13-③. 妻と母 the Child Hater and Lover
「……ひ、ひまり、さん。ありがとうございます。わたくしのなんぞのために。はるひちゃんを傷つけたわたくしなんかのために、戻ってきて頂いて……。やさしい心を砕いて下さって。わたくしにはそんな資格なんかないのに……。でも、違うんです。」
「アイちゃん!だいじょうぶ!?……アイちゃん……?」
ひまりはアイを抱きしめ、愛情で包み込む。ひまりの心に包まれたとき、声を上げて泣いてしまいたかったが、抱きついて縋りたかったが、母のためにそれよりもやることがあった。言うべきことが、あった。
「違うんです。おかあさまは、わるくないんです。おかあさまは、……おかあさまを責めないであげてください。どうか。おかあさまは被害者なんです。しあわせな家族を持っていたのに。おとうさまとしあわせな夫婦でいたのに。お兄さま、お姉さま方という、かんぺきな子どもに恵まれたのに。
わたくしが……わたくしが……産まれてしまったんです。しあわせな夫婦だったのに。かんぺきな家族だったのに。わたくしのせいで、おかあさまはいつもつらい思いをしているのです。全部わたくしのせいなんです。わたくしの……。産まれたという原罪なんです。おかあさまはなんにもわるくないのに。わたくしの罪の罰を、おかあさまが背負ってしまっているんです。
おかあさまはほんとうはやさしい人なんです。わたくしのせいでいつもこわい顔で怒らなくちゃいけなくなるんです。わたくしは知ってます。お兄さまをやさしく抱きしめているのを、何度もみたことがあるんです。お姉さまの頭を慈しみに満ちた手で撫でているのを、わたくしはいつもみていたんです。うらやましかったから。
でも、だからしってるんです。おかあさまがもし、もし他の人からはひどい人に見えるのだとしたら、全部わたくしのせいなんです。わたくしがのうのうと生きているからなんです。おかあさまの苦労なんて知らずに……今日も生きながらえてしまったからなんです。
おとうさまに向ける笑顔は、ほんとうなんです。おとうさまとおかあさまが、ほんとうはなかよしなのに、けんかをしてしまうのは……いつもけんかをさせてしまうのはわたくしのせいなんです。わたくしさえいなければ、おかあさまはほんとうに、しあわせなはずだったんです。おかあさまは、おこっていないときは……いえ、わたくしにとっては、おこっていても……天使のような方なんです。
わたくしが、あいが、産まれたからぁ……。産まれてきちゃったからぁ……。あいが、あいがいきてるからなんです。ほんとうは、しってたんです。あいがおかあさまのほんとうのこどもじゃないことなんて。ほんとうはしってたんです。エゴお姉さまは必死で隠そうとしてくれていたけど、ほんとうはサクラって人のこどもなんだって。その人の話をするときのおかあさまの眼と、アイをみるあかあさまの眼がいっしょだったから……!
ずっとしっててしらないふりをしてたんです。しるのがこわかったんです。それをみとめたら、おかあさまのこどもじゃなくなるような気がして。こわかったんです。しらないふりをしていたら、ずっとおかあさまのこどもでいられるとおもったんです。わたくしのすがたが、おとうさまともおかあさまとも……ちがうから……!ぜんぜんちがうから……!!ほかのきょうだいとだって、にていないから……!ずっと、ほんとうはわかってたんです。
でも、じぶんのために。おかあさまのこどもでいたいっていう、自分勝手なりゆうで、見ないようにしていたんです。ほんとうは、しってたんだよぉ。あいが、あいが、ちがうって。そうじゃないって。でもこわくて、どうしょうもなくこわくて……!おかあさまのこどもでいられなくなるのが……おねえさまたちのおとうとでいられなくなるのがぁ……!みんなのかぞくじゃなくなるのが、ごわぐてぇ……おかあさまが、おかあさまが、あいのおかあさまじゃなくなるなんてやだったから……!
だから、おかあさまのことをいじめないであげてください。あいの、あいのおかあさまなんです。おかあさまなんだよぉ……。おかあさま、あかあさまぁ……。」
2人の母は、まだちいさなこどもの号哭を聞いた。その子の瞳は涙を流せなかったが、喉は音を発せなかったが。その心からの……無声の、慟哭を聞いた。
◇◆◇
「アイちゃん……アイちゃんアイちゃん……!そうだよね、そうだね。おかあさんは大切だよね、大好きだよね。だって、おかあさん、なんだから……!」
ぎゅううと自分の愛情ごとアイを抱きしめる。
「エレクトラ……様。アイちゃんのことばを聞いて、この子のこころを聞いて、それでもおんなじ気持ちのまま……?それとも、なにかを、感じたの……?」
ひまりがエレクトラを見上げる。彼女はずっと、大海に突き刺さった石柱のように、ピクリともしなかったが、突然眼を光らせた。
怒りの心で――!
