3-70.唯一つの強い想い
倉屋藍のくちづけは、彼女の性格と同じく控えめで、時間にしてもおそらくはほんの五秒にも満たない極短い物だっただろう。ただ、賢治は程なく倉屋藍が唇と身体をゆっくり離してくちづけを終えてからも、それも気付けなかった程にひどく混乱していた。くちづけ以前に、自分が罪や過ちだと思い込んでいた行いを「嬉しかった」と振り返られ、あまつさえ今でも好意を抱いている等と告白されていてはそれも無理のない話しだ。
「あの日から、ずっと、こうしたかった」
倉屋藍が余韻を確かめる様に自分の唇を指先でなぞりながらぽつりと漏らしたその呟きで、賢治もようやく既にくちづけが終わっている事に気が付いた。
「どうして…だ…」
賢治が半ばうわ言の様にして一向に収まらない混乱をそのまま口にすると、それを耳にした倉屋藍は不思議そうな顔で首を傾げさせた。
「好きだからじゃ、駄目、なのかな?」
それが唯一無二の答えであると言わんばかりに全く淀みない倉屋藍だったが、その解答に賢治は益々の混乱をきたさずには居られない。
「お前はあの時、ずっと…ずっと辛そうに泣いてたじゃないか…!」
だからこそ賢治は倉屋藍を取り返しがつかない程に傷つけてしまったのだと確信して、その行いを消える事のない罪としてその胸に刻み込んでいる。しかし、倉屋藍はそんな賢治の心情をものともせず、今も持ち続けているという想そのままに、付き合っていた当時とまるで変わらない笑顔を見せた。
「それも、紬君の事が、好きだから、だよ」
倉屋藍は先程と同じ結論を口にしながらも、今度は言葉を繋いでそれをより具体的な感情へと編み直す。
「私は、紬君と分かれるのが、すごく悲しかったし、それに…」
賢治の瞳を真っすぐに見据えながらそう告げた倉屋藍は、そこで一旦言葉区切って僅かに間を置いたかと思うと、不意に酷く悲し気な面持ちで目を伏せた。
「あの時、紬君の方が、とっても辛そうだった、から」
その言葉に賢治は愕然となって、一層の混乱に陥りそうになりながらも、一つの重大な事実に気付いてハッとなる。
「倉屋…お前…まさか…」
賢治は、出来る事ならばそれを信じたくは無かったがしかし、悲し気な面持ちのままゆっくりと顔を上げて小さく頷きを見せた倉屋藍がそれをさせてはくれなかった。
「私もずっと、紬君を傷つけた事、後悔、してた…」
思った通りだったその告白に、賢治の全身からは急激に力が抜けて、その口からは思わず場違いにも力ない笑い声すらもこぼれ出る。
「は、ははっ…こんな…事って…」
賢治は今まで、自分が一方的に倉屋藍を傷つけてしまったのだと信じて疑わず、それ故に自分一人がその罪を背負ってゆけば済む話だと思っていた。しかし実際はどうだ。倉屋藍もまた自分と同様にその行いを後悔してたのだと言い、ならばおそらくは罪の意識をも感じているだろう。
「そうか…だから…か…」
賢治は今になってようやく理解した。被害者である筈の倉屋藍が何故自分を恨んでいるか等と問い、そして何故謝罪の言葉すらも述べたのかを。あれは倉屋藍が自分の事を被害者などでは無く加害者だと感じていたからこその問いであり謝罪だったのだ。確かに我儘を押し通したのは倉屋藍で、賢治の胸に刻まれた罪の意識が傷だというならば、それもまた一面の事実なのかもしれない。だが、そうだったのであれば「何故」という新たな疑問が賢治の中で沸き起こる。
「それなら…あんな事はやめるべきだったんだ…」
あの行為をお互いが後悔していると知った今、賢治は猶更そう思わずにはいられなかったがしかし、倉屋藍は左右に首を振ってそれを否定した。
「私はあの時、紬君を傷つけて、後悔してでも、最後まで、したかった」
賢治の疑問に答えるべく当時の心情から振り返った倉屋藍は、悲しげだった表情を振り払い、曇りのない透き通った瞳で真っ直ぐな眼差しを作り出す。
「紬君が好きな気持ちを、忘れたくなかった、から」
そう告げた倉屋藍の瞳は、後悔の念と罪の意識に揺れながらも、それを補って余りあるだけの強い想いによってキラキラと輝いていた。
「だから、嬉しかったのも、本当」
倉屋藍は自身の胸元に両手を添えて、想いと共に在り続けている後悔の念や罪の意識さえも掛け替えのない宝物であるかのように、それをぎゅっと抱きしめる。
