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3-61.和やかな時間と至福のひと時

 オレンジ色の間接照明が滲ませる柔らかな空気、それを優しく揺らすしっとりとしたピアノ演奏、そして窓の外には宝石の様に美しい夜景が一面に広がっている。

 そんなロマンティックなロケーションの中、遂に始まった賢治の誕生日を祝うディナーは、一見すると大変に和やかな雰囲気で進んでいた。が、それはあくまでも客観的に見た表面上の話しであって、二人の内情はというと、それは大分話しが変わって来る。

 遥と賢治はそれぞれがそれぞれの理由で、レストランが提供する中々に見事な料理の味が良く分からない程度にある種の緊張状態にあり、二人の間で交わされる会話もどこかぎこちなかった。それは、傍目から見ると初々しいカップルのそれで大変にほっこりとする光景なのだが、当人たちからすればひたすらに気まずいばかりなのだ。

「ハル…、なんつうか…今日は…その…」

 賢治が食事の手を止めて口を開くと、遥も手にしていたナイフとフォークを一旦置いて真っ直ぐに見つめて来る。

「ん…」

 小柄なせいで座っていてさえ上目遣いにならざるを得ない遥の瞳は、うっすらと施されているアイシャドーと明るすぎない間接照明の効果が相まって、賢治の眼には妙に艶っぽく見えた。

「…エ…あっ、い、いや…その…」

 賢治は堪らず遥から視線をそらして、何かを振り払う様に赤ワインが並々注がれていたグラスを一気に煽る。賢治が振り払おうとしたしたそれは言うまでも無く、未だ胸の奥底から沸々と込み上げ続けている遥に対する劣情だった。

 遥が着ているワンピースは、正面から見てもそこそこ露出度が高く、完全に露わになっていた背中程では無いにしろその姿は今の賢治にしてみれば十二分に刺激的だ。

 おくれ毛がふわふわと揺れるうなじ、程よい窪みの柔らかそうですらある鎖骨、少女特有の丸みを帯びたなだらかな肩とそこから伸びるほっそりとした白い二の腕。そんな物を惜しげも無く見せつけられては、賢治の劣情が一向に収まらないのも無理はない。

「き、今日は…、あ、暑かったよなぁ…なんて…」

 勿論それは本来賢治が言おうとしていた事とは全く別の事柄で、咄嗟に出たかなりの苦し紛れである。賢治は自分の誕生日を祝う為に美しく着飾ってくれた遥の事を素直に褒めてやりたかったのだが、沸き上がる劣情に圧されてそれ以上の事を口走りそうだった為に慌てて誤魔化したのだった。

「あ、うん…、もう七月だし、暑い…よね」

 遥が少し困った顔で当たりの障りない返答をしている間に、レストランの給仕が音も無くやって来て賢治のグラスにワインを継ぎ足し立ち去ってゆく。その後二人の会話は途切れてしまい、少々気まずい沈黙が横たわったが、ややってから今度は遥の方から口を開いた。

「ねぇ、賢治…あ、あのね…今日は…その…」

 沈黙に耐えかねた遥は、賢治と同じような枕詞を使って話を切り出したてはみたものの、主題を告げる前にもじもじとした様子になって言い淀んでしまう。賢治が胸の内から沸き上がる劣情を御しきれずに気まずい様子でいる様に、遥は遥でまた少し違った心模様ながらも中々に平静では無かった。

「えっと…ね…」

 遥は食器を手放した両手を自分の平らな胸に当て、その奥でいつもより幾分も早く弾んでいる心臓の鼓動をハッキリと感じ取る。実を言えば、何もそれは今に始まった事では無く、遥の心臓は今日が賢治との「デート」である事を意識するあまり、昨夜当たりからずっとこの調子だった。レストランに向かう道程で無邪気に手を繋いで見せた時ですらも、内心ではずっとドキドキとしっぱなしだったのだ。

「賢治が…さっき…その…」

 遥は対面した直後に賢治が「綺麗だ」と言ってくれた事を思い返して、胸の内にある恋心を満開に咲かせながら、両頬を真っ赤に染め上げる。できれば賢治にもう一度同じ事を言ってもらいたいというささやかな欲求が遥の中には在るのだが、どうにも気恥ずかしくて中々それを切り出せない。そもそもの話し、どうやって再びその言葉を引き出したらいいのかすらも遥には正直見当もつかなかった。遠回しでは鈍感な賢治には意図が伝わらないだろうし、かといってストレートに今一度の感想を求めるなんて事も憚られるという物だ。大体、もしも遥にそれ程の積極性と大胆さがあったなら、今頃賢治との仲はもっと進展しているだろう。

