45. 夏の昼の悪夢 A Midsummer Day’s Nightmare
《アァ……アイくんアイくん……!……あいしてあげるからねぇ……!ハァハァ……!》
アイは天井を眺めながら、昔のことを思い出していた。夏の匂いが彼をどこかへ運んでいた。過去に逃避していたのだ。ただ哀しいかな、彼を待ち受けていたのは、やさしく抱擁してくれる思い出などではなかった。
――それは、子どもの頃なくした玩具がしあわせな追憶と共に、ソファの隙間から出てくるように、思い出された。
――しかしそれは、鈍い痛みをもたらす、こころの奥底に隠していた、腐りきって悪臭を放つ、想い出だった。
夏の匂いがした。
◇◆◇
――それは蒸し暑い夏の日だった。蝉時雨が降っていた。
あるよく晴れた昼下がり、あいを視界に入れるのすら嫌うおかあさまが、あいに会いに来てくれた。本当にうれしくて、外から射す光をその背で遮るようにドアの前に立ち、決してあいの部屋の薄暗闇のなかには足を踏み入れようとしない、その足もとに駆けていった。そのまま足に抱きついてしまった。さっきまで親指をしゃぶっていたその手で。
「おかあさまっ!」
前にそうした時に、顔を蹴り飛ばされたことを思い出して、あわてて離れる。しかし、怒鳴り声も暴力も飛んでこない。不思議に思ったあいがおかあさまの方を見上げると、逆光で顔が見えない。
「あっ……たいへんもうしわけありません……えれくとらさま……。」
覚えたばかり言葉で、まだ舌っ足らずな口で、謝るがおかあさまは気にもとめていないようだった。そして顎で外をさして、ただついてこいとそう言った。あいはお気に入りの毛布をいそいで取りに戻って、それを抱きしめながらついていった。
あいは不思議でずっと首を傾げていた。そもそもおかあさまが部屋に会いに来てくれることが初めてだった。そして、いつもはアイのことなどお構い無しに、大きな歩幅で歩いていってしまうのに、今は大きな一步はそのままだけど、たまに立ち止まって追いつくのを待ってくれている。アイを気にするように後ろをたまに振り返りながら。
「こっちだ……。」
そう言われて向かったのは邸宅の門のほうだった。ますます不思議だった。いつもは醜い姿が人目に触れることないように、別宅に隠れていろと言うのに、わざわざ手ずから外に連れ出してくれることが。いつもあい以外の家族がお出かけに出かけるのを、窓から見ていた。そこに加わりたかった。
夏の匂いがした。
――もしかして!お出かけ?おかあさまとふたりで!!いっしょに……!
うれしくなっておかあさまに、まとわりついて、周りを回ったりしながら、スキップしたりして、ふざけてついていった。おかあさまの服の裾をつかんだって、いつもみたいに殴られることはなかった。蒸し暑くても、蝉時雨さえも心地よかった。2人で涼やかな川に沿って歩いていった。
◇◆◇
「ここだ、入れ……。」
ミルヒシュトラーセ家邸宅近くの、白い森と呼ばれる森の中にある、人目につかない林のなか、一軒の小屋があった。そこの前で、おかあさまが扉をおさえながら、中へと導く。あいはさっき拾ったいい感じの木の棒を投げ捨てて、なかへ駆けていった。
打ち捨てられて久しそうなボロボロ具合だったのに、中に入るとベッドとクローゼットだけはピカピカなのが不自然だった。そして、小屋の隅に古ぼけた白いワンピースを着たちっちゃな人形があった。そんなことを考えてあいがキョロキョロしていると、おかあさまがクローゼットから取り出した綺麗な服を差し出した。純白の綺麗なワンピースと、女の子の下着だった。
「……?」
「着替えろ。」
お気に入りの毛布を抱きしめ、指をしゃぶりながら、あいが不思議そうにそれを眺めていると、おかあさまが催促する。あいは女の子の服だったのは不思議だったけど、おかあさまが何かをくれるのは誕生日にだってないことだったから、産まれて初めてのおかあさまからのプレゼントがうれしかった。
