47. ソコには人形なんかなかった。 Ai am a fucking bitch.
夏の匂いがした。
気がつくと独りで、糸の切れた人形のように教室の隅に転がっていた。子どもに好き勝手に遊ばれた人形みたいに制服が乱れていた。鼻につく夏の匂いから逃げるように、乱れた制服もそのままに外套だけをひっかぶって炎天下の外に出た。
どれだけ走っても、どこに隠れても、夏の匂いは、おいかけっこの、かくれんぼの鬼みたいに追いかけてくる。わたくしは“影を失った男”のように太陽から逃げていた。“醜いよだか”のように夜を求めていた。街を歩く人がみんなわたくしを嗤っている気がする。わたくしをみている気がする。あわてて女性体に変身しようとしても、なぜだかうまくいかない。はるひに男性体につけられた汚れがそれを妨げているようだ。
街を歩く人の目から逃げて、家々の間の忘れられた小路へ隠れて、照りつける太陽の光に怯えて。気がついたら白い森に追いやられていた。白い木々が、純白の草花が仲間外れはどこかに行けと、黒いわたくしに叫ぶ。草木の擦れる音でさえ、わたくしを嗤う声のように聞こえた。
自分の脚が草を分けるのを、自分の手が木々の枝をかき分けるのを、他人事のように見ながら走った。そうして全身で背高草を分けたときに、それは現れた。それは其処にあった。記憶のいちばん底に。
打ち捨てられ白い蔦に侵された小屋だった。それは教室の隅で春の日に犯されたわたくしのようだった。
どこか遠い他人のようにわたくしを見ていた。自分の少し後ろから自分自身をみているような感覚だった。わたくしは叫ぶ白い木々に追いやられて、純白に侵されたその黒い小屋に逃げ込んだ。
どうやらわたくしは、右手を壁に当て、左手をつき出して手探りで不格好に進んでいるようだ。後からそれを見ていたわたくしの眼には、奇しくもそれは、糸に吊るされた人形のような格好に映った。
其処には黒く光る真実ではなく、白い嘘が転がっていると信じて、其処を手で確かめた。記憶の底をみた。
――小屋の隅を。
なかった。そこにはなんにも。てをどれだけうごかしても。小屋のすみずみまで“こころをくばって”も。そうすればするほど。そこにはなかった。なんにもなかった。あってくれとねがうほど。“くばった”こころが、あいのこころがさけぶ。
――そこには人形なんかなかったと。
さいしょからなかったと。あいとおなじ髪で、あいとおんなじワンピースをきた人形なんて。あのころからなかった。じゃああのおばけがひどいことをしていたのは。あのおんなのひとにけがされたのは――
《あはははははははっ!!!》
わらった。小屋の其処にも、記憶の底にも。なかったんだ。わらいがとまらない。たぶんあいはいまわらっているんだろう。わらいごえがきこえる。これは、わたくしのこえだ。わたくしの、こころだ。
◇◆◇
アイの自分を嘲る嗤い声を聴いた白い木々は、叫ぶことをやめ嗤いだした。アイの心を含んだ“嘲笑慟哭”が響き渡るにつれ、辺りに風が吹き、木々が、草花が木の葉擦れを起こして嗤い声あげる。座り込み嗤うアイを中心にして、徐々に純白の森が心で黒く染まっていく。木々の嗤い声が森を包んだとき、完全に白い森が純黒に染まった。
――そして、人々はいつしかその森を黒い森と呼ぶようになった。
夏の匂いがしている。
◇◆◇
はるひに、自分の過去に、その身体を黒く塗りつぶされたアイは平静を装い、そのサファイアの瞳は光を失っていたが、アルタークと普段の生活を送っていた。
だか、時折ひどく怯えるようになった。それは獣神体が彼に近づいたとき、とくに女の獣神体への怯えようは異様だった。
そして、ますますアルターク・デイリーライフにベッタリとくっついて離れなくなった。母に縋る幼子のように。まるで彼女といっしょにいさえすれば、オバケなんかこわくないというように。
アルタークこそが自分の“”平穏な日常”そのものであるというように。……一方で、アルタークは自分がアイに春日春日と話すように勧めたせいだと心を痛めた。何が起こったのかは決してアイは話してくれないが、それがとてもおそろしいことだということだけは、アルタークにも分かった。
◇◆◇
それに憤ったのは、ラアル・ツエールカフィーナ・フォン・ファンタジアだった。彼女からしてみれば、愛している女の子が、恋い慕う友が、母のような娘が、自分の知らぬ間に、見知らぬ誰かに、傷つけられた。そして平静を装おうと頑張っているが、自分の前で常に怯えたような顔をするように、自分のことを怯えた瞳で見るようになった。業腹だ。立腹していた。
