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3-66.原体験と対抗策

 賢治の誕生日に体験した出来事をやむなく沙穂と楓に白状する羽目になった遥だが、いざ話して見ると二人の反応は中々に微妙だった。

「…なんていうか…うん…大変だった…ね」

 沙穂が少々呆れた様子でそんな感想を述べれば、楓の方は子供をあやすような手つきで遥の頭を撫でて来る。

「カナちゃん頑張ったんだねぇ…」

 二人に語って聞かせた内容は、遥にとってそれこそ晃人の言う「性の芽生え」を誘発されてもおかしくはない強烈な体験だったのだが、どうやら沙穂と楓からすると大した事無かったようだ。

「むぅ…」

 遥は二人の反応に何やら釈然としない物を感じて頬を膨らませるも、自身で「賢治は眠かっただけで他意は無かった」という趣旨で出来事を説明している手前、これは半ば自業自得だった。

「ごめんごめん、別に馬鹿にしてる訳じゃないから」

 膨れっ面になってしまった遥に、沙穂は苦笑交じりで謝りを入れてきて、楓もそれにうんうんと頷いて同意する。

「そうだよー、カナちゃんにとっては大事件だったんだなってちゃんと分ってるから!」

 尋常ならざるアレを圧し当てられるなんて事は誰にとっても大事件に違いないと思っていた遥は限定的な言い回しをした楓に反論しようとするも、それを遮る様にして机の脇に置いてあった自身のスマホが短く鳴動した。

「あっ…ちょっとごめん…」

 遥は沙穂と楓に断りを入れると、反論を一旦中止して何らかの通知事項を知らせて来た自身のスマホに目を向ける。

「彼からだったりして…」

 沙穂がボソッと告げたそんな予測に遥は思わずギョッしてしまうが、幸いにもスマホの画面に表示されていた通知は母の響子よりメッセージが送られて来た旨を知らせる物だった。

「お、お母さんからだよ!」

 遥は益々頬を膨らませて沙穂に反証しつつ、スマホを手に取って母が送って来たメッセージの内容を検める。

『今どこにいるの? 遅くなるならなるで事前に連絡くらいなさい』

 響子からのメッセージは以上の様な内容で、遥が続けて画面上部の時計を確認すれば、時刻は午後八時を回った所だった。普段なら遥はとっくに帰宅している時間帯なので、どうやら響子は何時になく遅い帰りを心配してメッセージを寄越してきた様である。響子は元来どちらかと言えば放任主義で男の子だった頃は多少帰りが遅くなるくらいは何も言われなかったのだが、流石に女の子になった今はその限りで無かった様だ。

「もうこんな時間だったんだねぇ…」

 遥が響子に対する詫びと説明のメッセージを作成しながら何気なく漏らすと、沙穂と楓も自分のスマホを取り出してそれぞれに現在時刻を確認する。

「ほんとだ、カナちゃん大丈夫? お母さん怒ってる?」

 母親からのメッセージと時刻の因果関係を察した楓は少しばかり不安そうにするが、遥は別段危機感のない様子でお気楽な物だ。

「心配してるだけでべつに怒ってはいないと思うよ」

 遥の返答に楓はホッとした顔を見せるも、今度は沙穂の方が何やら申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんカナ…あたしがアレコレ聞いたからすっかり遅くなっちゃったね…」

 遥はそんな沙穂の謝罪に、ならば最初から根掘り葉掘り聞かないで欲しかったと思わないでも無いが今更言っても詮無き事だ。

「別にいいよぅ。それよりヒナとミナは平気なの? 遅くなってお家の人心配してない?」

 遥は一応のポーズとしては沙穂に口を尖らせて見せつつも、自分の事よりも二人こそ大丈夫なのだろうかと心配になってそれを問い掛けて見た。

「ワタシは高校生になって門限が九時になったから、それまでに帰れば平気かなぁ」

 その門限が女子高生にとって緩いのか厳しいのか遥には判断しかねる所だが、ともかく楓は取りあえず大丈夫な様で、沙穂の方も理由は違えど問題が無いという点では同様である事を告げてくる。

