3-67.タイミング
結論から先に述べると、沙穂が土壇場になって「思い付いたこと」は、確かに本人が前置きした通りに、遥が直面している事態を根本的に解決する様な物では無かった。ただその代わりに沙穂は、遥が賢治と相対するのはもう避けようが無い物とした上で、ならばせめて傷口を浅くしようという一種の対処療法的な提案をしてきたのだ。
「えっとぉ…あの人に事情を説明してぇ…、カナちゃんをあんまり刺激しない様にしてもらうって事で良いのかな…?」
遥の横で一緒になって話を聞いていた楓が宙を扇ぎながらその提案内容を要約すると、沙穂はそれで間違っていない事を頷いて肯定する。
「うん、ざっくり言えばそうね」
賢治に事情を説明する等という話は、普通なら遥はまず受け入れないだろうが、その辺り沙穂は抜かりがない。
「もちろん男のアレを想像しちゃう事とかそうなった原因は伏せておくし、あの人への説明だってあたしが上手い事するからさ」
沙穂は賢治に説明する内容はあくまでも限定的な物であり、それが遥にとって何ら不都合や負担になるものではないとする。
「…カナさえよければなんだけど…どうかな?」
それを実際に実行するかどうかを問い掛ける沙穂の面持ちは少しばかり不安げであったが、賢治との対峙を避けられない以上、遥からすれば是非も無かった。
「…良いと思う!」
その返答に沙穂はほっとした面持ちで小さく安堵の息を付き、横では楓から「おー」と感嘆の声が上がる。
「これでカナちゃんも一安心だね!」
結局は賢治と顔を合わせなければならないので、やはり根本的には何にも解決していないのだが、それでも楓の言う様に遥が一先ずの安心感を得られたのは事実だった。
少なくともこれで些かの挙動不審を見せたとしても、賢治にそれを怪しまれたりする心配はしなくても良くなる筈なので、遥としてはそれだけでかなり気持ちが楽だ。
「…ボク、頑張れそう!」
遥が胸前でぎゅっと拳を作って口にしたその言葉は、先の弱々しかった虚勢とは違って、今度は紛れも無い本心からだった。
「よし! それじゃ…行こっか!」
沙穂は話が纏まった所で今回の提案に際して座り直していた席から立ち上がって、隣の空席に置いてあった自分のリュックを肩へと掛ける。
「う、うん…!」
遥も同様に席から立って自分の通学リュック背負えば楓もそれに倣って、三人は賢治の待つロータリーへと向かうべく、三時間は居座ったであろうカフェをようやく後にした。
三人の居たカフェは駅前アーケード街の中程にあるが、そこから賢治の待つ駅のロータリーまでは、遥の短い歩幅に合わせて歩いても五分と掛からない。このまま行けば賢治との対面ももう間もなくであったが、そろそろアーケード街を抜けて駅に辿り着こうかというそんな直前の事である。
「あっ、ねぇねぇ、これってついでにカナちゃんの恋も進展しちゃうんじゃない?」
楓がふと思いついた顔で口にしたその発言は、実に何気ない感じではあったものの、遥の歩みを止めるには十分過ぎる物だった。
「あっ…ちょっ…か、カナ…?」
沙穂は遥が立ち止まった事に直ぐ気が付いて一緒になって足を止めたが、楓の方はそのまま一人ですたすたと進んで行ってしまう。
「そうなったらあれだよねー、えぇっとぉ…怪我の…軟膏―って、あれ?」
楓はお気楽な様子で調子外れな事を言いながら、三メートルほど進んだ所でようやく遥と沙穂が付いて来ていない事に気が付いて不思議そうな顔で振り返って来た。
「二人とも、どうしたの?」
楓は駆け戻って来ながら少々困惑した面持ちを見せるが、遥からすればどうもこうもない。沙穂がしてくれた提案のお陰でようやく賢治と一緒の帰路も何とかなるかもしれないと思いかけていた所に「恋の進展」等という話しを持ち出されては、当然足も止まるという物だった。
「ミナ…さっき…何て…?」
その問い掛けに楓はきょとんとした様子で頻りに首を傾げさせるが、ややあってから何の事か思い至った顔でポンと自分の手平を打つ。
「怪我の軟膏…? あっ、もしかして使い方間違ってた?」
ペロリと舌を出して本当に今さっきの発言を振り返ってきた楓のそれは、使い方どうこうよりも言葉自体が間違っているし、遥が聞きたかったのは勿論そんな事では無い。
「それを言うなら怪我の功名だし…じゃなくてその前…」
