12-③. こころ Kokoro
地獄から響くような――この世の全ての人間を不倶戴天のものとして、憎むような、いや今まさに憎んでいる声。
「ふざけんじゃねぇっつったんだよ。聞こえなかったか?それとも産まれたときから愛を囁かれてきたような尊き耳をもつ人間様には、おれみてぇな親に愛されたこともねぇ塵屑の声は聞こえねぇってかぁ?」
「アイ……くん……なの……?そのしゃべり方、その声……まるで別人――」
その場にいる誰もがその怨嗟の声をあげているのがアイだとは信じられなかった。エレクトラでさえ。ただオイディプスだけが、今のアイが誰かに似ていることに気が付いた。
「あぁ?おれはアイ・ミルヒシュトラーセだ。てめぇが一番よく知ってんだろう?おれが恵まれしミルヒシュトラーセだからボコスカ殴ったんだからなぁ?痛かったぜぇ……ボケが。」
アイが汚らしいものを遠ざけるように手を払うと、馬乗りになっていたはるひの身体が後ろに吹き飛ぶ。
「きゃっ!」
そして跪きなんとか立ち上がろうとしたはるひの顔面に、アイの全力の感情を纏った蹴りが飛んでくる。
「ぐぎゃっ!」
「いってぇだろうなぁ?でもテメェにボコスカ殴られておれの顔面も血まみれだし、おあいこだよ……っなあぁ!!」
顔を蹴られて仰向け倒れたはるひの髪を掴み、こんどは燃えるどす黒い怒りの焔を纏った拳を顔面にお見舞いする。
「っっぐぁ!」
「さっさと立てよ糞ビッチが、立たねぇならこっちからいくぞ……?」
はるひはなんとか自分の感情で顔をガードしながら立ち上がる。そしてアイはがら空きの腹に、かかとで怒りを爆発させて加速させた蹴りをぶち込む。はるひの身体が吹き飛び、儀式の場に生えていた木に背中からぶつかる。
「あーあー、なにやってんだよ、オンナノコなんだから腹ぁしっかり守れよ。ガキが生めなくなんぞぉ……?」
アイは普段の慈愛に満ちた笑みとは程遠い、ニタニタとした嘲笑と共に歩み寄る。
◇◆◇
「さっきは随分と言ってくれたよなぁ?あぁ?糞女が。愛しかない親より、愛以外なんでもくれる親の方が恵まれてる?親に愛されないことぐらいぃ?だっけぇ?――たかが親に愛されないことぐらい。ぐらいっつたよなぁ?テメェは。あぁ!?ふざけんじゃねぇ、ふざけんじゃねぇぞ……。
産まれたときからやさしい両親に愛されてぇ?恵まれてるテメェみてぇな奴がおれに、このおれに、愛情に飢えて喘いでる人間によく言えたもんだよなぁ?親に愛されてる人間ってのはさぞ偉いんだろうなぁ?あぁ!?愛されてねぇ人間を虚仮にできるぐれぇよぉ……。ふざけんのもたいがいにしろよ。愛されてるくせに!!愛されてるくせによぉ……!!
不幸自慢かよ!?親に愛されてる分際でよぉ!!両親に愛されてるやつが!!不幸なふりなんてするんじゃねぇよ!!親に愛されてて不幸なやつなんているわけねぇだろうがぁ!!いつだって愛を伝えてもらえるくせに!いつだって抱きしめてもらえるくせによぉお!!
自分の父親に気絶するまで殴られたことなんてねぇくせに!!自分の母親に、『お前みたいなゴミ生むんじゃなかった』、なんて言われたこともねぇだろうが!!自分をぶん殴ったその手で、他の兄姉たちの頭を撫でる姿なんて見せつけられたことねぇだろう!どんな気分しってるかぁ!?最高にくそみてぇな気分だぜぇ!知らねぇだろう!春日家の愛娘様はさぁ!!
母親の愛のある手料理を毎日食べられるご身分の奴が!いつも使用人になにか仕込まれてねぇかってビクビク独りで飯を食う孤独が想像できるか!行く先々でミルヒシュトラーセ家の忌み子としてのけ者にされるから、友達の1人もできずに!本を読んで読み漁ってその作者と友達になるしかなかったおれの気持ちが!外で遊ぶてめぇら友達持ちの奴らの笑い声を聞きながら、独りで本の中に逃げ込まないと生きていけない孤独がぁ!何にも知らねぇだろうが!!おれのことをなんにも!!!それなのによく言えたなぁ!?あの時言ったよなぁ!『独りで本を読むより、友達と遊んだほうが楽しいよ』って、そうへらへら嗤いながら宣ったよなぁ!!このおれをつらまえてよぉ!!
テメェは母親が自分の為に飯を作ってくれるのを恥じて、手伝いもしてなかったよなぁ!あのときによぉ!おれの料理が金持ちの道楽だと!!どう頑張っても親に愛されねぇから!なんとか愛してもらおうと!!独りで必死に親のために料理を作る気持ちが!!それを喜び勇んで持っていったら、目の前でゴミと一緒に捨てられた時のおれの気持ちが!『汚らしいからオマエの触ったものなんかくえるわけねぇだろう』って!!そう言って殴られて!蹲って見た地面の色なんて!お前には決してわからない!!ゴミに混ざった、親が喜んでくれると思って作った料理の臭いを嗅いだことがあるかぁ!?ねえだろうが!!なのに莫迦にしやがる!
