17. 車輪の下へ Unterm Rad
さらにザワザワとする教室を尻目にかげろうはアイをさらってスタスタと歩いていく、アイのちいさな歩幅に合わせながら。誰もいない踊り場で、かげろうが立ち止まった。
「かげろう?……どうしたの?」
突然アイを抱きしめるかげろう。
「わわっ……ふふっほんとうどうしたのさ、甘えん坊さんなのかな〜?」
微笑を浮かべ遥か高い位置にあるかげろうの頭を背伸びしながら撫でてみる。
「学校ではなかなかお話できないので、せっかく同じ学び舎にいるというのに……。」
「ふふっ、かげろうったらさみしかったの〜?よしよし、かげろうくんはいい子ですね〜。」
「アイ様っ!俺は真剣なんです。」
「ふふっ、ごめんごめん、かげろうがかわいいから、ついね?」
袖口を口に当てて、いたずらっぽく笑うアイ。
「アイ様……。」
「それで、ほんとうにさみしかっただけ?」
抱きしめられながら、聞いてみる。
「それもありますが、1つお耳に入れたいことがあって、影の委員会、というものを聞いたことはありますか?」
「ああ、あの裏で人間体の生徒を取り締まる、獣神体だらけの秘密の組織っていう……?」
「知っておられましたか。それです。その委員会なのですが、実在します。正式名称は人間体排斥委員会。構成員はトップに獣神体、幹部に数人の獣神体、そして、水面下にかなりの数のノーマルがいます。此れは生徒会長をしているしらぬいに確認したので、間違いないでしょう。」
かげろうは、アニマ排斥という単語を聞いたとき、アイの華奢な肩が震えたのを見逃さなかった。アイの肩に、とても脆いものを、壊れてしまわないように触るように、触れる。
「そんな……。」
アイは震える上目遣いで随分身長差のできてしまった、かげろうを見つめる。
「アイ様……お気持ちは分かります。アイ様はお優しい方ですから。入学してからも、ノーマルであってもたとえ人間体であっても見下すことなく、対等に扱っておられる。その故もあって、天使と呼ばれているのも知っています。だからこそ、アイ様の御心を傷つけると知りながら、このことをお伝えしました。アイ様を守るためです。」
何かに縋るようにかげろうの服の裾をつかむ。
「ど……どういうこと……?……かげろう……?なんで、わたくし、を守る必要が、あるの……?」
自分が性別を獣神体だと偽っている卑怯な人間体だと、かげろうに、一番知られなくない人に、知れてしまったのかもしれない。
「アイ様は、獣神体でありながら、人間体にもノーマルにも分け隔てなく接します。そのことが、よくないのです。」
バレては……ない……?とアイは思った。でも疑問が残る。
「なんで、みんなとなかよくしちゃダメなの……?」
「……アイ様。この国では人間体差別は根強いものです。特に貴族連中には、それが正しいことなのです、正義なのです。特権階級に獣神体が、その下にノーマル……そして、被差別階級に人間体がいるということは、都合がいいのです。貴族連中にとって。つまりは、国政を担う人々にとっては。」
「……そ、それは、わかるよ。おかあ……エレクトラ様が言ってた。自分より下がいるんだってことで安心させて、市民の不満が溜まって特権階級に批判が来そうな時には、人間体こそが社会の悪を作り出しているっていって、矛先をそらすんだって。……そうやって、下の者同士で争わせていれば、国の運営は上手くいくって……。その為に地獄の分割統治を参考にして、差別作ったって、そう言ってた。」
かなしみをたたえた空色のサファイアの瞳が、もともと垂れ目なのに、さらにかなしそうに目尻を下げる。
「ええ、そうです。平民は知りませんが、貴族連中はみんな知ってます。だから、問題なんです。」
「どういうこと……?」
「国をそうやって治めてきたミルヒシュトラーセ家の人間であり、御自身も獣神体でいらっしゃるアイ様が、相手の性別が何であっても態度を変えずに対等に扱うということは、この国の社会構造の今回を揺るがしかねないのです。
実際アイ様と話したことがある平民や人間体は皆、アイ様の陣営に下り、現状の社会構造への不満を育てています。このままでは、彼らに偶像として祭り上げられるかもしれません。」
「わたくしは、陣営などというものは作ったことなんて、ない、けど……。」