「そう…か…それでお前は…」
倉屋藍がどうしてあの行為をやめなかったのかを理解した賢治は、彼女があの日から今日に至るまで変わらず自分に対する好意持ち続けていられた理由をも同時に理解した。
「そういう事…か…」
倉屋藍は、自らの意志で意図的に後悔の念や罪の意識を心に刻み込む事で、それを賢治に対する想いを見失わない為の「導」としていたのだ。
「全部、私の都合、紬君は、何も悪くない」
もしかしたらそれは、倉屋藍の言う通りなのかもしれない。彼女の言う事をそのまま信じるのならば、倉屋藍は想いを持ち続けたかったが為に後悔や罪を厭わず、それがどんな結果をもたらすのか全て承知した上でそれを成し遂げている事になる。
「そう…なのかも…な…」
それが想いの象徴であり、倉屋藍自身が望んだ事でさえあると言うならば、賢治には最早彼女の罪その物を否定すべくはない。だがしかし、だからといって賢治はそれで自分を無罪放免にして倉屋藍にだけ罪を背負わせてしまえるほど物事上手く割り切れはしなかった。
「それでも…、お前だけが悪いなんて事は、あっちゃならないんだ…」
責任感、と言えば聞こえはいいが何のことはない。賢治はそれができるほど、そうしてやれるほど心が強くなっただけの話だ。そんな事ができるのであれば、賢治は元より倉屋藍に対する罪の意識をその胸に深々と刻み込んだりはしていない。
「…紬君」
弱さ故に、自らの罪を捨てされなかった賢治の言葉に、倉屋藍は少し困った顔をして僅かに苦笑する。
「…紬君って、そういう人、だったね」
倉屋藍が今日二度目となるその言葉にどんな意味合いを込めていたのかは、やはり賢治には分からなかったが、今ではそれを殊更肯定的には受け取りようが無い。
「…あぁ、俺は、最低のクズ野郎だよ」
心底そう思わずにはいられなかった賢治の返答に、倉屋藍は一瞬キョトンとした顔になったかと思うとそれからクスクスと声を上げて笑い始めた。
「何か、可笑しなことを言ったか…?」
何故笑うのか分からなかった賢治が困惑しながら問い掛けると、倉屋藍は目の端に溜まった涙を指先で掬い取りながら左右に首を振る。
「もし、紬君が、そうなんだとしても…」
倉屋藍は今一度自分の胸元に両手をあてがい、いつも通り控えめながらも、今までに見た事が無い程にあざやかな表情で微笑んだ。
「それでも私は、紬君が、好き」
それは、傷つけて罪を負っても、傷ついて罪を負わせてさえも守りたかったひたすらに真っ直ぐな唯一つの想い。一切の罪咎を恐れず、それを告げる事に何の躊躇いも無い倉屋藍の姿はどこまでも純粋で、今の賢治にはそれが眩しくすらあった。
「三年、か…」
あの日から約三年、後悔の念や罪の意識と共に今日まで想いを繋げて来た倉屋藍の時間が決して幸福な物では無かっただろう事は賢治にも容易く想像できる。流石にその全てを推し量る事は出来ないまでも、想いを遂げられないままで居る事の辛さだけは賢治にも痛いほど理解できるのだ。それだけに賢治の胸はきつく締めあげられ、倉屋藍と彼女が守り通して来た眩しい程の想いから目を背けそうにもなる。その想いに応えてやる事が出来ればどれ程良かっただろうかと、そう思わずにはいられなかったがしかし、昔も、今も、そしてこれから先も、それは永遠に叶わない事だった。
「倉屋、俺は…」
時に人は、自分が傷付く事以上に他者を傷つける事の方が恐ろしい。だからこそ賢治は、倉屋藍に罪を引き渡してやる事すらもできなかった。それでも賢治は今、ここで倉屋藍の想いを断ち切り、再び彼女を傷つけて、新たな罪を背負う事すらも最早厭わない。かつての倉屋藍がそうだった様に、今の賢治にも他の何を犠牲にしてでも守りたい唯一つの強い想いが有る。
「俺は…お前の気持ちには応えられない…!」
その言葉と共に、賢治の胸には真新しい罪の意識が深々と突き刺さる。それでも賢治の決断は、唯一つの、唯一人に対する強い想いを支えにして、決して揺らぐことは無かった。
「俺にはもう、心に決めた相手がいる!」
倉屋藍の想いや、自分の弱さをも容易に凌駕して見せたそれはそう、遥に対する絶大なる「愛情」に他ならない。遥に対する気持ちに気付いてから、否、おそらくはきっと遥を一度失ったあの日から、賢治の心を満たしていたものはそれ以外に無かった。
