53. ゲアーター・ミルヒシュトラーセ -我が最愛の兄- Sehr geehrter Herr Milchstraße - : Mein geliebter Bruder
「――切ったほうがいい。すぐに友達をやめるんだ、アイ。」
◇◆◇
最も愛している人から、最も忌むべき思想を聞かされたらどうしたらいいのだろう。この世でいちばん大好きな人から、この世でいちばん聞きたくない言葉を言われたら。
わたくしは“To be or Not to be.”《生きるべきか、死ぬべきか。》という、人生の問いに答えを出したつもりでいた。
《愛する人々に迷惑を吐き散らかしてのうのうと生き永らえるなら、家族の、友のために死のう》と。
答えを出したからには、もうその問題に悩まされることはないと思っていた。もう迷うことはないと高を括っていたのだ。
……しかし、もし愛する人とその敵ではなく、愛する人々同士が、家族と友がぶつかった時には?彼等の思想が相容れないものだったら。彼等の生き様がお互いを不倶戴天とした時に、どちらの天を信じる?どちらを天に戴く?どちらに与するのか、わたくしは。
わたくしは、家族と友のどちらを愛せばよいのだ――?
人生への答えとは、試験の解答のようにはいかないのか?人ひとりが出した答えなんぞ、世界の重みに耐えかねてたちどころに崩れ去ってしまうものなのか?だとしたら、何故人間は生きていくのだ?何故人間は答えを求めて跛行者として彷徨うのだ。それを手にしたところで空しく露と消えるのに、儚く桜の花と散るのに。
何故人間は真理を求めるのだ――?
◇◆◇
エゴおねえさまの腕をそっとほどいて、ソファから立ち上がり、跪いて懇願する。愛する人々に、哀願する。祈るように手を硬く組んで、乞い願う。
「お言葉を撤回してください。……どうか、どうか、お願いします。わたくしの、友だちなんです。こんな生きているだけで他人に、愛する人たちに、迷惑ばかりをかけるわたくしの。人を不快な気分にさせるしか能のない、わたくしを。こんなわたくしを……独りだったわたくしを。彼女は友としてくれたのです。わたくしの、友だちになってくれたのです。
皆が一步線を引くなか、彼女は友だちになってくれたんです。わたくしの、こんなわたくしに、独りのわたくしに、声をかけてくれたのです。陽だまりをおそれるわたくしに、陽だまりの温度を教えてくれたのです。彼女はわたくしの……学校での“日常”なのです。」
床をみつめると、お二人の足が見える。表情は伺いしれない。
「アイ……お前の気持ちはわかる、ほんとうだ。俺にも似た経験があるんだ。きっとシュベスターにもあるだろう。この家に生まれるということは、獣神体でいるということは、そういうことだ。
……あの頃の俺はおかあさまの体温とチョコレートだけが世界のすべてだと思っていた。この世はチョコレートとミルクを混ぜたようにやさしい飲み物だと思ってたんだ。苦いものなんてない。苦しいことなんてない。そんな世界だと。
でも違った。当たり前だよなぁ……?生きてりゃあつらく苦しいことがある。困難のない人生なんかないと悟ったんだ。お前にも、エゴペーにもシュベスターにもその時はあっただろう。そう悟ったきっかけが……。おれぁ……それが本当の意味で“物心がつく”ってことなんじゃないかと思う。
悪い悪い。お前と同じ経験の話だったな。まぁ、俺がマンソンジュ軍士官学校に入ったときゃあスゲー騒ぎだったわけだ。学校を作って実質的にこの国を統治してる、ミルヒシュトラーセ辺境伯爵の第一子が入学するわけだからな。
仲良くしてくれる奴には困らなかったし、恋人だってできた。……あの時の俺は何も知らなかった。辺境伯家の者としての責務なんてなんにも分かってなかった、お母様の苦労なんて理解してあげられなかった……莫迦なガキだったよ……。
それで、俺は色んなやつと仲良くなった。……“友達”にな。貴族もいたし平民もいた、獣神体もいりゃあノーマルだって……それに人間体も。