――アイは何の罪もない友達に失礼なことをしないように、ラアルと接するときもいつものようにしているつもりだった。だったが……はるひと同じ“獣神体の女”である彼女を前にすると頭では分かっていても身体が勝手に怯えてしまうのだった。
しかしラアルが何よりも立腹したのは、許せなかったのは……それをみすみす許してしまった自分自身だった。腹が立つ。腹が立って仕方がなかった。獣神体として護ると誓ったのに、ずっと守ると、そう伝えたのに。ほんとうに憤懣遣る方無かった。
愛するアイに無体を働いた輩に、一撃与えなければ気がすまなかった。何が起こったか、具体的に何をされたかは、絶対に話してくれないけど、そんなのはどうでもよかった。ただそいつを見つけ出してぶっ飛ばしてやりたかった。誰にされたのかも教えてくれなかっただど、そんなのは知らなかった。ただそいつをつらまえてぶっ殺してやりたかった。
◇◆◇
――なんでかしら?なんでアイはそんな塵屑を庇うのかしら?なんで『大ごとにしないで……』何ていうのかしら?理解ができない。私に任せたら安心なのに。私といたら安全なのに。
放課後にアイの教室にいくと、いつものように彼女はデイリーライフのそばにいた。最近はよりベッタリとくっついている。……気に入らない。私にくっつけばいいのに。私の方があの娘よりずっと強いのに。ずっとアイを護れるのに。
アルターク・デイリーライフ、デイリーライフ。いつもそうだわ。初めて逢ったときからずっと!アイはデイリーライフのことばっかり!!なんで?なんでなのよ?あんな娘のどこがいいのよ。私の方が強いのに。あの娘はただの人間体で、私は獣神体なのに!!私の方が絶対アイを護れるのに!!私の方が絶対!!……アイのことが……貴女のことがすきなのに……。よりうつくしくなるために、貴女を護れるように、頑張ってるのに……。なんで私には怯えてあの娘には縋るの?
――ああ、前にアイに叱られたことをまた考えてしまう。私だってあのときはこころの底から納得したわよ……。……でもアイが、アイがほんとうにつらいときに、いちばんに頼るのがあの娘だって見せつけられたら。……平静でいられない……。それはきっと私が本気だから、本気であのアイを――。
……決して怯えさせないように、いつもよりちいさな声で話しかける。
◇◆◇
「……アイ。」
「……!……ラアルさま。ごきげんよう。」
平静を装っているが、私に怯えている。アイのかわいい顔が恐怖に縁取られている。きれいなサファイアの瞳が暗く閉ざされている。うつくしい手が小さく震えている。
……あぁ、腹立たしい。
「……2人で、話せないかしら?」
アイがデイリーライフの服の袖をつかむ。きっと無意識なんだろう。
……腹が立つ。
「えっと……。ふたりきりで……?」
「そうよ……ダメ、かしら……?」
デイリーライフが口を挟む。
「ファンタジア王女殿下……。今日のアイちゃん様はちょっと、調子が悪くて――」
……アイが大事にしてる友達だからもう決して侮辱したりしない。前にアイがそう伝えてくれたから。けど……。
「ごめんなさい、私はアイと話しているの。この娘の答えが聞きたいの。」
座っているアイの前に跪き、手を取って目を合わせる。触れたときに肩が大きく震えたのを、アイはとても申し訳なさそうにしている。最近いつもこうだ。この娘は怯えてしまったことをいつも申し訳なさそうにする。悪いのは太陽のようなこの娘を翳らせた輩なのに。
そっとその手を私の胸に触れさせる。
「……私のこころは此処にあるわ。貴方と一緒。私も貴女とおんなじ人間。でしょ?貴女が教えてくれたことよ。」
「ラアル……さま……。」
アイの光を失ったサファイアの眼に、少しだけ、ほんの少しだけ、光が差したような気がした。
「……私は貴女を傷つけない。絶対に。私のこころが貴女を護れと命じているから。」
「……“こころが命じたことには逆らえない。”」
アイがつぶやく。
「そう、貴女も心者なら、わかるでしょう……?ね……?」
「わたくしもっ!わたくしも……ラアルさまと話したい……です。」
大丈夫だ……まだこの娘のこころは死んでいない。
「ええ、行きましょうか。」
手を取って立たせてあげる。
「……そういうわけだから、悪いけど、この娘貰っていくわね。」
去り際にデイリーライフに告げる。
「……責任を持って、無事に帰してくださいよー。」
彼女が少し不満そうに頬杖をつきながら、ひらひらと手を振る。それに、振り返らずに応える。
「ええ……必ず。」
◇◆◇
「春日春日!!」
爆音と共にはるひの教室の前のドアが弾け飛ぶ。
「――貴女を殺す。」




