3-④.信者と心者 The Believer und Die Herzer
「アイ!」
姉の声で泥の中から目を覚ます。
「おねえ……さま。」
「大丈夫か?ぼーっとしていたぞ。顔もなんだか蒼いようにみえる。生まれて初めて感情を顕わにしたから疲れているのかもしれん、ここまでにしておこう。」
「あっ、ご……ごめ――」
言いかけた唇を姉の人差し指が塞ぐ。
「あやまるな、おまえは何も悪いことをしていないだろう?休もう。離れまで送っていく。ほら、背中に乗れ。」
「い、いえ、少しお庭をお散歩してから帰ります。すこし独りで考えたいことがあって。」
「そうか……?分かった。じゃあ気を付けて帰れよ。」
去り際にあいがシュベスターに尋ねる。
「おねえさま。先ほどのお話を聞いて思ったのですが……愛情は自分を癒すこともできるのですね……?」
「?……あぁ、愛情は攻撃には使えない、人を傷つけることはできない。その代わりに他者を、自分を癒すんだ。自分を癒せる程度は人によって異なるが、誰もが自分の愛情で自分を癒せるし、自分を癒してすぐに戦線に復帰できるものさえいる。
生まれと環境と才能がそろったものなら自分を常に癒しながら戦うものもいると聞く、これは噂程度だが。そんなやつがいるとすれば、よっぽど自分のことが好きなんだろうな。」
最後はすこしお道化て、アイを元気づけるように言う。
「……そうですか。ありがとうございます。」
自分より随分と背が低いのにいつも一生懸命見上げてきて、眼を見て話すアイが、シュベスターは好きだった。だが今はこちらを見ようともせずにお礼を言う。不思議に思ったが初めての自身の感情を形にしたことで疲れているのだろうと、素直に見送った。
◇◆◇
アイは茫然自失だった。働かない頭で何かを必死に考えながら。或いは考えないようにしながら、無心で中庭のほうへ歩いていく。
それがよくなかった。お母さまやお父さまにあったらいつも叱らせてしまうので、普段は細心の注意を払いながら、物音を気にして、両親に会わないように、家の中を歩いていた。顔と髪を隠すための、アイには大きすぎる外套と仮面も忘れてしまっていた。
「……アイ……てめぇ……なにしてんだ?」
すべてを切り裂くような声で呼ばれ、アイの身体がびくりと震える。恐ろしくて後ろを振り向けない。
「あ……あ……あの、お母さま、わたくしは」
「黙れ。耳障りな声をたてるな。今すぐ執務室にこい。」
返事をするとまた不快な気分にさせてしまうので、黙って頷いて母を追いかける。
◇◆◇
部屋に入った途端エレクトラに顔を殴り飛ばされて、床を転がる。震えながら小さな体躯をさらに縮こまられて横たわるアイの顔に、母の蹴りが何度も飛ばされる。声を出すとお母さまの気分を害してより手酷いしつけが待っているので、アイは口を両手で塞いで決して悲鳴を上げないようにする。
それはそれで苛つかされたエレクトラがより酷くアイを嫐る。暫くそのような時間が続き、アイの腹に仕上げとばかりに、一番大きな蹴りをいれたエレクトラが、今度はアイの長く美しい黒髪を掴んで無理やり顔を引き上げて、目を合わせる。
「テメェのそのクソみてぇな面と髪見せんなって何度も言ってるよなァ?あぁ?おい。外套も仮面も付けずによぉ……舐めてんのか?あぁ!?」
「もうしわけ……ありません、エレクトラさま……ゲホッ……。はじめて感情を表す術をならって……すこし……。」
「言い訳すんな、気色わりぃ。……あぁー、そういやぁシュヴェスターにオマエに心を教えろって言ったんだったなぁ……。……やってみろ。」
アイはここで上手くできたら生まれて初めて、母に産んでよかったと思ってもらえるかもしれないと思って、悲鳴を上げる身体にムチを打ちなんとか上半身だけ起こして座り込む。そして、手の中にありのままの感情を表す。
アメジスト色の粘っこく肌にこびりつき離れないそれは――
「……恐怖か。」
普段は暴力を振るう時にしかアイに触ろうとしない母が、アイの手のひらにねばりつくそれを触って言う。
アイは初めてお母さまが自分に触れてくださったと、さっきの暴力も忘れてうれしい気持ちでいっぱいだった。もう二度と訪れないかもしれない、親の肌に触れるというその僥倖を、決して逸することはないように、必死で母の体温を感じようとする。
そのためにそっと殆ど触れているかも分からないような具合で、母の手に触れた。あたたかい、これが、ぬくもり、これが。
「当てつけか?テメェ……。わざわざ恐怖なんて不快で気持ちわりぃモンを擦り付けてきやがって!しかもオマエの感情を!!」
「ち、ちがいま――」
「言い訳すんなつってんだろうがぁ!あぁ?!」
容赦のない拳がアイの顔面を襲う。そしてアイの華奢な体躯を簡単に入り口のドアまで飛ばし、叩きつける。
「きゃあ!」
咄嗟のことでいつものように口を押さえることもできず、全身の痛みから悲鳴をあげてしまう。
「苛つく悲鳴を聞かせやがって。ここまで来たらわざと俺を苛つかせようとしてんだよなぁ?!じゃあ望み通りにしてやるよ!」
「ゲホッゴホッ、け、穢れた声を聞かせてしまったのはわざとではないんです!けっして!エレクトラさまを怒らせようなどとは!けっして……ゲホッ」
エレクトラが感情を顕現させる。
黒い太陽のような激しく燃え盛るそれは、部屋中の全てのものを黒い光で照らし出して色を変えさせるそれは。アイの穢れた髪の色と顔の形を天の太陽の様に暴き出すそれは――。
「ぁ……いじょう……?」
一見憤怒の炎に見えるそれは、しかし誰よりも母を愛しているアイには分かった。分かってしまった。それが“母の愛”だと。でも。
「なんで……?」
いやおねえさまは、いっていた。愛は人を癒やすと。傷つけることはできないと。
――おかあさまはきっとあいをあいしてくださっていると。だからあいと名付けたんだと――。
「ぉああざま……」
泪を見せると余計に苛立たせてしまうと気づいた幼い時から、どんなにつらくとも決して泣かないと決めていた。もう何年も人の前でだけは泣いていない。
そんなアイの袖が濡れる。ぽろぽろと。殴られすぎてまともに声がだせない。でも、アイは歓喜していた。歓喜の調べが自分のもたれかかっているドアから聴こえてきていた。運命が後ろのドアを叩いてアイを急かす。
はやく運命を見ろと!お母さまはその愛をアイに与えて下さろうとしている。あいを、怪我をしたあいを、あいを癒やすために――!!
「オマエに愛を与えてやろう……。」
エレクトラが燃えさかる愛をアイに向けて放つ。
――ああ、おかあさま――。あぁ!……生まれて初めて……。
――?――!!!
いたいいたいいたいあついいたいいたい――!!
「きゃあああぁああ?!」




