3-60.本能
大学最寄りの駅から電車に乗って表街までやって来た賢治が事前に言い渡されていた待ち合わせ場所に辿り着いたその時、そこには朱美の姿しかなかった。
その場所は、表街駅に隣接したターミナルホテル最上階にあるレストラン前のロビースペースである為、そこを利用する宿泊客やスタッフという意味では勿論他にも人の姿は有る。ただ、賢治の想定していた人物という意味ではやはりそこには朱美の姿しかなく、居るであろうと思っていたもう一人の人物、即ち父、児玉の姿はどこにも無かった。
賢治がポケットからスマホを取り出し時間を確認すれば、時刻は午後六時四十分を回った頃で、予定していた待ち合わせ時間のニ十分前だ。時間にうるさく三十分前行動を常としている児玉が待ち合わせに遅れてくる等という事は一種の異常事態だと言えよう。
「…親父はまだ来てないのか?」
賢治が姿の見えない児玉の事を疑問として投げ掛けると、不思議そうに小首を傾げさせた朱美はしばしの間を置いてから何やら思い出した様な顔になった。
「あぁ、お父さんねぇ、急な出動で今日はこられなくなっちゃったのよぉ」
朱美の解答はかなりとってつけた様ではあったが、児玉の就いている職業上これはままあり得る事だ。実の所、児玉が時間にうるさいのは、生来の性格と言うよりもこの職業に依るところが大きい。
「そうか、親父も大変だな…」
賢治はけたたましいサイレンを響かせながら真っ赤な特殊車両を駆っている父の雄姿を想い浮かべて、それならば今日来られないのも仕方の無い事だと納得する。
「そうなると今日はお袋と二人か…」
賢治はそれを只の事実確認として口にしたにすぎなかったがしかし、これに対して朱美はいつも通りののほほんとした様子で思わぬ事を告げて来た。
「それがねケンちゃん、お母さんもちょっと用事があってもう帰るとこなのぉ」
児玉の件については特に疑問を持つことなく素直に納得した賢治であっても、これは流石に困惑以外ない。
「レストラン…予約してるんじゃないのかよ?」
賢治が当惑しながら差し当たって問題になりそうな事を論うと、朱美は相変わらずののほほんとした笑顔で事も無げに言う。
「それなら大丈夫よぉ、お誕生日プレゼントだってちゃぁんと用意してあるからぁ」
賢治からすればプレゼントがどうこうという問題では無く、予約している筈のレストランをどうするのかと言う話しだ。今いるロビーからちらりと窺える奥のレストランは、どう考えても賢治の様な若者が一人で気軽に食事できるような雰囲気では無い。
「お袋が帰るなら俺だって帰るぞ!」
こうなっては自身もこの場からは撤収するよりない事を告げた賢治だったが、朱美は突き出した人差し指でそれにストップをかけた。
「ちょっとまってねぇ、もうすぐだからぁ」
朱美は賢治に待てを掛けたまま、自身の腕時計をチラリと見やり、それからレストランとは反対側のエレベーターホールの方へと目を向ける。
「一体何だって―」
依然として朱美の意図が分からずそれを問い詰め様とした賢治だったが、それを言い終えるよりも早く、その答えは直ぐ明らかになった。
軽快に鳴り響いたベルの音、ゆっくりと開かれたエレベーターの扉、そこから溢れ出す眩いばかりの真っ白な光、そして、その奥から姿を現したものが賢治の視線を一瞬で釘付けにする。それは、真っ赤なワンピースに身を包んだ、この世の物とは思えない程に美しい一人の少女だった。
「なっ…」
賢治がその余りの美しさに唯々愕然となっていると、美しい少女はそこだけ時間の流れが変わってしまったかの様な実にゆったりとした足取りで歩き出す。薔薇の花を思わせるレースが幾重にもなったスカートの裾をふんわりと揺らしながら歩くその姿はどこか幻想的で、賢治の眼にはそこだけ空間がきらめいている様にすら見えていた。
その現実離れした光景に賢治がすっかり見惚れてしまっている間に、やがて少女は直ぐ正面にまで辿り着き、次には天使の様な笑顔でニッコリと微笑み掛けて来る。
「…誕生日おめでとう…賢治」
微笑みを湛えたその唇から発せられた声は、澄みやかながらもどこか甘さが残る響きで、それは、賢治の良く知っているものだった。いや、声だけでは無い。祝福の言葉を告げた真珠の様に輝く控えめながらもふっくらとした唇。こちらを見つめるオレンジのアイシャドウに縁取られた大きく黒目がちな瞳。そして、黒いレースと赤い薔薇のヘッドドレスと共に結い上げられた少し癖のあるふわふわとした黒髪。その全てを賢治は良く知っている。それらの余りにも浮世離れした美しさに、賢治は夢か幻に囚われてしまったかの様な錯覚を覚えて困惑してはいたが、その人物を見紛う筈が無い。
