3-③.信者と心者 The Believer und Die Herzer
突然、シュベスターがナイフを取り出し、唐突に自らの手を切りつけた。
「おねえさま!なにを!」
「覚えておけ、心者は自分の感情で自分を回復させることはできても、傷つけることができない。だからナイフを使ったんだ。」
「そうではなくて!お怪我を!」
「あぁ、お前の感情で癒してくれるか?お前は怒りをぶつけるのが苦手だろうからな。よい感情からはじめよう。」
そうこうしているうちにも手のひらから血が滴り落ちる。アイはますます焦る。
「どうすれば……!」
「さっきと同じように感情を現して、それを傷口に触れさせてくれればいい。」
「はい!」
おねえさま、おねえさま、いつもやさしくしてくれて、守ってくれて、あいをみてくれる、おねえさま――!
あいのシュベスターへの愛情が手の中に表れる。桜色をしてふわふわした、あたたかなそれを傷口に触れさせる。するとみるみるうちに傷口は塞がり、血は止まる。
「ほう……!お前の愛情は心地いいな。それに傷の治りも早く、普通はある不快感もない。お前はいい愛するものになるな。」
「Lieber……」
「そうだ、心者の中でも特に愛情を使い自分や他人を癒すことに長けたものをそう呼ぶ。
どの感情表現が得意かはほとんど生まれと環境によるものだ。訓練である程度は伸ばせてもな。
例えば、誰にも愛されたことがない者は誰も愛することができない。そもそも貰ったことがないものは人に与えられないだろう?」
「それはなんだか……かなしいことですね……。……?……ということは……あいも誰かに愛されたことがある……?」
シュベスターがぎょっとして言う。
「何をいっている!ゲアーターもエゴぺーも……それにお父様……お母様だって!お前を愛してくれているだろう!そ、それに……わたしも……おまえを……」
はにかみからほとんど音を発しなかった最後の言葉は、かなしいかなアイには届かなかった。
「……お父さまとお母さまが……?そんなことがあるのでしょうか?いつもアイのせいで怒らせてばかりですし……なによりも本当はなかよしな、お父さまとお母さまの喧嘩の理由はいつも、いつもアイです……。どうしてこんな人間を愛して下さるでしょうか……?」
「そんなことはない、アイという名だってきっと、お前を愛しているから付けたんだろう。今度聞いてみるといい。これは決してお前を安心させようとWhite Lieを吐いているんじゃないぞ。」
◇◆◇
お父さまとお母さまがほんとうにお互いを愛し合っていることは、あいが一番よく知っていた。この世でいちばんうつくしいそれを誰よりも渇望しているからだ。それを眺めるのが好きだった。あいは両親にいつまでも、いつでもなかよしでいて欲しかった。
でもそんな慈しみ合う二人の喧嘩の原因はいつもアイだった。両親の期待に沿えなくて、怒らせてしまう。してはいけないことと分からないままやってしまって、怒らせてしまう。アイのやることなすこと、すべてが。でも何よりもアイのしないこと、できないことが、2人を苛つかせる。
アイは叱責されるたびに、自分は自分がこの世で最も幸せでいて欲しい人たちを、不幸にするために生まれてきたのかと思う。
なんでこんなに幸せな家庭に、恵まれた環境に、やさしい親の元に、完璧なきょうだいたちの後に、自分のようなゴミ屑が生まれてしまったのか。
アイはいつでもそのことが不思議だった。やるせなかった。許せなかった、自分が生まれてきたことが。自分が嫌いだった。憎んでいた。愛すべき人たちの幸せを貪り、彼らのお金で生活をする穀潰し。
そんな奴が嫌いだった。そんな自分が憎かった。許せなかった。生きていることが。愛しい人々の生活を壊しながらものうのうと飯を食っていることが。
でも……しぬのはこわかった。ほんとにこわかった。こわくてたまらなかった。こんなことを考えていながらも皆のために一番いいことができないのが嫌だった。愛する人々を幸せにする唯一の方法が、それがわかっているのに、こわいだなんて自分勝手な理由で、それをしない自分が嫌いだった。
自殺できない自分が恥ずかしかった。こんなことを考えていても、家族の幸せを破壊するよりもっとこわいことがある自分が憎かった。
そうだ。アイはこわかったのだ。おこらせることよりもにくまれることよりも。ただ見放されるのがこわかった。それがいちばんこわかった。おまえはもういらないと。
『おまえ、なんでここにいるんだ?』
と聞かれることがこわかった。
友達に当然誘われたと思って行ったのに、
『お前なんで来たの?』
と言われるような孤独。同種の孤独、しかし絶望はその比ではない。家族に望まれて生まれてきたと思ったのに、おまえなんで生まれてきたの?と言われるのは。
理由が、恩恵がなくてもいっしょにいたかった。おかあさまといっしょに。おまえがいても嫌な気分にはならないと。とるに足らないものだと。そういってほしかった。あいしてほしいなんておこがましい。でもせめて、そばにいたかった。役に立ちたかった。
なのにおかあさんをなかせるのはいつもあいだった。ほかのみんなはできるのに。あたりまえにできるのに。教えられなくてもわかるのに。なんであいにはわからない?いっぱいかんがえたのに、たくさん本をよんだのに。それがしりたくてよんだのに。生きてるだけで人を嫌な気分にさせられるのに、どんなにがんばっても人をしあわせにはできないんだ。
なんで。なんで……。おかしいじゃないか、ゆるせない。なにがゆるせないのかもわからない。ゆるしてほしい。だれにゆるしてほしいのさえわからない。なにもわからないんだ。でもゆるしてほしいことはあるんだ。ただ、生きていてもいいよって、そばにいてもいいよって。
あなたが生きていてくれるとうれしいよなんて望まない。ただ、あなたが生きていても嫌な気分にはならないよって。自分の人生を後悔しないよって、あなたを生んだことは正解じゃあなかったけど、大きな間違いでもなかったって。もう手をあげたからってだきしめてもらおうなんて図々しいことは望まないから。みているだけでしあわせだから、だから――。
◇◆◇
「アイ!」
姉の声で泥の中から目を覚ます。
「おねえ……さま。」