「彼奴等にとってはアイ様の意思など関係がないのです。ただ自分たちの主張を強くする旗本が欲しいのです。彼等はおおよそ権力や権威というものとは程遠いですから。最高権力者の家の者でありながら、エレクトラ様に親性を剥奪され、傍から見れば対立しておられるように見える貴方は最高の神輿です。」
「そんな……わたくしはおか……エレクトラ様に楯突くなど滅相も……。」
「ええ、貴方がどれだけお母様を愛しておられるかは、近しい者なら知ってます。……ですが、市井の者は自分が受け取る情報だけで勝手に、自分にとって都合のいい物語を作ります。そして、問題はそんな人間達に担ぎ上げられることではないのです。真なる問題は……そいつらと敵対する者たちに、敵とみなされることです。」
「それって、つまり……エレクトラ様に……?」
「ええ、ですがエレクトラ様だけではありません。辺境伯派の人間、獣神体たち、人間体排斥主義者達、彼等からもです。そして、そういった性差別主義者達は往々にして、能力の高い獣神体や権力者達です。
その者達がアイ様を疎ましく思えば、その強大な能力や政治力……そして腕力にまかせてアイ様に危害を加えようとすれば……大変危険なことになります。
……俺は、俺はそれが心配なのです。……勿論俺は絶対に貴方を守り抜くと誓いました。あの日に。ですが、陽炎家の力、俺の力を持ってしても、侮れないほどに、奴らは権力者ばかりです。」
「そ……そうだよね、だってその差別こそがこの国を発展させて……そんな国で権力を持つってことは、差別主義者になるしかない……。ねえ、かげろう……わたくし、こわいよ……わたくし、どうすればいいの……?」
「安心して下さい。俺が必ず護ります。ですが、俺たちはクラスも違いますし、いつでも側にいて御守りするということはできません……悔しいですが。ですので――」
2人だけの空間を築いていたアイ達の間に、人を馬鹿にしたような声が割って入る。
「おやおや、ミルヒシュトラーセのアイ様と不知火陽炎連合のかげろう様が揃って逢引ですか?アイ様には番がいたと思うんですが?」
その者の眼は2人を咎めるように射抜いていた。アイの身体が寒さに怯えるように震えたのを、かげろうは見逃さなかった。
「はるひくん……。」
「はるひ……!」
春日春日だった。小さかった上背はずっと高くなり、常にアイを見下す高さになっていた。その顔は、昔の笑顔からは想像できない、薄ら笑いを浮かべていた。
「どうしたんだよ、アイちゃんそんなに怯えて、君の愛しい番が来たんだぞ?浮気したのが後ろめたいのか?」
ツカツカとアイに歩み寄る。
「黙れはるひ……アイ様はオマエの番じゃないし、パートナーでもない。」
アイを背中に庇うかげろう。
「いやいや、何言ってんのかげろう?私とアイちゃんのカ・ン・ケ・イ、知ってるでしょ?」
「黙れ……それになんだその口のきき方は。」
「何言ってんの?幼馴染じゃん!……ね!……アイちゃん……。」
「ひっ……。」
「おいっ!」
「アイちゃん……?番を放ったらかしにしてさぁ?他の獣神体にひっついて?密会してさぁ?その反応はないんじゃないの?」
「ひっ……わ……わたくしとはるひくんは獣神体同士対等な関係なはずです……!わたくしが何をしていても、それを咎める権利は……」
「ふーん?そんなこと言っちゃうんだ?あのこと、バラしちゃおうかな〜?」
「ひっ、やめてください、それだけは……。」
「じゃあ、どうしないといけないか、わかるよね?」
「はるひ……お前……!」
「かげろう!……わたくしはだいじょうぶだから……。はるひくんと、少しお話ししてきます。」
「アイ様……!」
「ふん、最初からそう言えばいいんだよ。こっちおいで……。」
「かげろう……またね……。」
アイの手を引いて大きな歩幅で強引に連れ去るはるひ。その一歩の大きさに、アイは転げないように、必死でちいさな足を動かす。
◇◆◇
誰もいない教室に連れ込まれ、壁に押し付けられる。はるひの全身からは苛立ちが立ち上っていた。
「はるひ……くん。」
「どうしたのアイくん?今は2人だけなんだし、昔の呼び方で呼んでよ。」
それは懇願というよりは、命令だった。
「はるひ、ちゃん。」
