12-②. こころ Kokoro
ふざけやがって。どいつもこいつも、むかつく、業腹だ。腹が立って仕様がない。息をするのも億劫だ。この世の全部が私をいらだたせる。お父さんやお母さんでさえも――。
「あぁああああぁあ、ふざけやがって、お前に食らわせてやる、私のくそみてぇな感情を!!恵まれたボンボンには一生分からないだろう!!私たちが!!私が日々どんなにくそみてぇな気持ちですごしてるかなんてさぁ!!」
先に動いたのははるひだった。叫びながら様々な感情の入り混じったどす黒い色をした塊をアイに無手勝流にぶつけながら、近づいていく。
アイは頭に、身体に硬い感情をぶつけられ血が出ても、それでも動こうとしない。アイの眼前に迫ったはるひは胸倉をつかみ、どす黒い感情を宿した左手で顔面を勢い任せに殴りつける。自分の体勢が崩れることもお構いなしに、ひたすら殴り続け、力任せに顎を殴り上げたときに、アイは後ろに倒れこんだ。そのまま馬乗りになり、背中から感情の刃を嘔吐しながら、叫ぶ。
「ふざけないでよ!何時も自分がこのせかいでいちばんかわいそうだって顔をして!!金持ちのくせに!誰もが羨む貴族の家に生まれたくせに!金も地位も持ってるやつが不幸なフリなんかしないでよ!!金持ちに不幸な奴なんかいるわけないでしょ!!
なんだって買えるくせに!なんだって人に命令できるくせに!自分の親が他人に媚びへつらってぺこぺこ頭を下げる姿なんて見たことに癖に!!卑屈な笑みを浮かべながら胡麻をする姿なんてさぁ!偉い奴の前でそいつの子供と比較して親に自分のことを悪く言われる気持ちなんて!味わったことないでしょう!?ミルヒシュトラーセ家のご子息様はさぁ!!
糞貴族共に頭を下げられて生きてきたやつに!地を這いつくばって、生まれてからずっと誰かに頭を下げて生きてきた貧乏人の気持ちなんて!この苦しみが!屈辱がわかるか!?
私の母親が、他の母親どもに馬鹿にされねぇように!必死で頭を下げて借りた一冊を!その話をしたときに、アンタは!何の苦労もしらねぇアンタは!本なんて高級品が生まれたときから家に腐るほどあるアンタが!笑って言ったよなぁ!つらつら得意げに色んな本を読んだことを自慢して!本の一冊さえ糞女に頭を下げないと貸してもらえない、私のお母さんに!へらへら嗤って言ったよなぁ!!あの時の、お母さんの気持ちが!お偉い貴族の家に生まれただけのガキに、自分が必死で得たたった一冊を!軽々と飛び越えられたお母さんの気持ちが!あの時の私の気持ちが!アンタには分からないでしょう!分かってたまるもんか!お偉い貴族のガキなんかに!平民の出だぁ教養もねぇ貧乏貴族の妻だとほかの馬鹿貴族のくそ妻たちにいつも馬鹿にされても!それでも家族のために必死に話を合わせようと!少しでもうちの助けになろうと!くそ女どもの集まりに出かけていく母親の背中を見たことはあるか!?ないだろうなぁ!?アンタの母親はこの国で一番偉いんだから!
料理だってそうだ、ふざけやがって!お母さんが毎日家族のために!貴族なのに使用人を雇うお金もないから!金持ちの糞共に馬鹿にされながら!毎日毎日必死で作ってくれる料理を!生きるための料理を!寝転がってりゃあ勝手に飯が出てくる家に生まれたアンタが!アンタが金持ちの道楽で気が向いたときにだけやるおままごとと一緒にしやがって!馬鹿にしやがって!なんで人の気持ちがわからない!?台所に立ような下人根性の卑しい貴族だって馬鹿にされてる人が!この国でいちばんの金持ちの子供に生まれただけのガキに、同じだって言われることが!どんなに誇りを傷つけるかわからない!?
金持ちに生まれたのがそんなに偉いのか!?貴族に生まれたのが!?お父さんが私とお母さんのために必死で金をかき集めるのが!金持ちの屑どもに馬鹿にされながら必死でのし上がろうとするのが!がめついだと!?商人根性のけち臭い強欲貴族だと!?よく言えたな!よく人を馬鹿にできたな!
金なんだよ!この世は!金がなきゃあなんにもできない!服も買えない、家にだって住めない!!金がなきゃあ人に馬鹿にだってされる!嘲笑われる!金なんだよ!ふざけないでよ!
自業自得だぁ!?金持ちの親の股から出てきただけで!必死に金を欲しがってる人間を!“貧しき人々”を!よく自業自得だって馬鹿にできるよなぁ!金持ちの親の股から出てきたことがそんなに偉いのか!?私たちが何をしたって言うんだよ!貧乏生まれたことがそんなに大きな罪か!?一生運がいいだけの莫迦どもに馬鹿にされるほどの罪か!?
