3-69.記憶と罪
響子に頼まれて駅前までやって来た賢治は当初、お互いに直ぐ見つけられる様、車の脇に立って遥の事を待っていた。しかし、到着の連絡を入れてから五分が経ち、十分が経ち、十五分が経ち、二十分が経っても肝心の遥が一向に現れない。待つ事自体は何ら苦にも思わなかった賢治だが、流石に遥の事が少しばかりでは無く心配になってくる。賢治は遥が居るカフェの場所を響子から事前に聞いていたし、その店と駅との距離関係も知っていただけに余計だ。
「まさか…何かあったんじゃ…」
そんな可能性を見出してしまった賢治の脳裏に一瞬、かつて目の前で引き起った凄惨な事故の光景がフラッシュバックする。
「ぐッ…!」
その忌まわしい記憶に、賢治の動悸は俄かに速度を上げ、胸の奥底からはまるで全ての内臓が裏返ってしまったかのような激しい不快感が込み上げた。
「うっ…ハァハァ…」
成す術も無く親友を失ったあの瞬間、そしてそこから先の永遠にも等しかった悪夢の様だった三年余りの時間、賢治は今でもその当時の事を夢に見る。遥が戻って来た今ではそれら全てが最早ただの過去でしかなかったが、それでも賢治の深層心理には未だにその傷跡が確かに残っていた。
「お、落ち着け…! ハルが居るのは…アーケードの…中だろ…」
賢治はそこが車両の入り込めない空間であり、あの時の様な事故は万が一にも起こり得ない事を自身に言い聞かせて自らの精神を必死に落ち着ける。
「はぁ…はぁ…」
軋みを上げそうな程だった動悸は徐々に収まって、賢治は何とか平静をも取り戻していったが、一度覚えてしまった不安その物は完全に拭い去れなかった。
かつての様な事故の線が無くなったとしても、遥が何らかのトラブルやアクシデントに見舞われた可能性は幾らでも考えられる。柄の悪い輩に絡まれている程度ならば良くは無いがまだマシな方で、変質者や誘拐といった事件の可能性すらも賢治は考えずに居られない。
「い、いやいや、友達と一緒なら…流石に…」
いずれの事態も遥一人では対処できないかもしれないが、三人でいるのならば何かしらのしようは在るだろうし、そもそも狙われるリスク自体が大分軽減されている筈だ。
「そ、そうだ、ハルにはアレも持たせてる…!」
賢治が思い至った「アレ」とは、誕生日プレゼントとして遥に贈った防犯ブザーの事に他ならない。GPS機能を内蔵し、遥のスマホと連動しているそのブザーが作動すれば、賢治のスマホにはアラートが送られて来るように設定されている。
「何かあったんなら、鳴らす…よな…」
賢治は常日頃から有事の際には躊躇することなくブザーの紐を引く様、それこそ口が酸っぱくなるほど遥に言い含めていた。その甲斐もあって賢治は、元々ブザーをリュックの側面に取り付けていた遥に、それを直ぐさま作動させられる肩口のストラップ側にと位置を改めさせることにも成功している。
「通知は…来てない…な…」
ズボンのポケットからスマホを取り出した賢治は、画面上に何の通知も届いていない事を確認すると、完全には不安を拭いきらないまで気持ち的には何とか落ち着いてきた。
「もう少し待って…それでも来なかったら…、その時は直接迎えに行こう…」
賢治は本当ならば今直ぐにでも遥の居るとされているカフェまで赴きたいところだったが、それを思い留まったのには少しばかり理由が有る。
「もしかしたら…、ハルは俺と会いたくないだけ…なのかもな…」
賢治がもの悲し気な面持ちでぽつりと漏らしたそれこそが、遥の元へすぐさま向かわなかったその理由だった。
賢治には、近頃の遥が自分の事を意図的に避けているのではないかというそんな疑念が在ったのだ。実際にそれは出来事として見ればその通りで、誕生日の一件以来、遥は賢治と極力顔を合わせない様に努めていた。勿論それは例の「性の芽生え」に関する事柄が原因だったが、その引き金を引いた自覚すらも無い賢治がそれを知る由も無く、在るのは遥に避けられているという事実だけだ。
如何に鈍感で知れている賢治と言えども、流石に避けられているとなればそれ以上の疎まれるかもしれない行動を躊躇してしまうくらいのデリケートさは有った。特に賢治は「過保護」な言動が過ぎる余り、その都度遥に若干の渋い顔をされていたとなれば尚更だ。
「はぁ…」
俄かに意気消沈してしまった賢治は、完全に拭い切れなかった不安や逸る気持ちも相まって、堪らずその場にしゃがみ込んでしまう。
「どうしてだろうなぁ…」
ロータリーの縁石に腰を下ろした賢治は、遥に避けられている理由に考えを巡らせてみるも、残念な事に誕生日の一件を殆ど覚えていない以上、思い当たる物は全く無かった。