「家は親自体がもっと遅いから、それまでに帰れば平気」

 遥からすれば元男の子だった自分なんかよりも、生粋の女の子である二人の方がその当たりは厳しいのではないかとそんな事を思ったのだが、実際はそうでも無かった様だ。

「そっかぁ、もしかして家って過保護なのかなぁ…?」

 他に比較対象を知らない為、八時の段階で心配されている自分は果たしてどうなのだろうかと遥がそんな疑問を呈すると、沙穂と楓はこれに顔を見合わせて共に苦笑いをする。

「いや、まぁ…カナの場合は仕方ないでしょ…」

「うん、カナちゃんは仕方ないよー」

 何やら含みのある二人の言い様に遥は「えー」と不服を訴えて反論しようとするも、再び短く鳴動したスマホによって、それはまたしても阻まれてしまった。

「むぅ…またお母さんからかなぁ…?」

 遥がスマホを確認すれば実際その通り画面には先程と同じく響子からメッセージが届いたことを知らしめる通知が表示されている。最初の返信で現在の状況と所在地を明確にしていた遥は、それがなるべく早めに帰って来る様促す程度の物だと踏でいたのだがしかし、それが飛んだ甘い見通しであった事を直ぐに知る事となった。

「なっ…!」

 響子からのメッセージを目にした途端、遥はその内容に思わず愕然となってスマホを握りしめたままその場で完全に固まってしまう。

「えっ…? カナちゃんのお母さんやっぱり怒ってるの…?」

「カナ、ほんとごめん! 何だったらあたしが謝るから!」

 楓と沙穂は反応からしてやはり響子が怒っているらしいとの解釈を見せるも、遥が固まってしまった理由はそういう事では無かった。

「えっ…と…怒って…ないと…思うけど…」

 それはあくまでも文面から読み取った遥の私感ではあるが、響子のメッセージは末尾に音符記号すら添えられている所からして怒っていないのは恐らく確かだろう。ニコニコしたまま辛辣な責め苦をスラスラと並べ立てて来る誰かの母親とは違って、響子が怒る時はもっとストレートなのだ。しかしながら、今回響子が送って来たメッセージは、まだ怒ってくれていた方が幾らもマシだったのではないかと思える程、遥にとっては大変に恐ろしい内容が記されていた。

「あ、あの…ね…こ、これ…」

 遥はぎこちない動きで左右に座っている沙穂と楓にそれぞれ目配せをすると、握りしめていたスマホを机の上に置いて響子からのメッセージを二人にも見える様にする。

「えっと…なになに…?」

 沙穂は僅かに身を乗り出して遥のスマホに表示されているメッセージを目で追ってゆき、楓の方はご丁寧にそこに書かれていた文面を声に出して音読してくれた。

「…けんじくんにおむかえたのんだから…そこでまってるように…おんぷ」

 楓が記号まで声に出して発音している所はともかくとして、問題は響子が有ろうことか、賢治を迎えに寄越した等とそんなとんでもない事を知らせて来という事実だ。夜分に娘を一人で帰路に着かせるのを心配するあまりか、それとも遥の恋路をアシストしてあげようという親心かは分からないが、いずれにしろこれはもう過保護がどうこうと言って居られる次元の話ではない。

「カナ…、あんたこれ…大丈夫な訳…?」

 遥が体験した出来事については余り共感してくれなかった沙穂ではあるものの、流石に賢治と直に顔を合わせる事については不安視してくる。そして案の定、全然大丈夫じゃなかった遥は、青くなったり赤くなったりしながら早くも軽いパニック状態だった。

「ど、ど、どうしよう…!?」

 響子の送って来た文面が事後報告形式だった事からして、賢治は既にこちらへ向かっていると見て間違いが無く、迎えと言うからには恐らく車を用いる筈で、そうなるとやって来るまでの所要時間は精々が十分かそこらだろう。

「も、もうすぐ賢治が来ちゃう…!」

 急な展開にめっぽう弱い遥はひたすらにアワアワとして慌てるばかりだったが、その様子に楓が不思議そうな顔をして首を傾げさせた。

「あれ? でもカナちゃん誕生日の後に改めてプレゼント渡しに行ってるんだよね?」

 楓が言わんとしているのは、それが難なく果たせたのであれば今回もそこまで慌てる必要は別に無いのではないかと、おそらくはそんな所だろう。がしかし、それは楓の早合点という物で、実のところを言えば遥はその時点で既に全然大丈夫等では無かった。

「あ、あの時だって大変だったんだもん!」

 何せ原体験の直後だったので、遥は例の想像どころでは無いもっと生々しい鮮明な記憶と戦いながら、それでも真梨香と光彦から託されていた手前もあって何とかかんとか賢治にプレゼントを渡したのだ。その際に賢治が当日の記憶を中盤以降サッパリ覚えていなかった事を知って、それについては大いに安堵した遥だが、寧ろその所為で妙に余所余所しい態度を誤魔化すのにかなり苦心したという経緯もあった。