◇◆◇
「テメェら黙って聞いてりゃあ調子に乗りやがって……。言うに事欠いておれがクソみてぇな母親だと……?母親失格だと?ふざけんじゃァねぇ。
おれは5人もガキを育ててる、てめぇみてぇに1人しかガキがいなくて楽してるやつには分からねぇだろうなぁ!
ゲアーターとシュベスターにゃあほんとうに愛を注いできた!!愛してきた!!それにあの阿婆擦れの糞餓鬼ども……エゴペーとアイにだって住む場所と飯をやってきた。糞ビッチの面影のねぇ、オイディプスに似て生まれた、エゴペーに至っては愛してやってすらいるんだぜぇ!!こんなにいい母親がいるかよ?!あぁ?!いねぇだろうが!!あの糞売女と瓜二つの息子に厳しくするぐれぇなんなんだよ?!ちいせえことだろうが?!育ててやってんだからなぁ!!
テメェはいいよな?あぁ?貧乏貴族の弱小な家の人間なんだからなぁ?背負うもんもなんもねぇ、気楽なご身分だよなぁ??家は国を背負ってんだ、テメェらボケ貴族どもにゃあ想像もできねぇ責任があんだよ!!おれは獣神体なんだよ!糞低けぇ繁殖能力で、ガキが2人できたのだって奇跡だ!!
あるか?後継ぎと国の繁栄のために、嫌がる夫に無理やり『他の女に抱かれてきてくれ』って、頼んだことがよぉ?!繁殖力のたけぇテメェらお気楽な糞人間体によぉ!!ねぇだろうが!!どんな糞みてぇな気分か知らねぇだろう!!他の女に犯されて!涙を流す自分の夫を慰めたことがあるか!?そうやって夫を泣かせて作らせたガキなんざ愛せるわけねぇだろうが!!
おれらはそんな国の存続に関わる重圧の上で生きてきたんだ!!母親ができてねぇぐれぇなんなんだよ?!こっちは仕事をしてんだよ!!完璧になぁ!じゃあすこしぐれぇ母親に手を抜いても許されるだろうが!!」
ひまりは、決して反論をしなかった。国政を担う貴族と、獣神体としての重圧は、平民生まれで、人間体の自分には想像もできないだろうと思ったからだ。
「それに、アイ……テメェも言ってくれたなぁ……?おかあさまをいじめないでだと……?塵屑に庇われることがどれだけ苛々することか分かんねぇのか?!テメェなんぞに庇われたとあっちゃあおれの名前に傷がつくんだよ!!
それに、知ってただと……?……知ってただと?!!テメェ自分がおれの子じゃねぇと知りながら!!よく今までのうのうと生きてこられたなぁ?!この穀潰しが!!よく今まで家の資産を食い潰せたもんだ!!おれのガキじゃねえと知りながら!!」
◇◆◇
いつの間にかエレクトラの手には、先刻のアイの憎しみの短刀とよく似た、しかし遥かに大きな憎悪の剣が握られていた。アイを包んでいたひまりの愛情を、その切っ先で突き破り、アイの額に突きつける。
「動くなよぉクソ女。まぁ動けねぇと思うがなぁ……!」
ひまりの身体はいつの間にかエレクトラの憎悪によって身動き1つ取れないほど縛り付けられていた。
「……!」
「アイ……眼を閉じろ……。今際の際ぐらい、テメェの言葉を聞いてやる。……眼を閉じろっつってんだよ!!」
最期の瞬間まで。母の姿を眼に焼き付けておきたかったアイは、決して目を閉じなかった。すると何時もファントムがするように、エレクトラは憎悪の布で愛するオイディプスと同じ、空色をしたサファイアの眼を隠す。しかし、ファントムとは真逆の理由で。
「最期に言い残すことはァ……?」
――ああ、ありがとう。ひまりさん。
「――産まれてきて、ごめんなさい。
……産まれて、こなきゃよかった――。」
「――じゃあな、アイ。」
そして、エレクトラは、息子に向けて、憎悪を振り下ろした――。