「うん、なーに、アイくん?」
「怒っているのですか……?なんで――」
「なんで?……怒らないわけないよね?そこまで馬鹿だったのかな?アイくんは?」
おおよそ自分より高位の貴族相手だとは思えない言動。
「はぁー……私言ったよね?ほいほい他の獣神体について行くなって、アイくんは言いつけも守れない馬鹿な、人間体なのかな?」
「はるひちゃん!……その事は言わないで下さい!誰かに聞かれたら……!」
「獣神体に命令するんだ?人間体風情が?」
「はるひちゃん……どうしちゃったんですか……?お母様が人間体であるということだけで、差別されることに、一番心を痛めていたのは、貴女じゃないですか。」
「……どうしちゃった?それを貴方が言うの?私から……お父さんとお母さんを……全部を奪った貴方が……!」
はるひは獣神体の圧を怒りにまかせて放つ。とうてい脆弱な人間体であるアイには耐えられない。崩れ落ちてしまいそうになるが、アイの足の間に差し入れられたはるひの足がそれを許してくれない。
「ひぅっ……。」
「アイくんさぁ……忘れてるんじゃない?私にこうやって獣神体の匂いを移して貰わないと獣神体のふりすらできないんだよ?」
子どもが自分の所有物に名前を書くように、自分の匂いをアイに擦りつける。
「ひっ……ひっ……。」
獣神体の圧と匂いで人間体は怯えきって、呼吸さえままならない。暫く身体を擦り付けられた後、漸く解放されたアイはズルズルと座り込んでしまう。肩で息をするアイを見下しながら、恍惚とした瞳で言う。
「……これで、誰が見ても、匂っても、君は正真正銘、獣神体にしか見えないよ。……よかったね?これでまた一日乗り切れるね?」
眼を白黒させて茫然としているアイ。
「チッ……返事はぁ?」
舌打ちに大袈裟に身体が反応してしまう、それはいつもはるひがアイをいじめるときの合図だからだ。
「は……い、ありがとう……ございます。」
「よし!それでいいんだよ。いつも私のことを考えて……私への感謝を忘れないようにね……アイくん。」
急に手を合わせて上機嫌になるはるひ、聖別の儀以降、はるひの感情の起伏が全く読めないことが……はるひのこころが分からなくなってしまったことが、アイには恐ろしかった。
聖別の儀の前は、お互い上っ面しか知らなかったからお友達でいられたのだとしても、たとえ表面的なものでも、友達でいることの価値は損なわれないとアイは信じていた。こころの全てをさらけ出した者たちだけを、友と呼ぶのならば、この世の友の数は著しく減ってしまうだろう。
学校に入ってからのいちばんのなかよしのアルタークちゃんには、家の悩みなど話せてはいないし、人間体であることも隠してる、でもだからと言って、彼女とアイがほんとうの友でなくなるということはないのだと信じている。たとえ会うのが教室でだけでも、一緒にどちらかのお家で遊んだことがなくても、アイにとっての友達とはそういうものだった。ただ話をして、うなずき合って、笑い合う。それがアイにとっての友達だった。
「アイくんさぁ……今何考えてた?」
冷や水を浴びせるような声でアイを思考から引き戻す。
「え……あぁ、えっと、お友達のことを。」
「チッ……アイくんさぁ、今目の前にいるのは、誰?」
正面に屈みこんで光のない眼でアイの心を覗いてくる。
「?……はるひちゃん、です。」
体格差からアイの身体はすっぽりと覆われて隠されてしまう、まるではるひが誰の眼にも触れさせないぞ、とでも言っているかのように。
「そうだよねぇ?貴方の唯一無二の番、貴方の獣神体が目の前にいるのに?他の奴のことなんか考えちゃうんだ?」
「ひっ……で、でも……わたくしとはるひちゃんは正式に番というわけでは……わたくしは申し出を断りましたし――」
「黙れ……人間体が、番の獣神体に口答えするな。」
「っ……。」
怯え切ったアイを視界に捉えたまま徐に立ち上がり、教室の扉へと歩いていく。
「まぁいいよ、でも……今度他の獣神体に近づいたり、2人きりになったりしたら……分かってるよね?……じゃあね~!急いだほうがいいよ、昼休み終わっちゃうし。」
――人間体排斥委員会、偶像……はるひちゃん。どうすれば、いいんだろう?
――今度こそ、絶対に、間違えないようにしないと……。




