12-④. こころ Kokoro
「愛なんだよ!!この世のすべては!!この世でいちばんうつくしいものは!!おれはそれさえあれば何にもいらないのに!いいじゃないか!優しくしてもらえるんだから!愛してもらえるんだから!!愛があればなんだってできるんだから!名誉や地位じゃ愛は買えないんだから!!愛がすべてなんだよ!!!
――あぁ、憎い……愛されてるやつが。愛されて当たり前だと思いあがっているやつらが――。あぁあああ!この!人間野郎がぁああ!!」
◇◆◇
アイはいつの間にかこの場の全ての場所に心を配っていた。こころをもつものとしての力のなせる業だろう。そのアイのこの世の全てを憎んでいるような、それでもこの世のすべてをかなしんでいるような感情に晒されて、ひまりは涙を流していたし、しゅんじつも胸に深く何かが突き刺さるのを感じていた。
けれども、豹変したアイに妙な既視感を覚えてすぐに、自身の感情で自分の周りを覆っていたオイディプスと、アイへの憎しみを身体に纏い防御しているエレクトラには、アイの感情は届かなかった。
エレクトラの纏ったアイへの憎しみが、アイの感情がエレクトラに触れる前にそのすべてを歪めていたのだ。こうして、拒絶され歪められ、アイがほんとうにことばを、こころを伝えたかった人たちには、伝わらなかったのである。
だが、そのときオイディプスは気が付いた。ずっと感じていた既視感に。自分の息子が誰かを傷つけようとするのをみるのははじめてだったから、今まで気が付かなかった。
――人を傷つけようとするときのアイは、口調から行動まで――アイと接するときのエレクトラに、哀しいほどそっくりだった。
◇◆◇
影の位置がおかしい――とはるひは気がついた。
さっき迄アイの後から太陽の光が差し、アイの影を前に、はるひの影を後に伸ばしていたのに。今では向かい合うお互いの後に影が差している。まるで、2人の間に遥かなる光源があるかのように。
ハッとしてはるひは上を見上げる。両手をあげたアイと座り込んでいるはるひの頭上に、アイのごちゃ混ぜになった感情が、黒い太陽として顕現していた。アイがゆっくりと両の手を下ろしていく。
「オマエに愛を与えてやろう……。」
いつかエレクトラがアイにそうしたように、アイもはるひに黒い太陽を降らせる。それに包まれたはるひはあまりのアイの絶望の濁流に獣のような悲鳴を上げていた。アイはただ黙ってそれをみていた。
悲鳴が止んだ時、其処には満身創痍になったはるひが斃れていた。アイはゆっくりとそれに近づき、暗い夜の色をした感情のちいさな短刀を手に握りしめ、その刃を、なんとか身体を起こした敵に向けた。
短刀の柄にはルビーのような怒りが付いていた。アイの目までもが、普段のサファイア色ではなくその瞳を流れる心によってどす黒く濁っていた。
――そして、自分があのとき母にぶつけられてもっとも苦しかった感情を敵の頸もとにあて、自分が母に言われてもっとも傷ついた科白を言った。
「オマエみたいなゴミ、生むんじゃなかった。」
そして憎悪の刃を振りかぶった――。
◇◆◇
――そのとき、見えた。見えてしまった。はるひの瞳に映る、母親そっくりの自分の姿が。自分は決してああやって人を傷つけることはしないと、心に誓っていたのに。今の自分はまるで母親みたいな言葉で、母親みたいな行動をしている。
「!……!!……あ……あぁあああぁ……。」
頭を抱えて一歩二歩と後ずさる、母親の幻影から離れるように。しかし、それは決して自分を逃がしてはくれない。
――なんで?おれは……わたくしは決して、おかあさまにされて育ったことを決して、人にはしないと誓っていたのに。それをするような人間にはならないと思っていたのに。気が付けば同じことをして、大切な人を傷つけている……。わたくしは一生逃れられないのか?
