15-②. パンドラの箱の底の残りもの No Longer Human.
兄姉たちに元気をもらい、春日家に謝罪に赴く決心がついた。罪悪感が始終アイを押し付けていた。
しかし、門を開いてすぐに土下座しようとするアイを制止して、『よくきたな』と言ってくれる。
しゅんじつもひまりもやさしかった。『お互い様だから気にしなくていいのよ』、と。性別を偽って生きることに協力してくれるとも、一緒に学校に通うようになるはるひに、しっかりとアイを守るように言いつけてくれるとも、言ってくれた。
はるひの人生の重荷になるから、と遠慮したら、番同士の獣神体が人間体を守ることは、獣神体の責任だといって押し通されてしまった。番でいるのが申し訳ないから解消したいとも言い出せなかった。
ひまりにいたっては、『同じ人間体として困ったことがあれば何でもいってね』、と『本当のおかあさんだと思ってね』とも言ってくれた。しゅんじつも『はるひの人間体になるのなら、うちの家族になるのも同然だ』、と言ってくれた。
そのしあわせが恐ろしかった。ほんとうは責めてほしかった。詰ってほしかった。そうしたら許されるような気がしたから。でも与えられたのは罰ではなく、しあわせだった。
――しあわせは逃げない。しあわせがわたくしから逃げたことはない。いつもわたくしがしあわせから逃げるんだ。しあわせが恐ろしくなるのです。
◇◆◇
しあわせに追い詰められた、ある秋の午後の昼下がり、紅葉の黄色の降りしきるなか、ベンチに座って息を吐く。地を覆いつくす紅葉の海に、飛び込んでしまおうかと、浮いた足をゆらゆらさせながら考える。
山吹色に塗りつぶされた世界に独り座っていると、“桜の森の満開の下”ですべてを投げ出したことを思い出す。あの桜色のなかで消えてしまえたなら。舞い散る桜の花弁がひと刹那この眼を覆ったとき、それが視界から去ったときに、わたくしも一緒に虚しくなってしまえたなら。しあわせだったんだろうか。
花が永遠に咲くのなら、それはうつくしいのだろうか?青嵐にさらされ、踊り散ることがないのなら。色を失った人の往く道を自らの亡骸で彩らないのなら。人々は花をうつくしいと愛でるのだろうか。愛するのだろうか。もし、移ろいを知らない花弁よりも、徒花にこそ一瞬の永遠を見るのなら。人々のこころに深く根を挿すのならば。わたくしはそうなりたいのだろうか?
もし、今度こそおかあさまのために生きることが叶うなら。わたくしはそうしたいのだろうか?もしまた、“おかあさまの夢”と、“わたくしの愛する人々の安寧”が、二律背反となったとき。わたくしは、どうするのだろう。どうするべきなのだろうか。
人々の善意を食いつぶしながら生きるべきか、人々に迷惑をかけないで死ぬべきか。
おかあさまの人生を奪いながら生きるべきか、自分の人生を全うして死ぬべきか。
やさしくしてくれる人たちを蔑ろにしながら生きるべきか、彼らに報いて死ぬべきか。
“生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ”。
膝を抱えてそこに頭を埋める。暗闇の泥濘に浸っていた。暫くして葉を踏みしめる確かな足取りを聞いた。ぎしりと音を立ててベンチが軋む。わたくしが座ってもこの木は音の一つもたてなかったくせに。音のしたほうを見なくてもわかる。吐く息が白く染まる。
◇◆◇
「かげろう……。」
「……アイ様。」
かげろうも獣神体になってしまった。かげろうもはるひも随分と大きく成長してしまった、わたくしだけを取り残して。たぶん最初からそうだったのだろう。だけど同じように三人で笑い合えると、無邪気に勘違いしていた頃が懐かしい。性別が決まる前から、わたくしなんぞ二人の友には値しなかったのに。しあわせな思い違いだった。
紅葉を散らし、暗い地の色を暴いて去る色なき風に凍えてしまう。そうして小さくなって震えていると、ふわりと肩になにかをかけられる。
……あたたかい。それを幼子のようにぎゅっと抱きしめてしまう。
「アイ様、ここは冷えます。どこかあたたかいところへ参りましょう。せめてあちらの陽だまりのなかにでも。」
「……やだ。」
陽だまりがこわい。明るさがこわい。太陽がこわい。木漏れ日がこわい。それはわたくしと他の人との違いを暴きたてるものだからだ。