「は、ハル…?」
未だ困惑の最中に在る賢治が若干上ずった声で呼びかけると、目の前の美しい少女は少しはにかんだ様に愛らしく小首を傾けながら小さく頷きを見せた。
「うん…」
肯定を意味するその短い言葉を耳にした賢治の中で、自身でも説明の出来ない物を含めた様々な感情が沸き上がり、それが混然となって駆け巡る。
「なっ…えっ? ど、どうして、ハルが…ここに…?」
酷く混乱する賢治が、その中から何とか抽出で来た疑問を口にすると、それに応えたのは遥で無く、横に居た母の朱美だった。
「うふふっ、ケンちゃん、お誕生日プレゼント気に入ってくれたかしら?」
その言葉で賢治はここへ来てようやく今まで意味不明だった朱美の意図と、遥がこうして今目の前にいる理由については大凡でだが納得だ。
「どうよ賢治君! 家の娘は!」
その声が発せられた方へと賢治が目を向ければ、そこにはいつの間にやって来たのか、両手を腰に当てて誇らしげに胸を張る遥の母、響子の姿があった。賢治からすれば突如そこに現れた様な物だが何の事は無い、響子は遥と共にエレベーターに乗って一緒に降りて来ていただけの事だ。賢治は遥に見惚れるあまり、他のものが一切目に入っておらず、その存在に今の今まで気付かなかったのである。
「お、おばさん…、どうって…その…」
賢治が響子から正面に視線を戻すと、頬をピンクに染め上げて伏し目がちな上目遣いでいる遥とバッチリ目が合った。
「どう…かな? お母さんに頼んで、おめかししてもらったんだけど…」
どこか不安げだったその表情は普段以上に可憐で、賢治は一時呼吸をするのも忘れてそれに見入ってしまう。遥は確かに類まれな美少女ではあったが、今までは幼さの方が先立ってどちらかと言えば「可愛らしい」という印象だった。しかし今日の遥はその「可愛らしい」印象に加えて、何やら色気すらも感じる程のどこか大人っぽい雰囲気で、賢治の眼から見ればその魅力は最早神か悪魔の恩寵があったとしか思えない領域だ。
「すっ…」
本人の言う「おめかし」した状態である遥を改めて見やった賢治は、まるで美の化身かのようなその佇まいに唯々釘付けとなる。薄っすらと化粧の施された顔立ちや、華やかなワンピースに身を包んだ出で立ちが美しい事は最早言うに及ばず、今日の遥はそれだけに留まる事は無く、その全てが賢治を魅了してやまなかった。
髪を結いあげている所為で露わになっている細いうなじ。広い襟元から覗く滑らかな鎖骨のライン。ノースリーブから伸びるなだらかな肩とそれに続く柔らかそうな二の腕。そして、ワンピースの上からでもハッキリと見て取れる無駄な曲線が一切ない上体のプロポーションすらも、完璧な造形美であるかのように思えてしまう。今日の遥はそれ程までに何もかもが蠱惑的で、賢治はそれを美しいと思う本能に抗う事が出来なかった。
「す…すごく…き、綺麗…だ」
賢治が半ばうわ言の様に洩らしたその感想を耳にした遥は、大輪の花の様な笑顔をパッと咲き誇らせて、ふわりとスカートの裾を翻しながら響子の方へと向き直る。
「お母さん! 賢治が綺麗だって!」
喜びを顕にする遥に、響子は満面の笑顔で今まで以上に一段と誇らしげになった。
「だから言ったでしょ? 絶対に大丈夫だって!」
それに遥も大きく「うん!」と頷きを返して、二人はその成果が無事に実を結んだ事を心から喜び合う。完全に遥の魅力に呆けてしまっていた賢治がそれをただ黙って目で追っていると、横に居た朱美がポンと肩を叩いてきた。
「ケンちゃん、そういう訳だから、今日のお食事はハルちゃんと二人でしてね?」
賢治は未だ大いに混乱してはいたが、誕生日の夕食を遥と共に過ごせるとなれば、それについては断然異論ない。
「あ、あぁ…」
賢治がそれを認めた所で、遥と一頻り喜びを分かち合った響子が直ぐ傍まで歩み寄って来て、朱美とは逆側の肩を叩いてきた。
「賢治君、遥の事お願いね?」
賢治としては寧ろ自分から「お願い」して遥と一緒に居たいくらいなので、勿論これについても異論等はない。
「は、はい…こ、こちらこそ…?」