遥が頬を膨らませながら突っ込みを入れると共に質問の内容を正すと、楓もやっと何の事を聞かれているのか理解した様で「あー」と感嘆の声を上げる。
「カナちゃんの恋が進展しちゃうんじゃないかなって言った事?」
楓は正解に辿り付きながら尚も不思議そうな顔で首を傾げさせて、遥が何故それを改めて聞きたがったのか全く分からないといった様子だった。
「ねぇミナ…どうしてそう思ったのか…教えて欲しいかなぁ…」
そう問い掛けた遥の面持ちが中々に引きつっていた所為か、楓は自分の発言に何やら問題があったらしい事を察した様で俄かにオロオロとしだす。
「え、えっと…だ、だって…あの人にカナちゃんが男の人を異性として意識しちゃう様になったって説明するんだよね…?」
楓はまず今回沙穂がした提案内容に付いての確認を入れてきて、これに関してはその通りなので取りあえずここまでは問題無い。
「うん…」
遥からの肯定を受け取った楓は、何故に沙穂の提案が「恋の進展」等という話しに飛躍したのか、その訳を少々しどろもどろになりながら告げて来る。
「…それって…ちょっと遠回しな告白っぽいかなって思ったんだけど…ち、ちがった…かな?」
楓の用いた「告白」という言葉に遥がかなりギョッとなったのは言うまでもない。
「こ、こ、こ、告白って…! 全然ちがうよ!」
沙穂の提案にその様な意図は組み込まれていなかった筈なので、勢いよく否定を繰り出した遥だったがしかし、楓はそれに気圧されながらもう一つ別な可能性も指摘して来た。
「ち、ちがうかぁ…で、でもさ、カナちゃんみたいな可愛い子から男の人を意識しちゃう何て言われたら、あの人も『俺の事かな?』ってならない…?」
楓の言わんとする事はつまり、こちらにその気がなくとも向こうの捉えに様によってはそれもまた告白同然で、ならばどの道恋の進展に繋がるのではないかという事だろう。
「そ、それは…」
楓の指摘は一般的な男性心理としてはそれなりに的を射ていたし、自分が賢治に恋心を抱いているのも間違いがないので、遥は即座にそれを否定できなかった。しかしよくよく考えてみると、事情を説明するのは弁が立つ沙穂で、それにそもそも相手は鈍感の代名詞と言っても差し支えないあの賢治だ。
「うん、無い無い! 賢治が相手じゃそんな事には絶対ならないから!」
遥は楓に対して力強い否定をしてから、これまで些か呆れた面持ちで二人のやり取りを見守っていた沙穂の方へと向き直った。
「ねぇヒナ…だいじょうぶ…だよね?」
楓にはああ言ったもののそこは沙穂の説明次第でもあったので、遥は少々不安になってしまって恐る恐ると伺いを立てる。
「あー…うーん…そうねぇ…」
沙穂は遥の問い掛けに即答せず少し考えてから、不意にちょっぴり悪い顔でニヤリと笑った。
「恋の進展、悪くないんじゃない?」
沙穂は初志貫徹してくれるものとばかり思っていた遥は、その返答に目を白黒とさせて、堪らずフラフラと二三歩あとずさる。
「い、いまはむりだよぉ…」
普段の遥ならば、恋の進展は寧ろ望むところなのだが、何分今は如何にして賢治を穏便にやり過ごすかに苦心していた所だ。であれば当然恋の進展どころでは無いし、意図せずその恋心が漏れ伝わってしまう「遠回しな告白」なんて事は以ての外だった。
「ごめんごめん、冗談だから」
沙穂は謝罪と共に遥の腕を掴んで自分の元へと引き寄せると、やんわりとした手つきでそのちょっと癖のあるふわふわした髪を撫でつけて来る。
「カナが嫌ならしないし、あの人には上手く説明するから大丈夫よ」
その言葉に遥はほっと胸をなでおろすも、横では楓が若干の残念顔だ。
「むー…怪我のこーみょー…良いと思ったんだけどなぁ」
そんな事を言われても、遥にだってタイミングという物が有るし、その点でいくと今は正しく最悪なので全くもって良くは無い。
「ま、それはいずれって事で…それよりも流石にそろそろ行かないと不味くない?」
その言葉で遥はハッとなって、腕に嵌めていた青い小振りのスポーツウォッチで現在時刻を確認する。
「あわわ! もうこんな時間!」
時計の針はそろそろ午後九時を指し示そうかという所で、賢治が到着した旨を連絡してきてからは既に三十分以上が経過しようとしていた。賢治は割と気が長い方ではあるものの、幾らなんでもこれは待たせ過ぎだ。
「い、行こう!」
