3-⑤.信者と心者 The Believer und Die Herzer
――ああ、おかあさま――。あぁ!……生まれて初めて……。
――?――!!!
いたいいたいいたいあついいたいいたい――!!
「きゃあああぁああ?!」
しかしアイが全身に感じたのはぬくもりや癒しなどではなく、痛みだった、それも並々ならぬ激痛が全身に染み込んでくる。その華奢で矮小な体躯には、おおよそ大きすぎる痛みが与えられる。
どうにかしてそれを逃がそうと暴れまわるが、傷めつけられた手足は上手く動かない。なのに刺すような痛みと鈍痛が両方とも、どんどん身体の、心の内側にまで侵食してくる。喉が焼けて息が苦しい。
「な……なん……で……ぇ。」
「なんで?……あぁ、シュベスターから聞いてねぇのか。愛情も他人を傷つけることができる。」
ニタニタと笑いながらアイの母親は続ける。
「相手を憎んでいる場合はな。それもただ憎んでいるんじゃあない、それだと精々憎しみを具現化して傷を付けるのが関の山だ。……この憎悪は違う。
相手のことを心の底から殺したいと思って、死んでほしいと願って、姿形・心根・生き方っつう相手の存在の全てに黒い憎悪を抱いていないと顕現させられない。そういう心底テメェを憎んでいるという、その気持ちを表したのがこの、黒い太陽だ。
俺からこんなに思われて、うれしいだろう?なぁ!!サクラァ!!この……人間野郎が!」
彼女をここまでの凶行に走らせたのは、“人間的な、あまりに人間的な”……感情であった。
◇◆◇
黒い光がアイの前に横たわる全生涯を一瞬のうちに照らし出した。それをアイはただ見ていた。見えてしまった。だから、気がついてしまった。きっと一生涯このままなんだと。
どんなに頑張っても、泣いても、喚いても、足掻いても、おかあさまは生涯あいをあいしてくれるようにはならないと。痛みの激しさと満身創痍身体のおかげで、幸いにもアイは殆ど母の言うことが聞き取れなかった。
しかし悲しいかな、アイを包む黒い太陽の全てが声を大にして伝えてくる。“オマエが憎い”と。それは言葉より遥かに雄弁だった。それは言葉より確かにアイの心の最奥を貫いた。
アイが聴いていた歓喜の調べは夢幻のものだったと。アイを急かしていた運命はこれだったと。これこそがアイの運命だと。アイの信仰する言葉では表せないものを、言葉以上のものを、おかあさまは確かに表してみせた。それはアイに理解させるには充分だった。
ずっと聞こえていたのに、ずっと見えていたのに、生まれたときからずっと知っていたのに、目を逸らし続けてきたことを。それは何よりも確かにアイに理解させた、アイがこの世で一番知りたくないと思っていたことを。
つまり、“自分は母親に愛されていない”ということを。
◇◆◇
怪我と涙で目障りだからと、執務室を文字通り叩き出されたアイはトボトボとびっこを引きながら歩いていた。片足が上手く動かなくなったからだ。殆ど身体を引き摺るように歩いていたアイは、家族の誰かの御目を汚してしまう前に、自分の感情で怪我を治療しようと考えた。
誰にも見つからないようにしながら離れまで歩いてくには、体力も気力ももう残されていなかったからだ。そうして中庭の小さな池の前に倒れ込んだ。
「はぁ……ゲホッ……はぁはぁ……」
息も絶え絶えになりながら、愛することを考えた。自分を癒やすために、自分に対する愛情を。酷く漫然とした速度で手の中に桜色の柔らかな膜のようなものが現れる。見るからに人を愛し、癒し慈しむ為に生まれてきたというような様相である。
「……おああさまは……アイ……を……」
でも、自分ぐらいは、じぶんのことを――
それを自分の左足にそっと触れさせる。それがもたらしたのは、安寧でも泥濘でもなかった。ただ、激痛が走る。エレクトラに愛情をぶつけられた時よりも、鋭く、深く、それでいて鈍い。
例えるならば、鋭い槍で串刺しにされながら、えたいの知れない不吉な塊がアイの心を始終圧おさえつけているような感覚であった。
予想外の激痛にも、鈍痛にも、もうアイは驚きも叫びもしなかった。ただ、時として一瞬の激しい痛みよりも、永く続くやわい鈍痛の方が人を死に至らしむるのではないか、などと考えていた。得心がいったからだ。
つまり、なぜ子を傷つけるはずのない、母の愛がアイを傷つけ、なぜ自身を癒すはずの、自分への愛がアイを痛めつけるのかを。
――おかあさまは、心の底からアイを憎んでいる、だからおかあさまのあいはアイを焼く。
そうであるならば、答えは自ずとわかる。
――アイの愛は、アイを痛めつける、ということはきっとアイ自身がこんなアイのことが嫌いなのだろう。
◇◆◇
そうか、アイはアイのことが嫌いだったんだ。憎かったんだ。殺してやりたいんだ。なんだかしっくりきてしまった。こんな塵屑好きになるやつはいない。アイだってこんなやつは嫌いだ。
じゃあ、殺してしまおう、こんな自分は。だってそうしたらみんな幸せなのだから。おかあさまのもおとうさまも、お兄さまもエゴペーお姉さまも、アイ自身も……みんなみんなみんな……。
……なんで、やさしくしてくれるお兄さまやエゴペーお姉さまを信じられない?やさしい人たちを疑うということが、この世でもっとも嫌悪すべき悪徳であるということを知っているのに?