愛されてるやつはみんなそうだ!!ふざけやがって!必死に愛を求める人間の姿を滑稽だと馬鹿にしやがる!親に愛されてることがそんなに偉いのかよ!?愛されたくて必死に親に媚びる人間を莫迦にできるほど!テメェらはえらいのかよ!?テメェらは運が良かっただけだ!何もしなくても“無償の愛”をくれる親から産まれたのが!そんなに偉いのか!!頑張って頑張ってなりふり構わず頑張ってぇ……!!恥も外聞も捨てて頑張って!親の役に立って初めて!産まれて初めて!そこまでしてやっと初めて!!“条件付きの愛”しかもらえない人間を嗤えるほど、てめぇらはなにかしたのか!!?無条件に愛されてるくせに!それを必死に求める人間を!!
てめぇは言ったよなぁ!親に憎まれてる俺を『かわいそう』だって!!ふざけんな!おれは!かわいそうなんかじゃねぇ!!愛されてるぐらいで、愛されてない人間を憐れむんじゃね!!そんなに偉いのか!?友達に!そいつが親に愛されてることをありありと見せつけられた友達に!『親に愛されてなくてかわいそう』っていわれたら、どんなみじめな気持ちになるかわからねぇのか!分からねぇんだろうな愛されていらっしゃる方々は!おれらみてぇな“かなしき人々”の気持ちなんて!!
いつも『親がこんなにかまってきてうざい』なんて話をされるたびに!かまわれたこともねぇのに笑って『わかる』って話を合わせるたびに感じる虚しさなんか!!くれよ!そんなに親がうぜぇんなら!!俺にくれよ!!生まれたときから愛されてる人間はそれがどんなに恵まれたことか!想像したこともねぇんだろう!!なんで親をうざがってる奴らが愛されて、親を愛してるおれが憎まれねぇといけねぇんだよ!!?おかしいじゃないか!!
やさしい兄姉がいるくせにだと!?きょうだいがいないから愛情を独り占めできるんだろうが!!他のきょうだいと自分の扱いの差を見せつけられる苦しみなんて知らねぇくせに!!自分だけ誕生日に!クリスマスに!毎年プレゼントがもらえねぇ気持ちがわかるか!?他のきょうだいは2個も3個ももらってるのに!自分の誕生日に毎年『なんでアイツを産んだんだ』って、両親が喧嘩する声に耳をふさいだことなんかないくせに!毎日毎日毎日愛情の差を見せつけられて!やさしい兄姉を、ほんとうにやさしくしてくれる兄姉を少しでも恨んだ自分を殺してしまいたいと思う気持ちがわかるか!?
男に産まれたくせにだと!?女に産まれたことがどんなに幸福かもしらねぇで宣いやがる!つらいことが、ほんとうにつらいことがあって、相談したら、父親がおれのことは『強くなれ』と殴るのに、他の女きょうだいが泣きつくとやさしく抱きしめているのを見るたびに!おれがどんなに娘として産まれてきたかったか!!おれが女だったら父親も愛してくれたのに!!てめぇが『スカートを履きたくない』と愚痴をこぼすたびに、おれがどんなに願ったって一度も着ることの叶わないそれを!おれの前でよく言えたもんだなぁ!?あぁ!?テメェらが毎日のように風に揺らしながら着ているスカートを。外套を腰に巻いて、それが揺れるたびに『もしスカートを履けたのならこんな気持ちになれるのかな』って、自分を慰める気持ちが分かるか!?テメェらが着たくねぇと愚痴をこぼしながら毎日のように着ているの見て!おれだったらたった一日、いやたった一時間でもそれを着て街を歩けたらそれだけで幸せなのに!!こんなくそみてぇな気持ち知らねぇだろう!?
『でも貴女が産まれてきてくれてよかった』って母親に抱きしめられながら慰められるお前に!!『お前みたいなゴミ生むんじゃなかった』って憎しみのこもった眼で言われるおれの気持ちが分かるわけない!!
家に誰かが帰ってくる音がしたらそっちに駆け出していくお前が!誰かの音がしたら自分の部屋に逃げ込むおれの気持ちなんか!家族の生活音に脅える俺の気持ちなんか分からないだろう!?『家に帰りたい』って思えるようなてめぇが!家にいるのに『かえりたい』って思うようなおれの気持ちなんか分かるわけないんだ!!
愛なんだよ!!この世のすべては!!この世でいちばんうつくしいものは!!おれはそれさえあれば何にもいらないのに!いいじゃないか!優しくしてもらえるんだから!愛してもらえるんだから!!愛があればなんだってできるんだから!名誉や地位じゃ愛は買えないんだから!!愛がすべてなんだよ!!!
――あぁ、憎い……愛されてるやつが。愛されて当たり前だと思いあがっているやつらが――。あぁあああ!この!人間野郎がぁああ!!」