……ほんとうに、うれしかった。
お気に入りの毛布をあわててベッドの上に放り投げて、ボロボロの姿見の前で着替えようとする。でも初めての女の子の服と下着で、どう着たらいいか、どう着けたらいいかわからずに手こずってしまった。姿見のなかのおかあさまがそっとあいのうしろに立ったから、またいつもみたいにトロいと蹴られるんだと思った。
……けどそうはならなかった。おかあさまはやさしく服をうばい、手ずから着せてくれた。いつもおねえさまたちが着替えさせてもらっているのをうらやましくてみていたから、うれしかった。
そして、ワンピース姿になったあいを、何かを確かめるように鏡越しにみている。そして、頭に左手をおいてくれたので、うれしくてグリグリとこすりつけていると、
「動くな……。」
と言われてしまったので、あわててピタッと止まる。まだこどもでじっとしているのはつらかったが、両手で服をギュッと握り込み動かないようにがんばった。
すると次第にお母様の触ってくれているとつむじの周りから、あいの黒髪がピンク色に変わっていった。それはまるで、山桜のようなほんのりと赤みを含んだピンク色だった。
今のアイなら心でやったんだと分かるが、そのときのあいはおかあさまが魔法をつかったのだとおもった。魔法であいの髪をさくら色にしてくれたのだと。
「ふむ……よし。」
そして今度はあいのサファイアの瞳に手を翳し、その眼を黒色に変えた。陽の光の差さない夜のような、純黒に。
「わぁ〜!」
しかしアイが瞳をキラキラと輝かせたので、夜の闇に星明かりが浮かぶ。星月夜のような瞳だった。そのまま鏡の前でクルクルと回ったり、近づいたり離れたりしてみる。
あいにはなんでおかあさまが今日にかぎってこんなにやさしくしてくれるのか分からなかったが、しあわせだったからどうでもよかった。理由なんてなんでもよかった。ただ、いつもはこわい、おかあさまのやさしさがあたたかかった。
「おれは小屋の外にいるから、おまえはここにいろ……。これから女がひとり入ってくるが、くれぐれも粗相のないようにしろよ。」
「……?……はいっ!」
おかあさまとあそべないのはかなしかったが、ここまでしてもらったんだし、聞き分けよくいい子でいようとおもった。そうして少しの間、小屋の隅に置いてあったワンピース姿の人形を手に持ってみたり、窓から木に寄りかかるおかあさまを眺めたりした。自分だけ涼しい屋内にいて、だいすきなおかあさまを蒸し暑い外で待たせていることが、申し訳なかった。
◇◆◇
そうしていると、女の人が入ってきた。年はたぶんおかあさまとおんなじくらいだった。別の入り口があったんだ、こんなに小さい小屋なのに、とあいはおもった。
その人はあいを視界に捉えるとすぐに、目を妖しくギラつかせた。そして足早に近づき、ベタベタと身体に触ってきた。
「サクラ!!……あぁ……あの頃のサクラだわ……髪も肌も眼の色も……!“桜の森の満開の下”にいたあの娘のまま……!」
「あ……あの……?」
「アァ……声まで……あぁ、さくらぁ、桜、サクラ!」
「きゃっ!」
その人が急に、アイの服をはだけさせながら押し倒してきて、とってもこわくなった。だから、裸足のままで、乱れた服のまま、ドアを体いっぱい押し開けて、おかあさまのもとへ駆けた。
ちいさいあいにその女の人はほんとうにおおきくみえて、ほんとうにほんとうにこわかった。
「おかあさま!たすけて!!」
助けてくれると信じて――。
◇◆◇
夏の匂いがするたびに。
あの女の人の言葉が今でも脳髄にこびりついて離れない、逃がしてくれない。
《アァ……サクラサクラ……!……あいしてあげるからねぇ……!ハァハァ……!》