「はぁ…」
いくら考えても悶々とするばかりで溜息しか出てこなかった賢治は、鬱々とした気持ちを振り払うかのように何気なく夜空を仰ぎ見る。頭上では街の灯に掻き消されまいと懸命に瞬く星々や、針金細工の様な三日月が薄っすらと掛かった雲をほんのりと照らしていたが、賢治の瞳が真っ先に捉えたものはそのいずれでも無かった。
「…もしかして、紬君?」
控え目な疑問形で名を呼んだその声と、上から覗き込む様にして視界を遮った者の姿に、先程静めたばかりだった賢治の心臓がドクリと大きく脈を打つ。
「お前…倉屋…か…?」
賢治にとってそれは、間違いなく予期しない遭遇であり、そして到底歓迎し得ない再会だった。
淳也が遥に語って聞かせた通り、賢治には一時、来るものを一切拒まず数多くの女の子と刹那的な付き合いをしていた過去が在る。その到底「らしくない」行為が遥の居ない喪失感を埋め合わせる為の代償行動だった事も概ね淳也が推測していた通りだ。そんな行動に及んでしまう程精神的に追い込まれていた当時の賢治は、その頃に関わった女の子達の事はその殆どをろくに覚えてはいなかったが、例外的にこの倉屋藍だけは「特別」だった。
「久しぶり、だね」
そう言った倉屋藍が少しはにかんだ様な遠慮がちな笑顔を見せると、賢治の心臓は一層動悸を早めて、心の奥底に沈んでいた当時の記憶が蘇る。ただしそれは、間違っても美しい思い出などでは無く、賢治にとって倉屋藍が「特別」だったのは、その記憶が心の最深部にまで達する程に深々と刻み込まれていた「罪の意識」と共にあったからだ。
「なん…で…」
賢治は記憶と共に蘇った罪の意識から倉屋藍を直視していられなくなり、堪らず目を逸らして上ずった声でそう返すのが精一杯だった。
「私は、バイトの、帰りで…、紬君は?」
単語を区切る様にして喋る少し独特な倉屋藍の話し口調は、賢治が知る昔のままで、それだけに当時の記憶が鮮明になってゆく。
「お、俺は、人を…待ってるんだ…」
その答えを聞いた倉屋藍は少しの間小首を傾げさせてはいたが、特にその事に付いては深く追求はしてこずに、その代わり別な質問を投げかけて来た。
「隣、座っても、良いかな?」
やはり遠慮がちながらも笑顔を伴っていたその問い掛けに、賢治の思考が「何故」という疑問で埋め尽くさる。賢治には、倉屋藍がまるでこの再開を喜んでいるかのような無邪気な笑顔を見せるその理由が全く分からなかった。賢治が倉屋藍に対して罪の意識を感じているのは、相応の仕打ちをしてしまったというその自覚と疑い様も無い事実が有るからだ。
「…お前は、良い…のか?」
動揺を禁じ得なかった賢治がやっとの思いで絞り出す様にしてそう問い返すと、倉屋藍は少しだけ困った顔をしながらも再び控えめな笑顔を見せた。
「私は、大丈夫」
倉屋藍はその問答をそのまま了承に置き換えたのか、丈の長いスカートの裾を整えながら賢治のすぐ真横にと腰を下ろす。倉屋藍はそれからしばらくは何も言わずに、どこか遠くを見る様な面持ちで賢治の横に座り続けて居たが、不意にその表情が柔らかくほころんだ。
「こうしてると、懐かしい、ね」
その言葉と倉屋藍の面差しは、賢治に当時の記憶をより一層鮮明に思いこさせたが、やはりそれはノスタルジックな感傷に浸れる様なもの等では決して無い。
「懐かしい…か…」
賢治が自嘲気味にポツリと呟くと、倉屋藍はそれに頷きながらそれまでの控えめな笑顔を引っ込めて僅かに目を伏せる。
「紬君は、私の事、恨んでる?」
倉屋藍が繰り出して来たその質問に、賢治の思考は再び「何故」という疑問で埋め尽くされていった。倉屋藍が自分の事を恨んでいるというのならば賢治にはまだ理解のしようもあったがしかし、その逆は考えた事すら無かったしまず在り得ない事だ。
「どうして…そんな事…、俺がお前を恨む理由なんて、一つも無い…だろ…」
賢治の答えに倉屋藍は少しばかり驚いた顔になってからまた控えめな笑みを見せる。
「…紬君って、そういう人、だったね」
倉屋藍が何を以てしてその結論に至ったのかは分からなかったが、それは賢治に刻み込まれていた罪の意識をより一層浮き彫りにした。過去の自分が倉屋藍に対して犯した罪を鑑みれば、どうしたってそれは肯定的な意味合いとして受け取れはしない。
「お前こそ…俺を恨んでる筈だろ…」
呼び醒まされた罪の意識に苛まれ、いっそその口からハッキリと断罪されたいとすら思った賢治は、倉屋藍にそう聞き返さずにはいられなかった。
「俺は、それだけの事をお前にしてる…」