「あれから賢治とはろくに顔合わせてないし、いま会ったら絶対にもっと不味いよ!」

 しばらく会わなかったおかげで例のアレに関する記憶は鮮度こそ落ちてはいるものの、逆に熟成が進んでより一層凄い「想像」に膨らんでいる節もある。それを裏付ける様に、遥は沙穂と楓に対して、賢治のいきり立ったソレは自分の前腕部程もあった等とのたまっていた。流石にそれは幾らなんでも誇張が過ぎるという物だが、遥にはそれが真実であるかどうかであるかなんて事は最早あまり関係が無い。ここで重要なのは賢治と直接顔を合わせればそういった類の想像が更に加速してしまう可能性がほぼ100%であるという事だ。

「ふぇぇ…ヒナぁ…ミナぁ…どうしたらいいかなぁ…」

 賢治と会う前から既に若干の想像が膨らみつつある遥は堪らず沙穂と楓にすがり付く。

「うーん…あの人が来る前に自力でお家に帰っちゃうとか…?」

 楓が少し考えてから挙げたその提案は、響子に頼まれてわざわざ迎えに来てくれる賢治に対しては中々に酷い仕打ちだ。

「そ、それは賢治がかわいそすぎるよぅ…」

 今は会い難くとも遥は相変わらず賢治の事が大好きなので、いくら緊急事態と言っても流石にこれは幾らなんでも採用し難かった。

「やっぱりだめかぁ」

 その口ぶりから察するに、楓もそれが人倫に悖る提案で遥が受け入れないだろう事を半ば承知の上だった様である。

「あっ、そうだ! カナちゃん今日はウチに泊まって行けば?」

 これならどうだと言わんばかりの閃き顔で楓がしてきた次なる提案は、どうやらそれを理由にして賢治にはお引き取り願おうと言う事らしい。賢治に徒労を強いるという点では先程の案とそう大差は無いものの、成程物は言いようという奴で確かに幾らか穏便だ。しかしそれはそれとして、この案は賢治がどうこう以前の部分で、遥が即座に「うん」とは言い難い幾つかの問題があった。

「え、えっと…明日も学校あるけど…」

 遥がまずは差し当たっての問題点を上げると、これに対する楓の解答は事も無げである。

「ウチそんなに遠くないから明日の朝早くに帰って支度したら大丈夫じゃないかな?」

 楓は同じ中学校区であるし、遥は幼女になってからというもの早寝早起きなのでそれは実際にやろうと思えば十分に可能だ。

「で、でも…ボク泊まりの用意なんてしてないし…」

 一つ目の問題をあっさり解決されてしまった遥は次なる問題点を指摘するも、楓はこれも物とはしない。

「下着はコンビニで買えるし、パジャマだったらワタシの貸してあげるよ? カナちゃんにはちょっと大きいかもしれないけど、それはそれで萌えだから大丈夫!」

 最後の部分には些か同意しかねる遥ではあるものの、泊まりの用意についても確かに問題が無さそうで、こうなってくると残る問題点はあと一つだ。

「そ、そうなんだぁ…あ、あの…それじゃあミナの家に泊まるとして…ボクはどこで寝る事になるのかな…?」

 遥が最後にして最大の問題点に関する是非を問うと、楓は何故そんな事を聞くのか全く分からないと言わんばかりにきょとんとする。

「ワタシの部屋に決まってるよ?」

 楓はさも当たり前の様にきっぱりとそう断言するが、遥はこれに思わず頭を抱えそうになった。いくら遥が晃人の言う「性の芽生え」を迎えて、男を異性として意識するくらいには女の子になって来たとは言え、それでもまだ男の子としての自意識だって割としっかり残っているのだ。

「…ごめん…お泊りは…むり」

 これはこれでハードルが高過ぎるので遥がお泊り案を却下にすると、楓はがっくりと肩を落としてしょんぼりとしてしまう。

「そんなぁ…せっかくカナちゃんとパジャマパーティー出来ると思ったのにぃ…」

 何やら目的が変わってしまっている楓に遥は思わず苦笑しながら、この提案を安易に採用しなくて良かったと思うこと頻りだ。

「むー…でもそうなるとワタシにはもう何にも思いつかないなぁ…ヒナちゃん後は任せたぁ…」

 遥とのパジャマパーティーに未練があるらしい楓は心底残念そうにしながらギブアップを宣言すると、賢治対策のバトンを沙穂へと引き渡す。

「うーん…こうなったのはあたしの所為でも有るし…何とかしてあげたいんだけど…」

 沙穂は遥を助けたい気持ちは当然有るとしながらも、既にこちらへ向かっている賢治を穏便に回避する方法等という無茶な物は中々思いつかない様で難しい顔をするばかりだった。

「学校でならいくらでもフォローしてあげられるのになぁ…」

 自分の手が及ばない問題を口惜しそうにする沙穂だったが、それでも諦めずに解決策を探って頭を捻り続ける。ただ、やはりいくら考えてもこれといった妙案は浮かばずに、そうこうしている内に遥のスマホが軽妙な電子音を響かせた。