「うぅ…」

 そんな具合に遥が持ち前の初心で奥手な性格を如何なく発揮してまごまごしている間に、今日何杯目になるか分からないワインを一気に飲み干した賢治が再び口を開いた。

「そ、そういやぁ、もうすぐ夏休みだよな」

 それは余りにも脈絡のない話題転換ではあったものの、遥は気恥ずかしさから一向に自身の本題を告げられずにいた処だったので正直どこかホッとしてしまう。

「あっ…うん、そうだね」

 遥が頷きと共にそれを肯定すると、賢治は空になったワイングラスを手にして給仕に目配せをしながら、その表情をふっとほころばせた。

「夏休みといやぁ、昔はよくハルの親父さんに連れられてキャンプに行ったなぁ」

 それは、遥と賢治がまだ小学生だった頃、ほぼ毎年のように行われていた一種の例年行事だ。遥の父である正孝はあれでいてアウトドア派であり、夏になると子供達をキャンプへ連れ出すのが恒例で、勿論その際は当然の様に賢治も一緒だった。遥達が中学に上がった頃からは、夏休み中も絶え間なくある部活動などの兼ね合いもあって実施されなくなったが、その頃の記憶や体験は今でも二人にとって色褪せない大切な思い出だ。

「キャンプかぁ…川で魚釣ったり、夜は肝試ししたり…、懐かしいなぁ」

 当時の記憶に想いを馳せて遥が小さく笑みを零すと、賢治もそれに頷いて昔を懐かしむ様に目を細めさせる。

「あぁ、街中じゃできない様な派手な花火上げたり、自分たちで火ぃ起こして飯作ったりするのも楽しかったよなぁ」

 その話題を切っ掛けに、二人はキャンプの事のみならず懐かしい子供時代のエピソードを次々に思い出し、数えきれないほどのそれを途切れさせる事なく幾つも語らった。十五年分積み重ねて来た二人の思い出は、楽しかった事や嬉しかった事ばかりではなく、苦しかった事や悲しかった事も勿論有る。ただその全てが二人にとっては掛け替えが無く、そして二人でならばその全てが今は笑い合えた。

 それは、満開の恋心を持て余し気味だった遥と、沸き上がる劣情を御しきれない賢治が一時の平静を得ようとしたが為のちょっとした現実逃避だったのかもしれない。ただ、それを語らって居られた間、二人が真に和やかな時間を過ごせていた事だけは間違いが無かった。


 遥と賢治が共有する膨大な思い出話は幾ら語っても尽きる事は無かったが、レストランで提供されるサービスには限りがある。給仕係のスタッフがその事実を告げて来たのは、食事が始まってから三時間程が経過した頃、時刻はそろそろ午後十時を回ろうかという時だった。

「お客様、申し訳ございませんが間もなく当レストラン終了の時間となります」

 店じまいを告げたスタッフが一礼を残して立ち去ってゆくと、賢治はテーブルの端に置いてあった自身のスマホに手を伸ばす。

「あぁ、もうこんな時間か…」

 スマホで時刻を確認した賢治はそれをジャケットのポケットにしまい込み、それの代わりに随分とくたびれた長年愛用の財布を取り出した。

「あ、お金はお母さんがホテルの部屋代と一緒に払ってくれるから―」

 今は会計の必要が無い事を説明して賢治に財布をしまわせようとした遥だが、そこである重要な事を思い出してハッとなる。

「あっ…! あぁーっ!」

 遥は事の重大さに思わず声を上げて椅子から立ち上がり、そして自身の間抜けさ加減に堪らず頭を抱えそうになった。

「ど、どうした…?」

 賢治が自身もゆっくり椅子から立ちがって何事かと問い掛けて来ると、遥はその表情を若干引きつらせながら自らの犯した失態を素直に告白する。

「あ、あのね…賢治にあげる誕生日プレゼント、下の部屋に忘れてきちゃって…」

 遥は今日が「デート」である事を意識するあまり相当に一杯一杯で、せっかく選んだプレゼントをこの場に持って来る事をすっかり忘れてしまっていたのだった。家に置いて来なかっただけまだ救いはあるが、大分間抜けな事には違い無いだろう。

「そんな事か、今日はハルが来てくれただけで俺はもう十分だけどな」

 賢治が本心からそう言ってくれているのだとしても、遥としては当然の事ながらそれでは済ませられない。プレゼント自体はちゃんと用意しているし、そもそもそれは真梨香と光彦から託された物でもあるのだ。

