39. 人間失格 ‐ 第二の手記 No Longer Human
「彼らのほんとうの子どもたちは、皆彼らに似て、ほんとうにやさしい人々でした……。完璧な家族にあとから不純物として生まれてきたわたくしなんぞに、ほんとうにやさしくしてくださいました。彼らほどやさしい人間を、わたくしは知りません。
まず、彼らの1番目の子である、ゲアーターおにいさま。
……わたくし自身も彼らをおにいさま、おねえさまと呼ぶことが、わたくしなんぞには過ぎたことだと、彼らを侮辱することだと、そう、わかっているのですが……未だに意地汚くそう呼んでしまうのです。お話がそれましたね……。
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ゲアーターおにいさまはいつもわたくしといて下さいます。そのことになんどこころを救われたかわかりません。わたくしが、世界に、人間に、自分の罪の影におびえていると、いつもわたくしのそばに来て、それを笑い飛ばしてくださるのです。おにいさまの背中に背負われていると、その肩越しに夕日を見ると、なんだかすべてのものから守られているような気がするのです。
……だから足を挫いてもいないのに、疲れたと嘯いて、あのおおきな背中に抱きついてしまうのでした。こちらに背中を向けて屈み込み、『しょうがないヤツだなぁ……』と言いながらも、わたくしが身体を預けるのを待っていてくださる、そのやさしさがしあわせなのでした。勢いよく抱きついて、あの背中に全身を預けるのが、しあわせなのです。
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エゴおねえさま……エゴペーおねえさまは、いつでもわたくしにあたえて下さいます。ご自身も重い持病を患っておられるのに、いつもわたくしのことをしんぱいしてばかりいるのです。そのしんぱいをほんのすこしでもご自分に使って頂きたかったのですが……わたくしは醜くも、いつもしんぱいしてくれることがうれしくて、あたたかくて、しあわせでっ……ついぞそう伝えることが叶いませんでした。
そして、『お母様にはナイショよ?』、といっていつもわたくしにやさしくして下さいます。人差し指を口に当てながら、わたくしにお菓子を差し出して下さる笑顔が、そのえがおが……わたくしはほんとうにすきでした。ナイショでやさしくしてもらうと、わたくしも家族の一員にしてもらったようにしあわせな勘違いができたのです。
だから、図々しくも、珍しくエゴおねえさまが床に臥せっておらず、外にいらっしゃるときは、いつもその服の裾をつかみ、その背中についていってしまうのでした。
……ふふっ……ここだけの話、エゴおねえさまの外に着ていくほとんどの服の裾が伸びてしまっているのは、わたくしのせいなんですよ……?
ほんとうは、ご病気だから安静にしていて下さいと言わなければならなかったのに……。構ってくれるのがうれしくて、だいすきなエゴおねえさまの体調よりも下劣な自分の欲望を優先したのです。
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そして、そして……おねえさま。アルちゃんも知っていますよね?うちの学校の風紀委員長を務めていらっしゃる、シュベスターおねえさまです。おねえさまは……おねえさまが2人いるのに、シュベスターおねえさまのことを、ただおねえさまと呼んでしまうようになったのは、おねえさまが誰よりもわたくしをあいしてくれたからです。
おねえさまはいつも、あいをみてくださいます。誰よりも、あいのこころを。自分にも他人にも厳しい方なので、こわいひとだとよく勘違いされてしまうのですが、わたくしの前ではほんとうにやさしいおねえさまです。
……わたくしがうまれてきてしまったという自身の罪を自覚し……自死をしようとしたときに、おねえさまのお顔がこころに浮かびました。そのとき気がついたのです。どれだけ思い返しても、やさしい顔しか思い出せないことに。どんなときでも、おねえさまはわたくしに……こんな醜いわたくしなんかに、やさしくほほえみかけてくれていたことに。それで死を思いとどまったのです。自分を愛してくれている人が、一人でもいると思えるうちは、たといそれが思い違いだったとしても、そう思えるうちは……その人をかなしませないために、いきていようと。だから、わたくしが今日まで永らえてこられたのは、おねえさまのおかげなのです。……永らえてしまったのは……かもしれませんね。だからといっておねえさまを責めないであげてくださいね……わたくしが勝手にそう思って、手前勝手に自殺をやめたのですから。
