11-④. こゝろ - お母様とお父様、ママとパパ、とわたくし Mother and Father & Mommy and Daddy & I
自分の両親に可愛がられるアイをみながら、はるひは穏やかではない気持ちだった。本人にはなんでそんな気持ちになるか分からなかったが、多くの感情が複雑に絡み合っての結果だった。
まず両親をアイに取られるんじゃないかというようなジクジクとした焦燥感。そして、アイが好きという恋心。アイの悲しい顔が見たいという欲望。
――そして、そしてあんなにも恵まれているくせに、なんで常に自分は世界でいちばん不幸ですというような顔ができるのか、という気持ち。
アイが、はるひが持つ、“あたたかい家庭”で、“やさしい両親に愛されている”という点に羨望を覚えているように、はるひもアイを羨んでいるのだった。まず“お金持ち”なこと。自分の家が貧乏貴族と莫迦にされているのはまだ子供のはるひにも嫌でも聞こえてくる。
――貴族のくせに使用人もおらず、自分で料理を作ったているような浅ましさでは品位も育たないと、大好きな母が陰口を言われているのは知っている。母の料理は大好きだし、母のことも愛しているのに、『ご飯ができたよ!』、と母に言われるたびにすこし自らの家を恥じる心が鎌首を擡げるのだった。そのことがほんとうに嫌だった。やさしい母が愛情のある料理を作ってくれることを、一瞬でも恥じる自分が、何よりも醜く思えた。
だのにアイは、国で1番金持ちのくせに、自分も料理をするんだと母に笑って言った。料理をしなければならないのと、余暇の手遊びに料理を楽しむことが同じだとでもいうように。違う。断じて違う。やらなければならないことをやるのと、やりたいことをやるのは。国で1番高位の貴族の、しかも子供に、自分が“毎日生活のために必死でやっていること”と、“金持ちの道楽”を一緒にされた時の母の気持ちはどんなだっただろう。想像できない、想像もしたくないのだ。親のそんな姿をみたくなかった。
お父さんだってそうだ。家族を幸せにするために、必死で地位を求めて、必死でお金を求めている。そんな父が守銭奴や、貴族にあるまじきががめつさだから商人にでもなれと馬鹿にされるのは許せなかった。貴族の地位は金で買えるが、品格は買えなかったようだと宣われるのが。
お金や名誉を必死で求める人をつらまえて、がめついなどと言う輩は、本当の意味で困ったことがないのだろう。一度でもお金がなくて困った経験があれば、恥を偲んで、名誉を捨ててでも、お金を工面しなければならない状況になったことがあれば、いや、一度でも“ほんとうの意味で腹をすかしたこと”があるのならば、そんなことは言えないはずだ。
金も地位も自分の親が金持ちだったからという理由だけで零れるほどもってるやつらが、嫌いだった。そんなやつらが、金がないことに喘いで必死で金を稼ぐ人間に言うのだ……薄ら笑いをしながら……言うのだ。
「そんなに金のことばかり考えて、虚しくならないのか?」
「金よりもっと価値のある事、哲学・思想・文学・自然・神、そして友のことをもっと考えたらどうだ。それこそが“金なんぞ”より人生を豊かにしてくれるのだから」
ふざけんじゃねぇ。ぶち殺すぞ。自分たちは金持ちの癖に。生まれたときから持ってるくせに。
哲学に勤しみ、思想に耽り、文学に親しみ、自然と対話し、神を信じるなんて、金持ちの道楽だ。金と時間に余裕があるからできることだ。
したくないわけじゃないんだよ。金がねぇんだ……そんなことにつぎ込む。時間がねぇんだよ、んなことを考える。いつだって“今日の飯”と“明日の生活”のことを考えなきゃならないからな。そんな未来のことなんて、“10年後の自分の為に”学問に励めだの、来世のために祈れだの、貧乏人には今日しかねぇんだよ、明日が今日になってから考えるんだよ。今日は今日のことで手一杯なんだから。
貴族の御綺麗な御言葉遣いを覚えるのだって苦労したのに。心のなかで口がわりぃことぐらい見逃してくれよ。こちとら平民の出なんだよ。
