10-②. こゝろ - 先生とわたくし Phantom in the Flower.
「はぁ……いや、まて、今日はお前に暗闇のなかを歩くすべを教えよう。」
急に肩に手を置かれビクッと反応する。
「……はい?先程のお話の続きですか……?」
「いや、先刻のように精神的な話ではない。実際に暗闇のなかを歩く方法だ。」
「はぁ……?わわっ」
背を押され先程の席に逆戻りする。
「これは卓越した広い心を持つもの達が、心者同士の戦いで使う手法だが、お前がこころもつものだというのなら、問題なく可能だろう。」
両肩に重みを感じ、耳の近くで話す声が聞こえる。
「心を形あるものとして現したことはあるだろう。まずはそれをやれ。」
「?……はい」
姉との思い出を追想し、幸せを桜色のふわふわした球としてお腹の前に現す。そして、それを愛おしそうに抱きしめる。肩にかかった指に不気味なほど強い力が込められるのを感じる。
「そうやって抱きしめていてもいい、だかそれをほどくんだ。少しずつでいい。」
「はい」
もの寂しく思いながらも、それを少しずつ広げていく。……が、しかしあるところで広がりが止まってしまう。
「これ以上は、どうすれば……?」
背中にファントムの手を感じる。
「心を開いていくのではなく、この部屋の隅々まで、“心を配る”イメージだ。」
螢の光が散っていくように、はらはらとアイの幸せが部屋を覆い尽くす。
「世界は物質で満たされている。一見そこには何もないように見えても、真空でない限り、そこには何かがある。その全てに“心を通わせる”んだ。」
桜色が空間に溶けていき、元の部屋に戻ったような感じだった。ただ、アイには分かっていた。中心に、其処此処に、そして部屋の隅に確かにアイの幸福があることを。そして、ファトントムがどこにいるのかさえ、手に取るように分かる。
「先生、これは――」
「私が今どこにいるか分かるか?」
声は後から聞こえる、だが。
「わたくしの、正面でしょうか?ちょうどすぐそばに。」
「そうだ。今はどこにいる?」
膝に触れる手を感じる、しかし。
「わたくしの真後ろ、少し離れたところに立っておられます。」
「そうだ。」
「何故このように、先生の居られる場所が分かるのでしょうか?」
「お前は今お前の感情をこの部屋の隅々まで行き渡らせている。その“感情が揺れ動く”ことによって、人の動きが分かるのだ。
これは、静止しているものは分からない者から、全てのことが完全に把握できる者など、使い手の練度よってその効果は違う。
そしてこれは“心を配る”技術だと呼ばれている。」
「心を……くばる。」
「心者同士の2者間の戦闘で、お互いが心を配ることができる場合、どうなると思う?」
「お互いが場を支配するために、“心の押しつけ合い”が始まる……ですか?」
「ああ、そして心で場を支配したものは当然相手の動きが読めて有利だが。心を配ることには、さらに滅法強い利点がある。
それは自分が事前に心を配っている場所ならどこからでも感情を具現化して、攻撃をすることができる。つまり自分の、そして相手の視界の外から不意打ちをすることができる、というわけだ。
この部屋なら例えば、今ならお前は四隅にも中央にも、私のすぐ後ろにでも心の刃を生み出すことができる。」
「つまり、心の押しつけ合いに負けた時点で――」
「――負けが決まる。というものでもないが、甚だ不利な状況を押しつけられることに変わりはない。だが、これに対する対抗策もいくつかあって、例えば心を自分の身体の周りに――」
◇◆◇
「本日も、ありがとうございました。」
「今度こそ本当に今日はここまでだ。さっさと出ていけ。もう目隠しをしていても、躓くこともないだろう。」
去り際にアイが問う。
「あの、先生。」
「何だ。」
「先生は……恋をしたことがおありでしょうか?」
「……。それについては考えるなと言ったはずだ。」
「わたくしは自身の恋など求めてはおりません、ただ先生の恋への嫌悪……若しくは執着といいましょうか。それは並々ならぬものです。それは、学問からくるものですか、それともご経験から?」
「……私は、“恋に酔って親友を自死に追い込む者”をみたことがある。その様は如何ともしがたく、何よりも醜悪だった。恋には、この世でいちばんうつくしいものを、醜く変える魅力がある。それを知っているだけだ。」
「先生の言う、この世界でいちばんうつくしいものとは?」
ファントムの返答の言葉には打ち捨てられ、うらぶれた物悲しさが在った。
「……山桜……そして……親友との、友情だ。」
――サクラ?
アイは隠された瞳の暗闇のなかで一瞬、ファントムが夏風に追いやられ、地に降り往く桜の花弁の只中にいるように感ぜられた。それは部屋中に配られたアイの心がそうさせるのか、それとも――。
ファントムが寂しそうにこぼす。
「……今も見るんだ、花に亡霊を。」