「賢治、今から部屋まで付いてきて!」

 遥は言うが早いか賢治の手を取って、何としてもプレゼントを渡すべく早速行動を開始する。がしかし、遥の歩幅は只でさえ狭い上に、今もその足元を支えているのは履き慣れていないヒールの高いミュールだ。一刻も早く賢治にプレゼントを渡したいとい気持ちとは裏腹に、また転んでしまわない様に慎重を期するその足取りは遅々として進まない。遥は自身でそのノロノロとした歩みに焦れてしまい、いっそミュールを脱いでしまおうかとすら思ったが、それをする前に賢治が足を止めて呼び止めて来た。

「ハル、ちょっと待ってくれ」

 その呼びかけに応じた遥も足を止めて振り返ると、賢治は一歩距離を詰めて来たかと思うと突然その場にしゃがみ込む。

「どうしたの、けん―じ!?」

 賢治の行動を不思議に思った遥がそれを疑問として投げ掛けた刹那、突如その足元から一切の接地感が消えうせた。

「にゃぅっ!?」

 遥は突然の事に変な悲鳴を上げるのが精一杯で全く状況が分からなかったが、次の瞬間にはその身体が賢治の腕の中で横抱きの状態になる。それは、女の子なら一度はされてみたいと思う憧れの体勢、所謂一つの「お姫様抱っこ」というやつだった。

「えぇ!? なっ、な、何で!?」

 突然だった上に予想外だった遥は思わず顔が真っ赤になってジタバタともがいてしまう。賢治にお姫様抱っこされるのは何も今回が初めてでは無いが、余りにも唐突であったし、その上人目もあるので恥ずかしいことこの上なかった。しかし、賢治の方は遥の動揺など歯牙にもかけない様子で平然とした物だ。

「この方が安全で早い」

 事実その通り、暴れる遥をものともせず悠々と歩きだした賢治の足取りは実にスムーズで、なおかつ非常にスピーディーだった。

「で、でも…こ、こんなのって…そ、その、あっ、にゃんこじゃないんだから!」

 気恥しいやら情けないやらで少々素っ頓狂な事を申告する遥だったが、賢治はそれを鼻先で笑い飛ばして余裕の表情だ。

「マルと大差ないな」

 マルは猫では無く犬だがそれはともかくとして、小型の室内犬なのでその体重はせいぜい五キロ程度しかない。流石に遥はそんなにも軽くは無いが、賢治にとって大した負担では無いという点では間違いが無い様で、そうこうしてる間にもエレベーターがもう目前だった。

「え…えっと…あ、ありがとう…?」

 遥のそれは、ここまで来ればもう良いだろうと言う意味あいが込められた「ありがとう」だったのだがしかし、賢治は持ち前の鈍感さ故かその態勢を解除する気配が無い。それどころか賢治は遥をお姫様抱っこしたまま丁度やって来ていたエレベーターに乗り込んでしまい、そして中でも一向に下ろしてくれる様子が無かった。

「ふぇぇ…」

 賢治の思わぬ行動に遥は情けない声を洩らしながら、内心では中々どうして満更でも無い。確かに恥ずかしい事は恥ずかしいが、賢治の方から抱き上げて来た訳であるし、何より今は人目の無いエレベーター内だ。遥にとってそれは、何の気兼ねもせず誰に憚ることなく、大好きな賢治に公然と密着できるまたとない機会だった。

「え、えいっ…!」

 気恥ずかしさよりも恋心の方が若干ながらも勝った遥は、それに推されるように賢治の首へ腕を回して自らぎゅっとしがみ付いてみる。そして、いざそうしてみれば、気恥ずかしさなどはあっという間に消え去り、その代わりに恋心が思いの他たっぷりと満たされた。

「ふにゃぁ…」

 余りの幸福感に遥の口からはついだらしのない感嘆がこぼれ出たが、賢治にはそれが聞こえなかったのか、はたまた気にしていないのか、全く微動だにしない。嫌がられないのを良い事に、遥はより一層しっかりと賢治にしがみついて思う存分その恋心を満たしてゆく。

「はわぁ…」

 そうしていられた時間は、遥にとって正しく至福のひと時であったが、程なくして目的の階層に辿り着いたエレベーターが軽快なベルの音を鳴らして、それももう終わりである事を告げて来た。

「あぅ…」

 エレベーターの扉がゆっくりと開いて、賢治がそこからホテルの廊下へと足を踏み出すと、流石に人目があるかもしれないので遥は腕を緩めて密着状態を解除する。ただ、賢治にピッタリと引っ付いていられた時間が余りにも幸せだった為、遥はもうお姫様抱っこ自体にはすっかり抵抗が無くなっていた。

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