そして友を大切にすることだって……私たち貧乏人だって友だちを大切にしたい。でも家の金の問題と友がぶつかったとき、金をとるしかないんだよ。したくてしてるんじゃねぇんだよ……そうしなきゃあ飯も食えず死んじまうからだ。友だちを大切にしたい、私たち貧乏人だって、それはほんとのことなんだ。それだけはしんじてくれよ。いくら馬鹿にしたっていい。でもそれだけは……しんじてよぉ。
尊敬する父が金のために上司の子供にへこへこと媚びへつらってる姿なんて見たくなかったよ、私だって。最近お母さんが金もねぇのに、英国系地獄人の本を読んでるのだって、ほんとはミーハーだからじゃないなんて知ってるんだ。
くそたけぇ本なんて高級品を、しかも地獄文学の本なんて高級品を、わざわざわたしの友達の母親に頭を下げて借りてるのは、内心虚仮にされながら借りてるのは、ホントは娘の為だって、お父さんの為だって知ってるんだ。
お母さんが貴族じゃあ当たり前の教養の地獄文学の話についていけなくて、金持ちの話題を何にも知らなくて、母親の集まりでいつも馬鹿にされて、笑いものにされてるなんて、知ってるんだ。
だってお母さんは泣いてたんだから、娘の前じゃ何時も『楽しんでくるわね』っていって出かけるくせに、『だれだれさんがよくしてくれね』って、『みんな平民の出のお母さんにもやさしくしてくれてね』って……そう、言うくせに。笑って言うくせに。
……泣いてたんだ。私を寝かしつけた後に、あの……夜に。お父さんに縋りついて、もう行きたくないってもう耐えられないって、いつもいつもいつも金持ちにしかわからないことをわざと目の前で話されて、馬鹿にされて、自分が教養のない莫迦だと思われるのは仕方ないけど、それではるひやあなたまで馬鹿にされるのが許せないって、そういって、泣いてたんだ。わたしの前じゃ泣いたことなんかないのに。
お父さんだって本当は行かせたくないはずなのに。なんどもお母さんに謝って。金もコネもない春日家みたいな貧乏貴族がやっていくには、お前にそういう場所にいってもらうしかないんだって、本当に悔しそうに。すぐに俺が春日家の地位を上げて、そんなやつらを黙らせてやるからって、それまでの辛抱だからって。親が自分に隠れて泣いてる姿なんて見たい子供がいると思うか?
少しでも話を合わせられるようにって、恥を忍んで頭を下げて、やっと借りた一冊を。その一冊を何度も何度も読み返しているお母さんにアイくんはなんて言った?
これ見よがしに色んな地獄文学者の名前を数え上げて、本なんて一回読んだら捨てるものだとでもいうようにいろんな名前を挙げて、得意げに。あのときのお母さんの気持ちはどんなだっただろう?生まれたときからなんでも持ってる子供に、自分がやっとのことで借りた一冊を、軽々しく扱われた大人の気持ちは。娘の前で娘の友達にそれを味わわされた母親の気持ちは。
娘の前だからって知恵を絞って、高位貴族の息子にできるだけ対等に話そうとする父親の気持ちは。どんなだっただろう?生まれたときからなんでも持ってる貴族には、生まれたときからなんでも手に入った金持ちには、想像もつかないだろう?だからあんなに無神経な態度がとれるんだ。気持ちが、“貧しき人々”のこころがわかるなら、言葉を言うわけがない、あんな言葉を。
◇◆◇
はるひが何より嫌だったのは、いつもは自分を大事にしてくれる両親が、他の親の前や他の子供の前だと、急にはるひのことを悪く言うことだった。
『貴女のお子さんはすばらしいですね、それに比べてうちのはるひは――』
『――いえいえ、こちらこそうちの娘と仲良くしてくれてありがとう、不出来な娘だけどこれからもなかよくしてあげてくれ。』
お母さんとお父さんが媚びへつらったような顔で、子供のことを悪く言うのが嫌いだった。はるひにだってそれが他の家族とうまくやる為だなんてことは子供ながらに分かっていた。
でもそれをされるたび、心に暗い日差しが射すのであった。それをされるたび、いつも自分を褒めてくれる両親の態度が、言葉が、“嘘”であるように感じられるのだった。少しずつ、少しずつ両親への信頼という樹が内側から腐っていくのを感じるのであった。