「ひぁっ…!」

 遥は思わず手に握っていたスマホを放り出してしまい、横に居た楓がそれをすかさずキャッチする。

「あっ…ごめんカナちゃん、画面見えちゃったんだけどぉ…」

 気まずそうな顔でそんな謝りを入れて来る楓の様子から、そこに表示されていた物が遥の今一番知りたくない情報である事が如実だ。尤も、今も楓の手の上で鳴り響いている電子音は、遥自身が他と区別が付くようにとわざわざ設定した個別着信音である。つまり遥には、楓から敢えて教えてもらうまでも無く、スマホが鳴った時点でそれが賢治からの着信である事が明白だった。

「ひぃ…」

 しつこく鳴り続ける着信音に遥は思わず情けない悲鳴を上げてしまうが、このまま放って置く訳には当然行く筈も無い。先のメッセージで響子に所在地を知らせてしまっている以上、まごまごしていると賢治は店まで直接やって来てしまうかもしれないのだ。

「うぅ…ミナ…貸して…」

 直接対面を少しでも引き延ばせるのであれば通話に応じるのも已む無しと判断した遥は、楓の手からスマホを恐る恐る拾上げて、震える指先で緑色の応答ボタンをタップする。

「あっ…ぅ…け、けん…じ…?」

 スマホを耳元にあてがった遥が上ずった声で呼びかければ、スピーカーから帰って来るのは当然の事ながら賢治の声だ。

『ハル』

 名を呼んで応答した賢治の声を耳にした途端、遥の背筋に悪寒とはまた違う言い様の無いゾクゾクとした感覚が駆け巡る。賢治の声などそれこそ飽きるくらい聞き慣れている筈なのに、通話という耳元で囁かれているも同然な形式の所為もあってか、今の遥には相当な刺激だった。

「むーっ!」

 思わず変な声を上げそうになってしまった遥は、スマホを持っていない方の空いている手で口元を抑えて、通話向こうの賢治にそれを聞かれまいとする。

『ロータリーに着いたところなんだが、どうする?』

 幸い、かどうかはともかく、賢治の耳に遥の苦悶は届かなかった様で早速本題に入って来るがしかし、最早どうもこうも無い。

「そ、そっち行くから…ま、待ってて…!」

 耳元で賢治の声が聞こえて来る度身悶えしてしまいそうになる遥は、一刻も早くこの状況から脱したい一心で咄嗟にそう答えて、返事も待たずに通話終了の赤いボタンを勢いよくタップした。

「はぁ…はぁ…」

 賢治とのほんの短い通話を終えた遥は、顔を真っ赤にして肩で大きく息を切り、まるで全力疾走でもして来たかの様な有様である。

「カナちゃん…今からそんなで…大丈夫…?」

 楓はかなり不安げな面持ちで心配して来るが、当然の事ながら遥は全くもってこれっぽっちも大丈夫では無い。一分にも満たない通話ですらこの調子なので、賢治と直に会ったらどうなってしまうのか、それはもう想像するに余りあるという物だ。しかし咄嗟の事とは言え行くと宣言してしまったし、特にこれと言った回避策も有りはしないので、遥には最早どうする事もできはしなかった。

「…がんばる」

 遥はまるで死地に向かう一兵卒の様な面持ちで決意表明をするが、かつてこれ程頼りのない奮起の言葉も無かっただろう。

「カナ…」

「カナちゃん…」

 沙穂と楓も釣られて悲愴な面持ちになって、遥はそんな二人に見送られながらある意味では壮絶な戦いの場となるであろう賢治の元へと向かうべく席を立つ。

「それじゃあ…二人とも…気を付けて帰ってね…」

 遥は最後に大変に弱々しい笑顔を見せて二人に背を向けたがその刹那、沙穂が勢いよく席から立ち上がって腕を掴んできた。

「まってカナ!」

 呼び止めると共に腕を引いて遥を自分の方へと振り向かせた沙穂は、次に両手でその小さな肩を掴んでくる。

「ヒナ、ど、どうしたの…?」

 少しばかり面食らってしまった遥が困惑しながら問い掛けると、沙穂は何時になく厳しい面持ちで目を伏せた。

「あの…さ…根本的な解決にはならないんだけど…」

 そんな前置きをした沙穂は、厳しい表情のまま顔を上げて遥の瞳を真っすぐに見据えて来る。

「一つだけ思い付いたことがあるから聞いて!」

 それが土壇場の大逆転となるか、それとも本人の言う通り何の解決にも至らない物なのかは今の所分かり様も無かったがただ、遥がそれを聞かない理由は何一つとしてなかった。

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