おねえさまはほんとうにあいを愛して下さいます。愛を伝えて下さいます。それは態度であったり、ことばであったり、こころであったり……おねえさまのいろんなところから、それを感ぜられます。……そうして1日、また1日と永らえてしまうのです。おねえさまの愛はぽかぽかと陽だまりのようにあたたかくて……ときどき申し訳なくなるくらいに……。わたくしは迷惑しかかけていないのに。何も返せていないのに……なんであんなにもやさしくしてくださるのか……不思議でならないのです。忌み子のわたくしなんぞにやさしくしても、おねえさまにはなんにもいいことなんかないのに……。むしろ、おねえさまが誰よりも愛しておられる、エレクトラさまと折合いが悪くなってしまうかもしれないのに。
おねえさまがどれだけエレクトラさまを愛しておられるかは、いちばんおねえさまのそばにいた、わたくしが最もよく知っています。固く繋いだお姉さまの手が、わたくしの手から離れていくのは、エレクトラさまと繋ぐためにはなすときだけですから。
他の人には分からないらしいですが、お姉さまはよく笑っておられます。朝露のなかで、照りつける昼の太陽の下で、夕凪とともに、わたくしといてくださるときは、いつも微笑んでおられます。その春の木漏れ日のような微笑が自分には向けられているのだと思うと、わたくしまで木漏れ日のもとに咲く花のように、価値あるものに思われてくるのです。
わたくしが病に臥せっているときなどは、おねえさまのほうが、病んでいるはずのわたくしより取り乱してしまいます。『何か食べたいものはないか、何か欲しいものはないか?』と、いつも慌てておられます。その時わたくしはいつも思うのです。“少し硬い貴女の右手のぬくもり”さえあれば、なんにもいらないと。それさえあればアイはどんな病気でも、すぐ元気になれるのですよ……と。
……そんなおねえさまに、いちばん迷惑をかけて生きています。そんな自分が許せないのです。なぜなら、エレクトラさまは年がいちばん近いおねえさまに、よくわたくしのお守りを言いつけます。心を初めて教えて頂いたのだって、文学界の性別のことを知ったのだって、エレクトラさまに言いつけられた、おねえさまに教えて頂きました。
……でも、わたくしが何か間違えるたびに、何かするたびに、何かできないたびに……おねえさまもエレクトラさまに怒られてしまうのです。悪いのはぜんぶあいなのに……。おねえさまが誰よりも愛するエレクトラさまに叱られることが、どんなにつらいことか……。なのに……なのに、もっとわたくしのこころを暗く締め付けるのは……そうやって叱られたときに、おねえさまは決してわたくしを責めないのです。責めてくださらないのです。出来損ないの弟のせいで、自分は何も悪いことはしていないのに、なのに叱られても、せかいでいちばん愛している人に叱られても……。決してわたくしを詰ってはくれないのです。オマエのせいで私まで怒られたじゃないか、そう言ってくだされば、どれほどよかったでしょう。
でもおねえさまは……おねえさまは、いつも2人で叱られて部屋から出たときにっ……こんなわたくしのっ……あいの頭を撫でて、『こわかったな、だいしょうか』と……優しい言葉をかけてくださるのです。やさしいこころをくださるのです。あまつさえ、『お母様はオマエに厳しいから、叱られそうなときは私も一緒に叱られてやる』とっ……そういって微笑んで、エレクトラ様の執務室から私の住む別宅まで、手を繋いで歩いてくださるのです。おねえさまだって子どもだったんです、きっとエレクトラさまに怒られるのはこわかったはずです。でも……そんなことはわたくしにはみせずに、ただ、手をつないで歩いてくださるのです。
わたくしはぶっきらぼうなおねえさまの……夕日に染まった帰り道の……つないだ手をゆらゆらと大げさに揺らしながら……その横顔をみるのが好きでした。大好きでした。いくらあいが手をゆらゆらさせても、決しておねえさまは手を離さないということを知っていたからです。それの手の揺れのなかに、どれだけわたくしが今よりもさらに醜くなっても、おねえさまは決してわたくしを見捨てないと言ってくれているように感じたのです。
たがらわたくしはおねえさまと帰っているときに、夕日を見たことはありません。それに照らされたおねえさまをずっと眺めていたかったからです……。」
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遠くを見やるようなアイの瞳、アルタークは、きっと彼女が夕日に照らされたあの頃の面影を追想しているのだろうと、その眼には今でもそれが映っているのだろうと……そう、思った。
「……わたくしが、アルちゃんにこそ、伝えたい、ほんとうの罪はここからなのです。……わたくしは、アルちゃんのように、以前まで平民だった友を、親友を……そのこころを壊してしまったのです。彼女の名は、今は彼と呼ばれるほうが多いですね……春日春日、アルちゃんも知る……あの人です。」