賢治のそんな少々間の抜けた返答に響子は苦笑しながらも、遥を預ける事に迷いは無い様で、朱美を伴いその場から立ち去るべく踵を返した。
「さぁ、朱美さん、私達は私達で何か美味しい物でも食べて帰りましょう」
それに朱美が「いいわねぇ」と応え、意気投合した二人はそのまま並んでエレベーターの方へと歩き出す。何やら呆気に取られてしまった賢治がそれを黙って見送っていると、響子がクルリと向き直って再び戻って来た。
「そうそう賢治君、コレ渡しておくわね」
そう言って響子が賢治に差し出した物は、何も印字されていない一枚の白いプラスチック製のカードだ。
「えっ…? これ何ですか?」
それが何なのか分からなかった賢治が問い掛けると、響子はニンマリとした笑顔になって床下を指差しながら遥には聞こえない様にそっと耳打ちをしてきた。
「二十四階の二十四号室、覚えやすいでしょ? 明日のお昼までは使えるから」
勘の悪い賢治はそれが何の事なのかさっぱり分からなかったが、響子はそれに構わずカードを残してさっさと行ってしまう。やがて、響子と朱美が揃ってエレベーターに乗り込こもうかという所で、ようやく賢治はそのカードが何で有るのかを理解してギョッとなった。
「なっ…! ちょっ、おばさん!?」
賢治は慌ててエレベーターの方へと手を伸ばし、響子を呼び戻そうとしたがしかし時既に遅い。響子は朱美と共にエレベーターに乗り込んで、その扉は今正に閉ざされてしまった所だ。
「ま…マジかよ…」
賢治はゆっくりと数字を減らしていくエレベーターのインジケーターと、手元に残ったカードを交互に見やって愕然となる。響子から渡されたカードは、詰まるところ下層にあるホテルの一室を利用する為のキーであり、遥と共にそれを託された意味は、賢治の健全な男子としての想像力を彼是と掻き立てるに余りあった。
「賢治、どうしたの? ボク達も行こうよ」
遥が小首を傾げさせながらジャケットの裾をチョンと引っ張って来ると、賢治はカードキーをサッとズボンの尻ポケットに隠しながら勢いよく縦に首を振る。
「あ、あぁ! そ、そういや腹へったなぁ!」
うっかり思い浮かべてしまった彼是を振り切る様に、奥のレストランへと向かっていそいそと歩き出した賢治は、この時気付くべきだった。遥をいつもより大人っぽく見せている理由の一端が、その足元を飾っているヒールの高いミュールにもある事を。
「まって賢治、もうちょっとゆっくり―」
置いて行かれまいとした遥が慣れないヒールで必死になって追い縋ろうとしたその結果は、当然ろくな事になりはしない。
「―んにゃっ!?」
背後から上がったその悲鳴にハッとなった賢治が振り返れば、そこではバランスを崩した遥が今正に盛大な勢いで転びそうになっている所だった。
「ハル!」
賢治は持ち前の反射神経をここぞとばかりに発揮し、両腕のみならずその大きな身体全体を使って遥をしっかりと受け止める。
「…間一髪…か?」
胸の中に納まるわずかな重みに賢治はホッと胸を撫で下ろし、受け止められた遥はそのままの体勢で上目遣いになって気恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとう…、ヒールなんて初めて履くから上手く歩けなくって…」
その言葉で賢治もようやくここで遥がヒールを履いている事と、それによって普段よりも幾分か背が高くなっていた事に気が付いた。
「成程…」
道理でやたらにゆっくりと動いていた訳だと、賢治がその事も含めて大いに納得していると、不意に遥が腕の中で何やらもぞもぞと身じろぎをしだす。
「賢治…手…」
その訴えに何事かと思った賢治が状況を確認しようと手元をまさぐった瞬間、遥の身体がビクッと小さく跳ね上がった。
「んぁっ…!」
遥のふっくらとした唇から悩まし気な嬌声がこぼれだし、その頬に化粧とは明らかに異なった赤みがさす。そうさせたのは、賢治の手に依るもので間違いが無く、それは今、布地に守られていない遥の無防備な背中の柔肌に直接触れてしまっていた。
「なっ…! なっ!?」
その事実と、今目の前で巻き起こっている事態に愕然となった賢治の手は思わず震え、それが意図せず遥の背中を刺激してしまう。
「んぅっ…!」
遥は背中が弱いのか再びビクリと身体を震わせて、その唇からもまた押し殺した嬌声がこぼれ出た。
「け、賢治…く、くすぐったい…よぅ…」