私のお父さんとお母さんは立派な人だ!人間だ!必死で家族のために頑張ってる!汗水たらして金を!生活を求めてる!それをなんで汗をかいたこともない奴らに馬鹿にされなきゃあならない!?ほんとうの空腹なんて感じたことない連中に!
なんでそんな両親を少しでも恥じた自分を殺してやりたいほど憎いと思わなきゃならない!?こんな気持になったことがあるか!?親を恥ずかしいと思ったことが!?ねぇ!ミルヒシュトラーセ辺境伯様ぁ!
かげろうと三人で遊ぼうとした時もそうだ!『お金がないからやめとく』っていった私にアンタ!なんていったか覚えてるか!?覚えてないでしょう!?金持ちにとっちゃあどうでもいいことだもんねぇ!『お金はアイが出すから』って、『お金の心配はしなくていい』って!対等だと思ってた友達に!友達にそんなことを言われたら!どんなにみじめな気持ちになるか!どんなに自分の家を恥じることになるか!どれだけ残酷なことを言ったか!!分かんないんでしょう!?お金の本当の大事さもしらない、産まれたときからの金持ち様はさぁ!!いつもピカピカの服を着てるあんたら2人に!自分の服が繕いばかりだって何時見透かさせるか怯えてる気持ちなんて!
何でも持ってるくせに!その上私からお父さんとお母さんまで奪おうとするの!?わたしのお父さんとお母さんなのに!!私にはそれしかないのに!!どれだけ欲しがれば気が済むの!?」
◇◆◇
――はるひがアイを殴りつけ始めてから、空が曇り、アイのかなしみの雨が降っていた――
アイは唯黙って感情を込めた拳で殴られ続けた、これは金持ちに生まれてしまうという罪を犯した、自分が甘んじて受け入れるべき罰だと思ったからだ。
アイは常に罰を求めていた。生まれてしまったこと、産まれてしまったこと、人より恵まれた立場にいること、なのに両親に愛されない自分を不幸だと思ってしまうこと。両親に暴力を振るわれたぐらいで、自分よりもっと不幸な人がいるということを忘れてしまうこと。その全ての罪に、罰を求めていた。だからはるひの拳を、心を、言葉を受け入れていた。あの言葉を聞くまでは――。
◇◆◇
「何とか言ってよ!今も見下してるんでしょう!いつも自分がこの世でいちばん不幸みたいな面してさぁ!国では一番偉い貴族の家に生まれてきてさぁ!金持ちの両親の元に産まれてさぁ!やさしい兄姉だっているくせに!
私に兄弟がいなくて、春日家に息子がいないことでどれだけ跡継ぎのことでとやかく言われてるか分かる!?それに男の子にだって生まれたのに!私が何度春日家の娘が息子だったらなぁって言われたか分かる!?“第1の性別を重視する馬鹿ども”にさぁ!!私がどれほど男に生まれたかったか分かる!?自分の母親に、泣きながら『貴女を男の子に産んであげられなくてごめんねか』って、謝られる気持ちがぁ!!!『でも貴女が産まれてきてくれてよかった』って慰められる気持ちがぁ!!わかんないでしょうねぇ!!アンタみたいに全てに恵まれた環境に生まれた奴には!
愛されなくても高価なご飯を食べさせてくれて、綺麗な服をくれるんだからいいじゃない!!なんでもくれるんだから!!いいじゃない!お金があるんだから!お金さえあれば何でもできるんだから!名誉だって地位だって金で買えるんだから!!金がすべてなんだよ!!」
最後の言葉と心と共に、最後の拳をアイにぶつける。そして、背中からゆっくりと外界に出てきていた、祈り虫の祈るような腕の形をした、心の刃が7つアイに向かって振りかぶられる。
――金持ちの両親のもとに産まれたくせに?何でも手に入るくせに?
「たかが親に愛されないことぐらいなによ!!愛しかくれない親より、愛以外なんでもくれる親の方が恵まれてるに決まってるでしょうがぁ!!!」
――愛しかない親より、愛以外なんでもくれる親の方が恵まれてる?親に愛されないことぐらい?
――たかが親に愛されないことぐらい。
はるひの背中から触手のように伸びた憤怒、嫉妬、傲慢などの心が形作った鎌の7つの刃がアイの全身を貫こうと、振り下ろされる。
◇◆◇
《……ふざけんじゃねぇぞ。》
はるひの心の刃が轟音をたててなにかに吹き飛ばされ、粉々になるまで潰される。
「……え?」
その言葉は自分の刃が壊されたことに対する疑問ではなかった。目の前の人間から、はるひの知るアイから、この世でいちばんうつくしい人間からは、おおよそ想像できない声が聞こえたからだ。
地獄から響くような――この世の全ての人間を不倶戴天のものとして、憎むような、いや今まさに憎んでいる声。
「ふざけんじゃねぇっつったんだよ。聞こえなかったか?それとも産まれたときから愛を囁かれてきたような尊き耳をもつ人間様には、おれみてぇな親に愛されたこともねぇ塵屑の声は聞こえねぇってかぁ?」