「倉屋…、今度こそ、俺を恨んでくれて構わない…」
賢治はいつも自分に好意を寄せてくれる相手の想いを断ち切る時は、ただ誠実であろうとしてきたが今回ばかりは違う。賢治は倉屋藍と向き合いながらも、遥の事だけを想って、いつか遥と添い遂げたいという自らの欲求の為だけにそうしたのだ。そんな自分の都合だけで倉屋藍が三年間大切に繋ぎ止めて来た想いを打ち砕いてしまった以上、賢治には当然恨まれる覚悟が有った。だが、そんな賢治の想いや覚悟に反して、倉屋藍は恨み言の一つも寄越さずに、少しだけ寂しそうに目を伏せていつも通り控えめに微笑んだ。
「そう…なんだね…」
倉屋藍が何を感じて微笑み、何を思ってそう言ったのか賢治には分からない。それでも一つだけハッキリしていたのは、賢治にとってその反応はどんな責め苦を受けるよりも辛い物だった事だ。
「…倉屋…すまない」
最早何を言ったところで自分は赦されるべきでは無いと思いながらも、賢治が謝罪の言葉を口にせずにいられなかったのはやはり弱さ故だろう。その心を支える遥を想う気持ちは確かに揺るぎなくとも、やはり賢治は人を傷つけて平気で居られる程には強く無かった。
「紬君」
賢治の謝罪に応える様に微笑んだままゆっくりと口を開いた倉屋藍の頬を一筋の光が流れてゆく。その姿に賢治の胸は一層締め付けられたが、倉屋藍は次々と流れてゆく光の筋で頬を濡らしながらも、その先の言葉には一切の迷いが無かった。
「今まで、好きでいさせてくれて、ありがとう」
倉屋藍が口にしたのは、責め苦でも、恨み言でも、まして悲痛な泣き言でも無い。それは、打ち砕かれても尚ひた向きな倉屋藍の想いが込もった、痛いほどに純粋な紛れもない感謝の言葉だった。
「くら…や…」
倉屋藍の述べた感謝の言葉に賢治は愕然となりながら、その胸の内に一つの抑えきれない強い衝動が沸き上がる。倉屋藍がそんな事を望んでいない事や、それがただの自己満足で自分勝手な我儘にしか過ぎない事は賢治も勿論分かっていた。そうする事で弱い自分を少しでも楽にしてやろうという意図が全くなかったかと言えば嘘になる。それでも、「ありがとう」とさえ言った倉屋藍に、僅かでも報いたかったのもまた偽りのない賢治の本心だ。ならば賢治が倉屋藍にそれを願い出るのには、それ以上の理由は必要無かった。
「倉屋…!」
賢治はそれまで隣り合う様にして座っていた倉屋藍の方へ身体ごと向き直って、彼女の細い手首を掴んでそれを自身の眼前にまで引き寄せる。
「俺を殴ってくれ!」
賢治は至って真剣だったが余りにも衝動的だったその申し出に、倉屋藍が頬を濡らしたままきょとんとしてしまったのは言うまでもない。賢治に少しでもロマンチックな性質が有れば、ここでくちづけや抱擁の選択肢もあったのかもしれないが、如何せんその性格は生真面目にして実直な上、どうしようもなく不器用だった。そんな賢治には、自分を痛めつける事くらいしか倉屋藍の想いに報いてやる方法が思いつかなかったのだ。
「そんな事、したくない」
彼女の気持ちや性格を考えればその答えは当然で、賢治はならばとばかりに自身でそれを成し遂げようと倉屋藍の手首を放して自らの拳を握り込む。だが、賢治がそれを実行するよりも早く、その行為は全く別な者によって、全く別な理由と共に成し遂げられる事となった。
「…け、けんじ!」
背後から不意に名を呼んだ声。それに反応して振り返った賢治の頬を襲った痛烈な衝撃。それはまばたきする間もない一瞬の出来事だった。
「…つぁッ!?」
予想外の方向から見舞われた衝撃に、賢治は成す術も無く身体ごと仰け反らされ、そのまま無様にアスファルトの上に倒れ伏す。余りにも予想し得無かった事態に賢治は状況が飲み込めず俄かに混乱してしまったが、そんな中でも幾つか知り得た事が在あった。
名前を呼んだのが聞き間違えようも無い誰よりも良く知る人物の声であった事と、頬を襲った衝撃がその者では到底繰り出せる筈がない程に固く力強い物だった事だ。
その在り得ない組み合わせはともすれば賢治に一層の混乱を与えかねなかったが、そうなる前に大凡の状況は直ぐ明らかになった。衝撃冷めやらぬ賢治が何とか身体を起こしてその視界に捉えたものが、やや後方で友達二人と寄り添っている遥と、それを庇う様にして眼前に立ちはだかっている早見青羽だったからだ。