……たぶんきっと、お兄さまはお母さまに、エゴペーお姉さまはお父さまに愛されているからだ。ありありとそれを見せつけられるからだ。あいがどれだけ渇望しても手に入らない愛を、なみなみと有り余るほど注がれているのを目の当たりにするからだ。
余ってるならくれたっていいじゃないか。少しくらいくれたって。一滴だっていいのに……。それで幸せなのに。だから信じられない?どうして?お二人は何も悪くないのに。それが自分を惨めにするというだけで、二人を信じきれない。そんな自分がいちばん嫌いだ。いちばん醜い。
ならはやくしんでしまおう。これ以上1秒でも永く大好きな人たちを傷つけ続ける前に。愛する人をアイが生きてるせいで不幸にする前に。
……でも。でもシュベスターは?おねえさまは……もしアイが死んだら。もし完璧な家族から唯一の汚点が消え去ったら。それでもかなしんで下さるたろうか……?もしアイがしんだら。お姉さまは……。かなしんで下さる?人を悲しませて喜ぶなんてとことんゴミクズだな……アイは。
でも……もしかなしんで下さるなら。いや、おねえさまはきっとかなしんで下さる。おねえさまだけはきっと。ならしねない……ゆいいつ信じられる人をかなしませるなんて。いくらアイでもそんなことはできない。そして、おねえさまがかなしんで下さるなら、もしかしたら、万が一にも、お兄さまとエゴペーおねえさまも……?もしかしたら。
ならば生きていよう。きはすすまないけど、できるだけしずかに、あいするひとたちの視界にはいらぬように。ただおねえさまの……家族の幸せを願っていよう。そして願わくば……これ以上誰も。きずすけなくない。なんだかなみだがでてきた。なきたくなんかないのに。
死にたいわけじゃない。そんなわけない。死ぬのはこわい。ほんとにこわい。こわくてしかたがない。しにたくない。しにたいわけじゃないんだ。ただ……生きていたくないんだ。
でもたったひとり、ひとりだけでも、アイがしんだなら、かなしんでくれる、かなしんでくれるひとがいると、そう、こころでかんじられるうちは、そのうちだけは、いきていよう、とおもった。
アイが愛されているというのは、お姉さまの“白い嘘”だ。やさしい嘘が白いと言うのならば……きっと“残酷な真実”は黒く光るのだろう。アイを灼いた、おかあさまの愛のように。
だから……おかあさまに愛されていないということだけが、確かに黒く光る……真実である。
この日は苦雨が降った。
◇◆◇
エレクトラは窓から左手を出す。
決して留まらず、手を滑っては消える夜来の雨に触れながら、こう考えた。
顔を見れば腹が立つ。情に棹させばつけあがる。意思をみせると業腹だ。
とにかく塵屑とは相容れない。
相容れなさが高じると、遠くへ追いやりたくなる。
どこへ追いやっても憎らしいと悟ったとき、不俱戴天となって、殺意が目覚める。
しかし、音もなく降り積もる残雨に手を晒しているうちに、或ることがなんとなく思われる。
そして其れはこころの内で確かな形を持ち始める。思考が転じ1つの思想と迄なったとき、母は独りごちた。
「まだ、アイには利用価値がある《アイを愛せる》かもしれない……。」
その言葉は、小糠雨の中で確かに黒く光っていた。




