11-①. こゝろ - お母様とお父様、ママとパパ、とわたくし Mother and Father & Mommy and Daddy & I
ついにその時が来た。聖別の儀だ。ここで、おかあさまの望みを叶え、ついに、ついにおかさまにあいしてもらえる。……あぁ……!うれしい。この時をどれほど待ちわびたことか……!
それ以外なにが必要だと言うんだ。わたくしの人生に!お母様の愛情以外になにが!そんなものはない、この幸福に比すれば全てのものは虚しい!あぁ!!歓喜が押し寄せてくる……やっと、やっとだ……!
……産まれて初めて、おかあさまに――あいしてもらえるんだ!!
◇◆◇
「おかあさま……。」
アイは大変冷え込む夜だと言うのに、薄い寝巻きのまま彼の身体には大きすぎる枕を両手で何とか抱きかかえたまま、覚束ない足取りでとたとたと本邸まで歩いていく。
聖別の儀の前日に、眠れなくておかあさまに会いにきたのだ。会ってくれないことも、一緒に寝てくれることなど叶わないとは分かっていても。その望みを捨てきれないのだ。莫迦な子供であった。純粋で、愚かな子供であった。
◇◆◇
夜の暗闇にびくびくと怯えながら、なんとか母の執務室まで辿り着く、こんな甘ったれたことをしていると父に知れたら必ず拳と『男のくせに』という言葉と拳が飛んでくるので、そのことにも怯えている。その小さな身体には大きすぎる怯えを、今日までいつも抱えてきた。
ノックをしようとして、やっぱり帰ろうかしらと思って、でもでもと思い直し、やっぱり暗いのが怖くてもう帰れないと途方に暮れていたとき、ドアがゆっくりと開いた。すき間からの光が徐々に広がっていき、宵の闇の中にアイの白い肌を輝かせる。
執務室を出ようとしていたエレクトラが、いるはずのない息子の存在に気づいた。逆光でアイにはエレクトラが、どんな表情をしているか、どんな瞳で自分を見ているかが分からない。ゆっくりとエレクトラが手を動かし始めたので、いつものように殴られると身構えるが、決してそれをかわそうとはしない。余計に機嫌を損なうことが分かっているからだ。
頬に触れるのは、いつもの様に激しく熱い痛みではなく、やわらかくあたたかい感触。アイの右頬にふれる、エレクトラのあたたかい左手だった。
◇◆◇
「……どうした、アイ、こんな夜更けに、こんなところで。」
頭に降り注ぐのは穏やかな声。
「え、エレクトラさま……。」
おそるおそる右手でエレクトラの服の裾を掴み、何かを言おうとするアイ。
「明日は大事な聖別の儀だぞ?……眠れないのか?」
触れた手を弾かれることもない。アイは何時もと違う扱いに浮かれて、普段なら絶対に口にはできない、自身の穢れた身には過ぎた願いを、言葉にしてしまう。
「お、あかあさま、あ……あいは、わたくしは、おかあさまと……その……いっしょに……」
本人の前で、エレクトラさまではなく、おかあさまとよんでしまった、とアイが動転しているすきに、言葉をかけられる。
「おれと一緒に寝たいのか?」
「は、はい!」
もうどうにでもなれと、裾をつかむ手にぎゅと力を込めて、アイは勢い込んで答える。
「……ふむ。……。」
エレクトラが顎に手をやり何かを考えているが、依然として逆光で何を考えているのかさっぱり分からない。
「やはり……だめ、でしょうか……?」
ちらりと、自分より随分と高い位置にあるエレクトラの顔を仰ぎ見る。
「………………。……。いや、いいだろう。そう言えば、オマエと寝たことなんてなかったしな。それに、性別が決まるまでは、ゲアーターやシュベスターともよく一緒に寝たもんだ。こい。」
スタスタと振り返らずにあしばやに歩いていくエレクトラを、アイはちいさい歩幅で一生懸命追いかける。
「今日はオイディプスもいないし、ちょうどよかったな。アイツに知れたらまたぶっ飛ばされるところだったぞ。」
お話のなかでしか見たことのない、『お父さんには内緒よ』、といってお母さんがナイショで優しくしてくれるという経験に、アイは感動していた。
「は、はい、ありがとうございます。」
急に立ち止まった母の背中にぶつかって、母はびくともしないが、アイは尻餅をついてしまう。
「ここだ、ここがおれとオイディプスの寝室。こい。」
アイは産まれて初めて、両親の寝室の場所を知ったのだった。きょうだいのなかで、アイだけが、知らなかった。ほかのきょうだいはよくここで一緒に寝てもらっていたのだと思うと、ちいさな胸がちくりと痛んだ。
