3-②.信者と心者 The Believer und Die Herzer
これではまるであいは言葉の信者というよりはむしろ――と、ここまで考えてシュベスターはそれでなにも問題がないことに思い至った。
「そうか、いい心がけだな。まぁお母様の言うことに間違いはないし、それでいいか。……では早速やってみるか。」
「はい!」
「よし……じゃあ、身体に触るぞ……。」
シュベスターはアイの後ろにまわり、その小さな体躯を抱きすくめるような恰好をとった。そして両手でみえない球体を支えるような形をつくる。
「ごほん……では私のこの手の内側に手を重ねてくれ。」
「は、はい」
「よし……今何を感じている。」
「おねえさまの体温があたたかくて……心地いいなと」
「げふっ……そうだなお前の抱き心地も匂いもいい……じゃなくて、感情のことだ。」
「あっ……すっすみません……。」
アイとシュベスターはお互い顔を赤くして目を泳がせる。
「そうですね……これは……このあたたかさは、ここちよさは……これが、しあわせというものでしょうか……?」
アイがはにかみと共に感情を言葉にする。
「っ……よし、まずは一番簡単な、その時感じている感情をありのまま形にするんだ。」
シュベスターは一瞬驚いたがその鉄仮面を保ったまま指導する。
「高いところから下に感情を降ろしてくるイメージだ。頭の上から幸福が降ってくるような感じで……。」
最初天国からしあわせが落ちてくるようなイメージをしていたアイだったが、それでもたらされるのは得も言われぬ苦しさだけだった。身体がぶるりとふるえて、どこかに逃げ出したくなる。アイは考えた。
――くるしい。
「帰りたい……。」
帰りたい……?どこに?あいのおうちはミルヒシュトラーセ家なのに。
「アイ?大丈夫か?」
姉の声が深く沈んでいたアイの思考を現実に引き戻す。
「は、はい。すみません……なんだかうまくできなくて……。」
なにかをとても恐れているという震えた声音だった。
「……?……謝るな……何も悪いことをしていないだろう。それに最初からうまくできるやつは稀だ。ゲアーターだってそれはひどいもんだったらしいぞ。」
安心させようとおどけた口調で言う。
「そうなんですか……?」
「あぁ……今度聞いてみろ、毎回アイツに嫌な顔をさせられるからな。」
「ふふっ、だめですよ?いじわるは。」
「仕返しだよ、アイツもよく揶揄ってくるからな。そうだな、どんなイメージをしている?」
「高いところと聞いてイメージしたのが天国だったので、天球の上の天国を考えました。」
「ふむ……そうだな……すこし現実味に欠けるのかもな。天国には行ったことがないだろう?在るのかもわからない。」
「はい……多分行ったことはないです。」
「多分?恐ろしいことをいうな、私が保証してやる、お前は生まれたときからずっと兄姉といっしょだっただろう?」
「そうですね……そうです。」
「心を具現化するといってもな。なにもお伽話の不思議な力を使うんじゃない。感情とは元々確かに現実に存在するだろう?イメージをもう少し現実的にしてみろ。」
「は、はい。」
高いところ……頭の上、屋根、雲の上、空、快晴の青い空……空……空……そこから朝が降ってくる……あいの頭の上に……!
ふわりとアイの手の中でやわらかな何かが踊っている、レモンイエローのそれは、儚く、揺蕩う、今にも消えてしまいそうなそれは――。
「……これがあいのしあわせ……。」
「そうだ!よくやったなアイ!」
感極まったようにシュベスターがアイの頭を撫でる。
「わっわっ。あっありがとうございます……でもこれはおねえさまのしあわせとは色も形も違います。おねえさまのはもっとピンクで硬そうで……。」
「しあわせのかたちは人によって違うからな。何をしあわせと呼ぶのかすら。だろう?」
「つまり同じ感情でも生み出す人によっていろいろな色や姿がある……?」
「そうだ。あいのしあわせは、確かに不安定で儚げで……でも綺麗だ。」
「あっありがとうございます……あ、あの!おねえさまのしあわせも!……きれいでした。」
「ふふっ、そうか?ありがとう。感情の姿は人によってさまざまだ。炎のような怒りもあれば、燃えるような愛情もある。涙のようなかなしみもあれば、海のような喜びだってある。
液体だったり気体だったり、固体だったり……波の形……つまり光や音なんてのもあるらしい。本当に人それぞれだ。使いようも自分の感情の表れ方に合わせたものになる。」
「そうでした……使うんでしたね、これを……。」
アイは自分のしあわせを愛おしそうに抱きしめる。
「あぁ、お前には気乗りしないかもしれないが。感情はそれが好感情か悪感情かによって使い方を大別される。
なぜなら、怒りや憎しみはそれに触れた者を傷つけ、愛情は癒すからだ。つまり、心者は敵に怒りをぶつけ、憎しみを与える。そして、輩に愛情を捧げ、喜びを与える。そうして戦うんだ。」
「他人に自分の感情をぶつける……そんなことをして、恐ろしくはならないのでしょうか?」
「最初はな、だが皆戦ううちに慣れて感情を使うことを厭わなくなる。感情を他者にぶつけているうちに、誰も彼も感情に敬意を払うことをしなくなるんだ、いちいちそんなことをしていたら先に他人の感情に殺されてしまうからな。」
アイのしあわせはいつのまにか、どこかに消えていた。まるでそのちいさな手のひらには大きすぎたかのように。
「でも……。」
アイの悲しそうな顔を見て、姉はすこし――他人が見ればわからないだろうがアイだけにはわかる――すこし、微笑んだ。
「そんな顔をするな……アイ。」
膝をつき目線を合わせ、あいの頬をやわらかく撫でる。
「感情を思うままに表現できるようになれば、お母様ももう少しお前を認めてくれるかもしれんぞ?」
「おかあさまに……!わかりました!」
“お母様”という魔法の言葉で、あいのそれまでの逡巡や感情を他人にぶつけることへの躊躇が吹き飛ばされた。
突然、シュベスターがナイフを取り出し、唐突に自らの手を切りつけた。
「おねえさま!なにを!」