親に傷つけられて育った人間は、自分の大切な人に同じことをするようになるのか?それしか人との接し方をしらないから?わたくしは、わたくしは、なんてことを、こんなこころで、こんなことばで、はるひちゃんを傷つけて、それで。
気分が良かったんだ。どうしようもなく。高揚してしまった。ひたすらに気分が良かった、他人を傷つけるのは。他人に自分のこころをぶちまけるのは……。今まで人につけられた疵が癒えていくようだった。今までわたくしを傷つけてきた人間たちも……おかあさまもこんなきもちだったんだろうか?こんなにしあわせだったんだろうか?わたくしは人を傷つけてしあわせを感じるような人間だったのか……?
ちがう、ちがう、わたくしは。わたくしは……。わたくしはおかあさまの子だけれども、決しておかあさまのようにはならない……そう決めていたのに。
◇◆◇
「はるひっ!」
アイの思考が中断される。子を愛する母親の声によって。どうやら娘の身を案じたひまりが、居ても立っても居られず、儀式の場に入ってきてしまったらしい。しゅんじつも遅れて追いついてくる。
「お……ゲホゲホっ……お゙があ゙さん゙……。」
「はるひっ!大丈夫!?」
母に抱きかかえられる娘。
「おいっ!ひまりっ!すぐ離れるぞ、儀式の邪魔になる!この儀式のためにどれだけ手を回したと思ってるんだ!」
夫が妻を引き戻そうとするが、母は一向に動かない。
「アナタ……よく見て、春日家の家長としてじゃなく、父親として、いまのはるひを……。」
ぼろぼろになって抱きかかえられている娘を見る。父親としてのしゅんじつの眼には、それが映った。
――…………あぁ……。今まで家族のためと言って、妻と娘にはつらい思いをさせてきた……。1つの夢がご破算になるぐらいなんだ。そんなことより――
「……。はるひが、この世でいちばんたいせつだ。そうだよな、そうだ。ありがとうひまり、俺に気づかせてくれて……。俺はお前たちを幸せにしたかったお前たちの将来を幸せなものに……でも今のお前たちを蔑ろにしたんじゃあ違うよなぁ……。」
父もそっと娘を抱きしめる。親の愛情ではるひが包まれて、少しずつ、たが着実に傷が治っていく。はるひはさっき迄とはうってかわって、しあわせな表情をしている。あんしんな後部座席で全てを親に任せて、船を漕いでいる子どものような顔だ。
◇◆◇
アイはただ1人――周りに誰も居らず――ただ独りでその光景をみていた。気がつけば膝をついていた。憎悪の短刀もその切っ先から雲散し空に還りつつあった。
その光景を見ていると、そのこの世でいちばんうつくしい光景を目の当たりにすると、アイの中の憎悪が天国へとほどけていくのだった。
そのまま身体の力が抜けていき、地面にぺたんと座り込んでしまう。その光景をみる以外にどんな力も使いたくなかったのだ。
空を覆い尽くし地面を濡らしていたアイのかなしみも止んで、雲間から差した光が、うつくしい家族の愛を照らし出していた。そしてアイは、いまだ自ら生み出した雲の影にいるアイは、ただ死を待つ断頭台の前の死刑囚のように、跪くしかできなかった。
それは彼には一生手に入らないものだったからだ。
◇◆◇
「アイ!!!何をしてやがる!トドメを刺せ!!」
泥濘を切り裂く、自分の母親の声。自分のそばではなく、遥か後方から。目の前の光景から目をそらさず、その声を聞いていた。
「おれの役に立つんだろうが!!役に立って愛されるんだろうが!!速くトドメを刺して、獣神体になるんだろう!!おれに愛してほしいのだろうが!!おれにオマエを産んでよかったと!!一度ぐらい思わせてみろ!!!」
その言葉を聞いたアイは、目線をうつくしい愛からそらして、太陽の光を、アイの悲しみの雲によって遮れ、アイの哀しみの泪が染み込み、暗い闇の色になった地面を眺めていた。
そして、徐に、陽だまりの中にいる家族に向けて、傷だらけの身体で……ふらふらと右手を伸ばした。
「あ……アイちゃん……!」