遥は足早になって歩き出すと沙穂と楓もそれに追従して、三人は賢治の待つロータリーへと向かうその歩みを再開させる。とは言え、楓が妙な事を言い出して足を止めた場所が既に駅の目前だった事もあって、賢治の元へ辿り着くまではもう一分も掛からない。事実、遥達は程なくアーケードを抜けて、前方のロータリーに停車している賢治の物と思われる白いSUV車を直ぐに見つける事が出来た。
「はわっ…」
賢治の車を目にした途端、早くも色々と不味い想像を掻き立てられそうになった遥の体温は俄かに上昇して、その足取りも一気にペースダウンしてしまう。
「カナ、手つなご」
遥が遅れ出したと見るや沙穂はその右手を取って、更には賢治の車を視界から遮る様な位置取りで先導役を買って出た。
「カナちゃん、ワタシもー」
楓も続いて遥の空いていた左手を取り、沙穂同様に壁を作る形で前を歩き出す。
「あ、ありがと…!」
賢治の車が一旦視界から消えた事で遥は再び歩調を取り戻したがしかし、今度は沙穂と楓が突然ペースダウンをしたかと思うと、二人は間もなくその場で立ち止まってしまった。そうなると二人に手を引いてもらっていた遥も必然的に立ち止まらざるを得ない。
「あれっ…どうしたの…?」
賢治の車まではまだ幾らか距離があった為、遥が不思議に思って問い掛けると、それに反応してチラリと振り返って来た沙穂は未だかつてない程気まずそうな顔をしていた。
「あー…いや…その…うん…ちょっと…」
沙穂がそんな歯切れの悪い返答をしてまたすぐに正面へと向き直ってしまったので、遥は左手を引っ張って今度は楓に呼び掛けてみる。
「ねぇミナ、何で止まったの?」
遥の呼び掛けに楓もチラリと振り返って来たが、その面持ちは沙穂と同じ様な感じで、今まで見て来た中でもダントツの困り顔だった。
「え、えっと…その…これ以上は近付けないっていうか…その…タイミングが…」
楓もまた大変に歯切れが悪くすぐに前方へと向き直ってしまい、遥は全く意味が分からず一人困惑だ。
「えっ? どゆこと? 前に何かあるの?」
その問い掛けに沙穂と楓は一瞬だけビクッと肩を震わせて、まるで示し合わせたかのように二人して全く同時に勢いよく振り返って来きた。
「だ、大丈夫! 何にもないから!」
「う、うん! 何にもないよ!」
沙穂と楓は妙に慌てた様子で不自然なほどに距離を詰めてきて、これで本当に何もないと思えるのならば、それは相当にピュアな心の持ち主か、もしくは底なしの間抜けだ。そして、一応そのどちらでも無かった遥は、沙穂と楓の言葉をそのまま鵜呑みにする事は無く、寧ろ前方に何かしらの障害が発生している事を確信した。
「やっぱり何かあるんでしょ!」
遥は言うが早いか視界を塞いでいる沙穂と楓をかわすべく、ヒョイっと身体を傾けて横合いから前方の様子を窺い見る。
「ま、まってカナ!」
「カナちゃんダメ!」
沙穂と楓は大慌てで遥を引き戻して、更には自分達の身体で完全にその視界を塞ぎにかかったがしかし、そうするには少しばかり遅かった。遥は既に、沙穂と楓がひた隠しにしようとしていた前方に発生していた「障害」をバッチリと見てしまった後で、しかもそれは恐らく最低にして最悪のタイミングだったと言って良いだろう。
その「障害」は、アーケード側からやって来た遥達からは当初死角となっていた賢治の白いSUV車の向こう側で起こっていた。車を停めた脇の縁石に腰掛けていた賢治と、その首に腕を回してピッタリと身体を寄せる清楚な雰囲気をまとった長い黒髪の美女。そしてその上、遥が見てしまったのは、そんな二人の唇と唇が今正に重なり合うか否かというそんな瞬間の場面だったのだ。
「カナ…み、見ちゃった…?」
その問い掛けに遥がゆっくり顔を上げると、沙穂は今まで以上に輪をかけて気まずそうな面持ちで、それはその横に居る楓もまた同様だった。
「あ、あのねカナちゃん、あれは…その…た、たぶん酔っ払いとかだよ…!」
楓が必死な様子でそんなフォローを入れてくれば、沙穂もそれに大きく頷いて遥の両肩をしっかりと掴んでくる。
「そ、そうよ! きっとあれは事故みたいなもので、だから気にしちゃダメよカナ!」
賢治程の器量になれば、二人の言う様に酔っ払いに絡まれてキスを迫られるなんていう「事故」も、もしかしたら起こり得るのかもしれない。ただ、遥の耳にはもう沙穂と楓の言葉は殆ど届いてはおらず、今はただ、茫然となってその場に立ち尽くすばかりだった。