その間にエレクトラがさっと寝巻きに着替ていた。母の仕事服やよそ行きの服以外を見たのは初めてだった。そんなことを考えながら、ベットに座った母を茫然と見ていると、声をかけられる。
「なに突っ立ってんだ?早く来いよ。」
ぽんぽんとベットを叩く音が無音の寝室にやけに大きくひびく。アイは恐る恐る気分を害なさいように大きなベット端に、でも母に近づきたいと言う気持ちとせめぎ合って、人ひとり分の隙間を開けて座った。
「明日は大事な日だ。さっさと寝るぞ。」
初めて並んで横たわる母と子。子が望んだことで、母も了承したことなのに、何故かお互い居心地の悪さを感じていた。だからだろう、その気まずい静寂を終わらせるためだろうか、母が話題を作る。
エレクトラは自分でも信じられないほどアイに対して穏やかな気持ちだった。もしかしたら揺らぐちいさな灯りのみで、2人が薄暗闇のなかにいたのがよかったのかもしれない。やさしい闇が、母の嫌悪するアイの容姿を覆い隠していた。
◇◆◇
「……あぁ、なんだ。今日はどんな1日だった?」
普通の親子なら何百回と交わすであろう会話も、ふたりにとっては初めてだった。
「……本日は、ファントム先生に、儀式を上手く進めるための、さいごの心の講義をして頂きました。」
少しの明かりのもとでやわらかいベッドの上に横たわっていると、アイはふわふわとした気持ちに、エレクトラは落ち着いた心持ちになっていくのを感じていた。そうでなければ、子は怯えずに、母は怒らずにこんな会話をすることは不可能だっただろう。
「なるほど、アイツもちゃんと仕事をしてるとみえる。」
暗闇からお互いの声だけが聞こえる。
「ファントム先生とは古い仲なんですよね?」
「……。あぁ、ガキの頃からの腐れ縁だ。」
「春日春日様から伺ったのですが、おとうさまとエレクトラさま、春日さんとファントム先生、そしてあと1人いらったしゃったと……。」
「……そうだな。」
「それが誰か春日さんに聞いても、ファントム先生に聞いても、教えてくださらないのです。なぜなのでしょう?」
「……さぁな。」
「もしかしてそれが、“サクラ”という方なのでしょうか?」
遥かなる静寂が訪れた。アイはしまったと思った。ふわふわと眠気のうちに揺蕩って、微睡んでいたから、いつもより言葉もかるく、ふわふわと外に出てしまう。
「え、エレクトラさま……申し訳ありません。出過ぎた真似をしました……。」
静寂はただ薄暗闇に横たわっている。
「サクラってのは、“サクラ・マグダレーナ”、“マグダラのサクラ”のことだ。」
答えてもらえると思ってなかったアイは、呆気にとられる。
「あの女は、そうだな……糞に糞を煮詰めたような、人間野郎だ。生きながらえているのも烏滸がましいぐらいの、売女だ。それにあのビッチは人間体だ。それをいいことにいろんな奴と寝て、それで――。
……あの罪深き姦淫女のことを春日もファントムも話したがらねぇわけが分かったか?」
「は、はい。」
「マグダラのサクラは糞だ。それさえ覚えてりゃあいい。」
アイは母の言葉に、一般論ではなく何かを個人的な感情をみた。そして、おかあさまも何かひどいことを、そのサクラさんにされたんだろうか、と思った。
「そんなことより、聖別の儀の目的とお前がやるべきことを覚えているだろうな?」
「はい。今回の聖別の儀の目的は、わたくしの性別が自然に決まるよりも前に、人為的に確定させることです。
そして、儀式の相手にアニマ・アニマとして生きることを了承させた人間を用意し、わたくしは1番軍事的に有効価値の高いアニムス・アニムスとなります。
そしてこころをもつものでありながら、アニムス・アニムスという、象徴的にも武力的にも有用な息子となり、お母様がよりその権威と権力を確かなものにすることに人生を捧げることです。」
「分かってるならいい。おれにとって使える子供になれ。」
「はい。」
「よし……明日は早ぇんだ。さっさと寝るぞ。」
ベッドの反対側でおかあさまが反対を向いて寝る姿勢に入った気配がした。アイは決してこっちを向いてくださらない母親のおおきな背中を闇のなかでみていた。そして、ほんの少しだけ近づいて、母の方を向いて身体を丸める。決して抱きしめてはくれないと分かっていても、その背中が上下するたびに感じられる、母の息づかいを覚えていたかった。
口では母の気分を害なさい言葉遣いをして、こころのなかでほんとうに伝えたいことばを言う。
「お休みなさいませ、エレクトラ様。」
――おやすみ……おかあさま。