でも、日陰もこわい。暗闇もこわい。夜の帳もこわい。花曇りもこわい。それはわたくしと皆との境界であるからだ。
人と居るのがこわいのに、独りでいるのもいやだ。ほんとうに生きることに向いていない。人間に向いていない。太陽に向いていない、向日葵のようだ。そのくせ、向日葵のようにうつくしくもない。
「アイ様が、わがままを言って下さるのははじめてですね……?不思議といい心持ちです。」
「わがままじゃないもん。あいは獣神体だから平気だもん。こんな寒さ平気だもん。あいはつよいんだもん。」
唯一の友にさえ性別を偽るわたくしは……。
「……不思議ですね。アイ様は獣神体となられて、以前より強くなられたのは分かっているつもりですが、この地の刈安色と空の浅葱色に押し込められた貴方は、天に溶けてしまいそうな儚さがある。」
「あいはつよいんだよ。泣いたりしないし……男だから泣いちゃいけないんだよ?獣神体なんだから、弱音なんて吐いちゃいけないし。」
「ふふっ、おかしいですね?以前シュベスター様に講義をして頂いたとき、貴方が言ったのですよ?性別に強い弱いもない、ただ違いがあるだけだと。
……自分の性別が変わって、その御心までもが変わってしまったわけではないでしょう?貴方は、自分が強い立場にたった途端に弱きを蔑ろにするような方ではない。」
「かげろうは、あいを買いかぶりすぎだよ。あいは生まれてからたくさんひどいことをしてきたし、自分のこころを汚すようなことだってした。はるひちゃんにだってひどいことをしたんだよ。あなたの大切な幼馴染に。」
「たしかに近頃アイ様とはるひのやつが仲たがいをしていることは知っています。一度の大きな喧嘩が原因だとも、詳しくは誰も教えてくれませんが。
でも、人間を定義するのは、何も最悪の瞬間ってわけでもないでしょう?ずっと人にやさしく生きてきた人間が、たった一度追い詰められた絶望の淵で悪態を吐いたら、その人はひどい人になるんでしょうか?その人の長い人生の中で、“最悪の人間だった瞬間”が、その人のすべてを決定づけるのでしょうか?みんながみんなが地獄の“聖書の中のヨブ”の様には生きられないのです。」
「あいだってそう思うよ!人間を定義するのは、“最悪の瞬間”じゃない。ましてや、“最高の瞬間”なんかでもない。自分が幸せな時にだけ人にやさしくするなんて、誰でもできるんだから!
でも人間の本性が表れるのは、“つらいとき”だと思う、“不幸せなとき”だと思うんだ。自分がつらいときに人にやさしくできるのが、ほんとうにやさしい人だってそう思うんだ。あいは自分が追い詰められた途端に、人を傷つけるような人間なんだよ……?」
「アイ様、俺はそうは思いません。その人がどんな人間かを定義するのは、普段の、“なにげない日常”だと思うんです。だって、人生のほとんどはなんでもない日々なんですから。
アイ様の言う通り、自分に余裕がある時だけ善人になる人も、自分に余裕がない時に人に当たり散らす人間もいると思うんです。でも彼らだって普段は、普通の人間なんです。いらいらしてるときに、舌打ちをしてしまったからって、それで貴方が悪人になるわけじゃない。これまでの人生全てに黒い光が射すわけでもない。だって人生とはそんな一つの行動で変わるほど柔くはないのですから。
人生とは大樹です。大樹のような積み重ねなのです。年輪を一つまた一つと積み重ねていくのです。その樹が生き生きとした葉を蓄えるかなんて、うつくしい花を咲かせるかなんて、我々のあずかり知るところではありません。それはきっと寿命が来たときにのみ分かるものでしょうから。
だから、いま貴方が人生に絶望しているからといって、これまでの幸せだった瞬間瞬間が意味を失うわけではありません。ありえません。今貴方が希望に満ちた人生を歩んでいるからといって、かなしい思い出を殺す必要などないのです。そのどちらもが今の貴方を創り上げたものなのですから。
なんて……すこし説法臭かったですかね?アイ様に少しでも近づこうと日系地獄人の書物を読んでみたのです。」
「ううん。ありがとう。もう少し考えてみるよ。あいがこの命をどうゆうふうに使いたいのか、おかあさまのために使いたいのか、それとも……ってね。」
◇◆◇
前で紅葉の葉が踏みしめられる音がした。膝から顔を離して、眼を開くとかげろうがベンチの前に跪いていた。