上気した頬と、若干潤んだ瞳で、息も絶え絶えにそんな事を訴えて来る遥を目にした瞬間、賢治は心の底よりも更に深い所から沸き上がった強烈な感情に見舞われる。それは、今日の遥が異性として余りにも魅力的だったが為に、そして賢治が男であるが故に抱かずにはいられなかった本能とも云うべき感情、即ち劣情だ。
「うっ…!」
賢治は一刻も早く遥から手を放さなければと思う一方で、沸き上がった劣情がそれをさせてはくれなかった。直に触れる遥の柔肌は手の平に吸い付く様で、劣情と共に顔を出した賢治の野生が貪欲になってそれに食らいつく。
「ぬぅっ…!」
賢治は普段、遥が「幼女」である事を自身に言い聞かせて自制しているが、今回に限ってはそれもままならい。今日の遥は幼女である事を易々と断じれない程に異性として魅力的で、その上この状況だ。身悶えするその姿の艶めかしさたるや、劣情を覚えるなという方が無理な相談である。あまつさえ、遥の母である響子からその手の事を半ば許容されたも同然となれば、健全な男子である賢治が些か冷静さを欠いてしまうのも無理はなかった。
「は、ハル…!」
カッと目を見開いた賢治は、理性を越えて零れ出た劣情に推されて遥から手を放すどころかそれに一層力を込める。
「んっ…ぅーっ…!」
襲い来る刺激に抗おうとギュッと瞳を閉じて身体を強張らせる遥の様子は、益々賢治の劣情を煽って、遂にそれは完全に理性を凌駕しそうになった。
「こ、このまま―」
いっそレストランへは向かわず、遥を下層のホテルへと連れ込んでベッドの上に押し倒してしまいたい。そんな欲望が賢治の理性を圧倒して、遥を抱く両腕には益々力がこもる。がしかしその刹那、賢治の脳裏にかつてそうだったように、遥の兄である辰巳の顔が鮮明になって蘇った。
「はっ…!」
脳内に響き渡った辰巳の『性的な事は遥が育つまで待て』という言葉と共に、あの時立てた『遥を身も心も傷付けない』という誓いが賢治の理性を急速に呼び戻す。
「お…俺は…、す、すまん…!」
偉大な兄貴分のお陰で寸前の所で理性を保った賢治は、未だ胸の奥底で渦巻く劣情を必死に抑え込みながら、それが再び暴れ出さぬ内に両手を素早く引っ込め遥を解放した。
「き、急に放すと、また転ぶかもと思って…つい…」
言い訳としてはかなり苦しかったが、遥はそれを別段不審に思った様子は無くまだ少し赤い顔で笑顔を見せる。
「うん、もう大丈夫、ありがとう賢治」
賢治の中であった葛藤など与り知らぬ遥は、感謝の言葉まで口にして実に無邪気な物だ。
「あ、あぁ…」
一先ずこれで事なきを得た賢治だったがしかしそれも束の間、遥がニコニコとしながら何の躊躇も無く突然手を握って来た。
「なっ…!」
手を握るくらいはもう随分慣れていた筈の賢治ではあるものの、さっきの今ではその程度の接触ですら妙に意識せずにはいられない。流石に先ほどの様な強い劣情に見舞われる事は無かったが、それでも賢治は内心かなり気まずかった。
「また転ばない様にちゃんと握っててね?」
いつもよりも少し大人びた顔で愛らしく笑う遥にそう言われてしまっては、いくら気まずかろうとも賢治がこれを拒むべくは無い。
「うっ…わ、分かった…」
実際問題、遥がまた転びでもして再び抱き留める様な事にでもなれば、賢治はいよいよもって理性を保ち続けられるかどうか怪しい所だ。それを考えれば手を握るくらいはいつもしている事だと必死に言い聞かせて、今はこれを大人しく受け入れるのが賢治にとっての最善だった。
「じゃぁ、行こっか」
賢治の気も知らずに握る手を一瞬見やって嬉しそうに笑った遥は、率先して奥のレストランへ向かってゆっくりと歩き出す。
「お、おぅ…」
賢治も手を引かれるまま、今度はしっかりと歩調を合わせて歩き出したが、前を行く遥の後ろ姿を目にした途端かなりギョッとなった。遥の着ているワンピースはオープンバックドレスと称される背面が大きく空いた構造で、背中だけ見れば殆ど裸も同然なのだ。
「ぐ、ぐぬぅ…」
見てはいけないと思いつつも、賢治はその背中から視線を逸らせず、手に吸い付く様だったあの滑らかな感触をもつぶさに思い出してしまう。それは健全な男子の劣情を再び刺激するには十分に過ぎる情報量で、賢治がレストランへと辿り着くまでの間、それを抑え込む為に多大な努力を必要としたことは言うまでも無い。