それは、丁度三年前の今時期、遥の事故から半年余り程が過ぎて、淳也が語った賢治の「荒れ模様」が小康状態に入った頃にまで遡る。
その頃になってようやく多少の正気を取り戻していた賢治は、それまでの行いが人としての道義を欠いていた事を省みて、その在り方を改めようとしていた。
尤も、その時点で賢治が誰に対しても心を開かない事は半ば公然の事実として周知されており、既に言い寄って来る者は殆どいなかった為、具体的に出来た事はさほど多くは無い。賢治が実際に行った事は、依然として半月に一度位は在った女の子からの告白を断る事と、そしてその時点で付き合っていた相手、つまり倉屋藍との関係に終止符を打つ事だった。
元来生真面目で実直な賢治が多少なりとも正気に戻れば、相手の好意を利用しているにも等しかったその関係性をそのままにしておけなかった事は、極々自然な流れだっただろう。
「紬君は、後悔、してるの?」
その問いに答えを出す事は、賢治にとって罪の意識と正面から向き合う事と同義で、それには少なからずの苦痛を伴った。しかし、それが自らの犯した罪に対する罰であるならば、甘んじて受け入れるより他の選択肢など賢治に有りはしない。
「俺は…」
賢治は一度大きく息を吐き出し、倉屋藍をまっすぐに見据えて己の罪と対峙する。
「後悔…している…」
倉屋藍に対する罪の意識と、犯した罪その物を後悔と言うのならば、賢治は間違いなくそれを後悔していた。ただそれは、倉屋藍と心の通い得ない関わり合いを持ってしまった事や、その関係に終止符を打った事に対する後悔では無い。
倉屋藍は周囲からの高い注目度に相反して、その笑顔と同じくらい控えめで、余り自己主張をしない大変に大人しい女の子だった。付き合っていた間も、倉屋藍はいつも黙って後ろから付いて来るだけで特に何も欲しがらなかったし何も望みはしなかったが、そんな彼女がたった一度だけ酷く我儘を言った事が有る。
「俺は…、あの時…」
賢治の脳裏に、後にも先にも一度しか見た事のない倉屋藍の泣き顔と、その当時の感情までもが克明になって蘇った。動揺と困惑、自責の念と罪悪感、そしてそれと同時にはっきりと感じていた幾ばくかの劣情。賢治に後悔が有るとするならば、それが倉屋藍を傷つけるだけの罪な行為だと知りながら、彼女の最初で最後の我儘を聞き入れてしまった当時の愚かな自分に対してだ。
「お前の事を抱いた俺自身を後悔している…!」
それが賢治の後悔であり、罪であり、そして倉屋藍の最初にして最後の我儘だった。
「…ごめん、ね」
賢治の想いを聞き届け、謝罪の言葉を口にした倉屋藍は、寂しそうに目を伏せてスカートの裾をギュッと握りしめる。
「なんで…お前が謝る…」
確かにそう望んだのは倉屋藍だったかもしれないが、それでも賢治にとっては紛れも無く自らの意志で「冒した」自身の「罪」だ。だからこそ倉屋藍の記憶は賢治にとって、その胸の奥深くに刻み込まれた罪に意識と共に在り続けている。何よりも、傷つけたのは自分で、傷付いたのは倉屋藍であるという現実はどうしたって賢治の中では覆りようが無い。
「悪いのは俺だ! お前が謝るなよ!」
賢治が堪らず声を荒げると、倉屋藍は一瞬ビクッとしながらも顔を上げて真っ直ぐな眼差しを作る。
「じゃあ、どうしたら、良い?」
その言葉は昔から倉屋藍の口癖で、賢治はそれが数少ない彼女なりの自己主張である事を知っていた。当時はその漠然とした問いに何度となく困惑した賢治だったが、今ならばそれに対する答えは一つしかない。
「お前が何かする必要何て、どこにも無いんだ…」
もしかしたらそれは只の自己満足やエゴの類でしかなかったのかもしれないが、今の賢治が倉屋藍に対して願う事はそれ以外になった。
「そう、なんだ…」
賢治の答えを受け取ってそう答えた倉屋藍はしばらくそれを悲し気にしていたが、不意に両手を伸ばしてたおやかに微笑んだ。
「私は、あの時、嬉しかったよ」
それは賢治にとって予想だにしなかった言葉で、思わずハッとなったその刹那の事だった。
「今でも、好き」
息がかかる程間近で囁かれたその想いと共に、賢治の無防備だった感覚の大部分をかつて一度だけ味わった事のある倉屋藍の感触が支配する。
「…っ!」
完全なる不意打ちだったとはいえ、賢治はそれを何としてでも拒むべきだった。今も昔と変わらず、否、それ以上に倉屋藍の想いを受け止めてやる事は出来なかったし、何より正しくその瞬間だったからだ。賢治が連絡を入れてから三十分余り経って、ようやくロータリーにやって来た遥が目の当たりしてしまった光景は。




