て吐き出すかの如く、それを暴力という形で容赦無く青羽に向けてぶつけてゆく。
「け、賢治…!」
賢治の行為は最早完全なる不条理の域だったが、遥にとってその姿はあの事故で誰を恨む事もできなかった自分の弱さを引き受けてくれているかの様で、かつてない程に胸が苦しくなった。
「賢治! やめて! ボクはもう大丈夫だから! そんなことやめて!」
遥は半ば絶叫しながら、堪らず先程の様に二人の間に飛び込んで行こうとするも、それをさせてくれなかったのが沙穂と楓、それに倉屋藍だ。
「カナちゃんあぶないよ!」
「カナ! ダメだったら!」
今度はその初動を見逃さなかった楓はとっさに腕を掴み、前方にいた沙穂の方は進路を遮る様にして遥の眼前に立ちはだかる。
「いかせて! 賢治が…! けんじが…!」
遥は何とか二人を振り切ろうとするも、さっきの様に不意をついていたたならまだしも、既に反応されていてはこれを切り抜ける事は容易くなかった。
「今度は紬君に、自分を殴らせるの? そんなの、絶対に駄目」
賢治からその身を託されていた倉屋藍は、楓と反対側の腕をとらえながら、それが如何に愚かな行為あるかを諭してくる。遥だってそんな事は誰に言われるまでも無く分かっていたが、それでも自分の所為で賢治が怒りと憎悪に身を焦がしてゆく様をこのまま何もせず見ている事何て出来はしない。
「けんじ…! けんじ! もうやめて! ボクはだいじょうぶだからぁ!」
遥は自分を抑える三人を振り払おうと必死に足掻きながら、ありったけの声を振り絞って賢治の背中に向って呼びかける。少し前までは、賢治と結ばれる筈だった未来が失われてしまったのだと感じて絶望に暮れていたが、そんな事はもうどうでも良かった。例え、胸の内で咲いていた恋心が既に一輪残らず散ってしまっていたのだとしても、例えこれから先の未来が賢治と共に歩めない真っ暗闇なのだとしても、そんな事はもう関係ない。遥は今、それ以上に大切な、何よりも掛け替えの無いたった一つの事を思い出していたから。
「はなして! けんじのところにいかせて!」
その必死な想いが聞き届けられたのかどうかは分からない。ただ、最初に手を放したのは倉屋藍だった。もしかしたら汗で手が滑っただけだったのかもしれないが、ともかく遥はその隙を逃さず動き出す。自由になった片腕を使って多少の無茶をすれば、もう一方の腕をつかまえている楓の手を振りほどく事くらいはできる筈だ。
「か、カナちゃん!?」
実際に何とか楓の腕から抜け出して身体を繋ぎ止める物が無くなった遥は、前方に立ち塞がっていた沙穂の横を殆ど転がる様にして潜り抜けてゆく。
「カナ! まって!」
沙穂は当然阻止しようと腕を伸ばしてきたが、遥はそれをも何とか躱し、そのまま賢治の元へと向かうべく、持てる力の全てを使って勢いよく地を蹴った。
「けんじ!」
ちっぽけな自分に何が出来るのかなんて分からない。恋心を全て散らした胸の内では、依然として底の無い深い闇が大きな口を開けている。それでも遥は、もう自分の行く先や、辿るべき道筋を見失ったりはしない。遥は心を覆いつくしていた絶望をかき分けて、賢治を怒りと憎悪の業火から救い出したい一心で、たった一つの想いと共にぶつかってゆく。賢治と共に歩んできた十六年間、言葉にはしなくとも何時だってそれを願っていた。その為ならば、賢治の心を焦がすその業火を全て引き受けて、代わりにこの身が焼かれたって構わない。
「けんじ…! ボクはもう…大丈夫だから! もう、ちゃんと自分の足で立ってるから!」
賢治の背中にしがみつきながら遥がそのたどたどしい言葉に込めたものはそう、恋心を抱くずっと以前から、心の中心に根を張っていた決して折れる事の無い想いの大樹。自らの苦楽など一切顧みる事無く、ただひたすらに相手の事だけを思い遣るその感情は、時に人が『愛』と呼ぶものだった。