ひまりが、アイを恐ろしいものをみる目で睨めつけ、そして自分の子を庇うようにさらにぎゅっと抱きかかえる。それをみたアイの身体がびくっと跳ねる。そして陽だまりに伸ばしていた手をしずかに、暗闇の地面の上に、投げ出した。
しゅんじつにはさっき伸ばしていた手が助け求めているように見えた。だから、ひまりとは逆にアイに優しい眼差しを向け、ゆっくりと歩み寄る。自分の上に人の影がさしたのに気づいたアイは、断頭台の上に置いていた頭を上げて、上目遣いでその人物を見やる。その瞳はこの世の全てを見てしまったような諦めと、この世の何ものをも見たくないという絶望に縁どられていた。
「ぁあ……あ、がすっがすが……じゅんじづざま……ぁ。」
はるひに殴られすぎて、喉が潰れているらしい。ということは、先ほどまで聞こえていたアイの心の叫びは、この場を支配していたアイの心から発せられていたらしい。
しゅんじつは全てのかなしみが凍りついたような瞳をした、しかしそれ以外の全てがかつて焦がれたサクラの面影を宿すその子を、みていた。そして、ふと、辺りに桜の花が散っていることに気がついた。
◇◆◇
アイと家族とのすぐそばに、いつのまにか、おおきな桜の樹が立っていた。その樹木から絶えず桜の花弁が降っているのだった。それは地面を覆い尽くしていた。しあわせな家族のいる陽だまりにも、独りのアイがいる暗闇の地面にも、等しく降り注ぐのであった。もう地面のすべてが桜色になってしまった。すべてを染め上げる桜色のなかで、ただ愛し合う家族と、独りのアイだけが、其処には在った。
アイはそれを認めると、それを口に出すと、自分が死ぬしかないということは分かっていた。自分が生きていくには、母の、父の役に立ちつづけて、絶えず延命をするしかないのだと、これまでの生涯で、痛いほど知っていた。
知っていたのだ。自分のような家族の癌が、生きていていい唯一の免罪符が、使える息子で居ることだけだったのだ。しあわせな家族の元に不純物として“産まれてしまった罪の唯一の償い方”を、“たった1つのアイの希望”を、1つしかない“生きていてもいい言い訳”を、アイは手放そうとしていた。あんなにそれにしがみついていたのに、執着していたのに、それはするりとアイのちいさなてのひらからこぼれおちてしまった。
◇◆◇
――あぁ、それがなんだと言うんだ。自分が親に愛されたいからって、生きていたいからって……死ぬのがこわいからって、このしあわせな家族までも壊そうとするのか?わたくしは。産まれたときに自分の家族のしあわせもこわしたのに、また繰り返すのか?
ただ、あいされたかった、だきしめてほしかった。おまえをあいしているぞって。そう、いってほしかった。てをあげたらだっこしてほしかった。みんなみたいに。プレゼントなんてほんとうはいらなかった。うまれてきてくれてよかったって、そのことばだけが、そのこころだけがほしかった。どうしようもなくほしかったんだよぉ……。わたくしにはもったいないものだってわかってたのに、ほしかった……。ほかのこみたいに、おかあさんがなぐさめてくれるからって、あんしんなきもちで、わんわんないてみたかった。こころのそこからないてみたかった。
でも、まちがってた。ともだちのしあわせなかぞくをうらやんでまで、こわしてまで、てにいれたいものじゃなかった。わたくしのように産まれたときからよごれたにんげんが。いきてるだけでひとにめいわくをかけるようなにんげんが。手をのばしたのが、まちがいだった。もとめたのが、まちがいだった。のぞんだのが、まちがいだった。あいしてほしいと、のぞんだのが。うまれてきたのが――。
◇◆◇
亡骸のようにまんじりともしないアイに、痺れを切らした“おかあさま”と、異変に気がついた“まま”が声を掛ける。
「糞がっ!何をしてやがる!さっさと殺せっ!プシュケー!!」
「アイちゃん……だいじょうぶ?」
そのことばがしっかりとこころに染み込むまで待って、アイが口を開く。
――“桜の森の満開の下”で。
「うまれてきて、ごめんなさい。……わたくしの、負けです。」