まぁ、白状するとその時の俺の恋人は人間体だったわけだ。生まれたときから人間体は劣っているとは教えられてきたが、別に彼らを害する気もなかったからな。フツーにいい関係だったよ。
子供特有の、相手が居ればなんにも要らないというような、誇大妄想。そういう……青い春だった。ソイツは人間体だったから、劣っているのなら、むしろ獣神体である俺が生涯をかけて守ってやろうとな……そう、思ってたんだ……。
あぁ……思い出のくせに今でも温度を持ってやがる……色を持ってるんだ。……だから、つらい。おれぁソイツの顔が見れりゃあその日は一日中幸せだったし、声が聞けりゃあ嫌なことなんて吹っ飛んだ。アイツの髪を風が優しく撫でるたびに、こんなクソみたいな世界を少し好きになれた。俺もそのやわらかさでもって髪を撫でてやりたいと思った。
手をつないでベンチに座ってりゃあ、どんな冬の日も寒くなかった。……こころがぽかぽかあたたかくて……それだけで、十分だったんだ。思い出だからって彩るなって思うだろ?ほんとうにそう思ってたんだぜ?俺は。」
おにいさまは愛おしい追憶を撫でるように、絨毯を撫でていた。おにいさまの瞳には、その方と2人で座った草原が見えているのかもしれない。
「おにいさま……。」
とても、とてもすてきなお話だ……。
……でも、じゃあなんで……?
「一番最悪だったのは、俺はアイツとお母様がぶつかった時に、アイツの肩をもったことだ。……お母様を蔑ろにして、こころに傷をつけたことだ。……生まれてからずっと俺のこころでは受け止めきれないほどの愛を、なみなみと注いでくれていた人に……。
ある時今のお前みたいに、お母様に恋人を紹介した。会わせはしなかったが、口頭でな。ちょうど今とおんなじふうにな。お母様の膝に抱かれて、学校のことを聞かれたから……莫迦な俺は何も考えずに答えた。恋人ができたこと。ソイツが人間体なこと……そして、平民落ちした没落貴族だということも。
するとお母様は、できるだけ俺を傷つけないように、言葉を選んで、幼子をやさしく諭すように、穏やかに言った。
その人間体の狙いは俺と番うことで、それによってのし上がることだと。家を復興させ、自分の地位を高めることだと。ほんとうにやさしく、俺を……息子を傷つけないように、言葉を選んで、涙ぐんで抱きしめながら……そう言って下さった。
その時俺はどうしたと思う?莫迦で無知な恩知らずのガキは。」
おにいさまの眼は揺れていた。きっと過去の自分自身を憎んでいるのだろう。わたくしは生まれてからずっとそうだから分かる。
「ゲアーター……!……そんなに自分の責めるな!お前が善い人間で、“最高の兄”だということは……ここに居るお前の弟妹が知っている!……声を大にして言ってやる。」
おねえさまが厳しい口調で、でもほんとうにやさしい声音でそう伝える。
「……そうよ。貴方みたいなお兄様がいるから、私たちは安心して貴方の残した轍を歩いていけるのよ。ゲアーター。」
「そうですっ!あいにとっておにいさまは、おにいさまは!……せかいでいちばんのおにいさまですっ!」
おにいさまが恥ずかしそうに、でも少し泣きそうにわたくしたちを見渡した。
「へっ……オイオイ、急にそんな事言わたら流石にパンドラ最強のお兄様も照れちまうぜぇ〜?お前らが天下無双の俺の、“唯一の弱点”なんだからよ。……でも、ありがとうな。シュベスター、エゴペー……アイ。こんなにかわいい弟妹に恵まれて、俺はしあわせもんだなぁ!!ははっ!」
「それに貴方がそんなんじゃ、私は誰と一緒にシュベちゃんをからかって、誰と一緒にアイちゃんを可愛がればいいのよ〜?」
「オイ!アイは私が可愛がる、お前らは指をくわえて見ていろ。」
「わっ!わっ!おねえさま!エゴおねえさま!ひっぱらないでください〜!」
◇◆◇
弟妹たちが戯れ合うのを、ゲアーターは見ていた。自分をこの世でいちばんしあわせな兄だと感じながら――。




